「アライ」という言葉を聞くと、あるふたりの友人を思い出す。
Aは「自分自身を信用していないから、あらゆるカテゴリーをも信用できない。同性愛者と異性愛者とを区切るのもよくわからない」と言う人。Bは「自分が偏見を持ってしまいそうだということがわかっているからこそ、いろいろな知識を身につけようとしている」と言う人。ふたりとも、わたしの「レズビアン」というセクシュアリティを「単なる一要素」ととらえまるごとひとつの人格として受け入れてくれた。
共通の友人と付き合うことになったときも、片やAは「なんの驚きもありません。ふたりはおつきあいしてもおかしくないだろうと思っていました」と言い。片やBは「どうしてすぐに言ってくれなかったの!? しかもなんであなたの口からじゃなくてあなたの彼女から報告されることになったの!? Aにはちゃんと自分で言ってね!!」と言い。
ふたりは「アライ」という言葉を知らなかった。自分自身のことを「アライ」とは特に思っていないとも言っていた。けれど、ふたりはわたしにとっては一番の「アライ」だった。言葉を知らなくても。知識がなくても。ともだちのことをだいすきでいてくれれば、それだけでアライになれる。「アライ」という言葉すら、そこには必要ないと思う。
文学研究科卒業 さかもと