「関係ないよ」
加藤 真理子((元)大学職員、校友)
高校生のころ、私はカナダ・ケベック州で現地の女子校に通っていました。一学年90人ほどのちいさな学校だったので、学年の皆が知り合い同士。良くも悪くも密な関係にありました。
そんな90人のなかで、大きな身体つきと奇抜なファッションの影響か、群を抜いて目立つ生徒がいました。「彼女」はとても気さくな人で、唯一の留学生でフランス語にかなりのハンデを抱えていた私のことをよく気にかけ、可愛がってくれました。
ある日のこと、私はほかの生徒からこんな言葉をかけられました。
「マリコ、あの子は『バイ』だから気を付けたほうがいいよ。狙われちゃうよ」。
驚きました。こんなにも身近なところにLGBTの当事者が存在していたこと、そしてその当事者について、ニヤニヤ笑いながら面白半分に「忠告」してくるような人もまた、自分のすぐそばに存在していたことを。驚きのダブルパンチに動揺してしまい、その場では苦笑いをしてやり過ごすことしかできませんでした。残ったのは、言いようのない後味の悪さでした。
この後味の悪さは、一体どこから来たのでしょう。当時はわかりませんでしたが、今なら少しわかるような気がします。
私は小学5年生から中学1年生までを海外で過ごし、2年生に進級する際に日本の中学校に転入したのですが、「帰国子女」というラベルを貼られ(たように感じて)居心地の悪い思いをしていました。「日本人」になり切れない、「中途半端な日本人」のような気がして、自分は何者なのか、いつも考えていました。
考えて、考えて、考えて、ようやく出した答えは「自分は自分だ。『日本人』であるかどうかの前に、加藤真理子だ。それ以上でなければ、それ以下でもない」という、ごくシンプルなものでした。当たり前のことではありますが、きっと、自分自身でこの答えにたどり着けたことに、大きな意味があったのだと思っています。
高校生のときに覚えた「後味の悪さ」のルーツは、ここにありました。バイセクシュアルの友人を一個人として見るのではなく、「バイ」という枠に押し込んで面白おかしく話す別の友人に対する嫌悪感、そして、そんな友人に何も言い返せなかった自分に対する情けなさ。あのときの気持ちは、今も忘れることができません。
LGBT当事者でない私には、当事者の人の気持ちはわかりません。LGBTに限ったことではなく、そもそも他者の気持ちを簡単に「わかった」なんて言えない。だからこそ、対話を通してわかりあっていきたいと思うのです。「レズ」とか「ゲイ」とか「ストレート」とか、そういう枠を通り越して、一人ひとりが当然のように自分らしくいられる場所。多様性にあふれたそんな空間は、LGBT当事者ではない人にとっても、居心地のよい社会なのではないでしょうか。
もし、今、10年前のあの日に戻れるとしたら、私は友人に一言こう言いたいと思っています。
「バイかどうかなんて、そんなの関係ないよ」。