Waseda Institute for Advanced Study (WIAS)早稲田大学 高等研究所

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美術史学における技術革新主義と江戸時代中期浮世絵における「継続性」の意義
ブラーデル ザビーネ ソフィア 講師

ブラーデル ザビーネ ソフィア 講師

私は美術史学における技術革新主義を検証するため、江戸時代中期(1603~1868)にしばしば見過ごされていた浮世絵師の作品、経歴、ネットワークを研究しています。「革新主義」を再考し、浮世絵史を「継続性」の視点から考察することで、近世の芸術制作の実態についてより深く理解することが可能になります。このテーマに関して、浮世絵は、二つの理由から理想的な対象です。第一に、現在の浮世絵の理解と議論は、技術革新主義が隆盛した19世紀半ば以降の世界的な浮世絵受容に深く根ざしています。第二に、この受容から生まれた欧米中心的な言説は、近世日本美術全般の研究に影響を与え、広範に波及しているという点です。

欧米の言説では、「革新」という概念が技術的変化と結びつけられることが多く、浮世絵においては多色摺りの木版画に結び付けられます。通俗的な理解において、「革新」が特定の時点に起こり、特定の絵師に帰属されることは一般的です。従って、革新的とみなされる絵師はその時代の先導者と指定されます。しかし、革新が一個人に帰せられることは稀で、通常は多くの個人が関わり、長期におよぶ試行錯誤行った結果です。そのため、「革新」と関連付けられていない絵師の業績が、いわゆる「革新を起こした」絵師に帰属されることがあります。また、「革新」の時期に活動したすべての絵師が直接この「革新的」技術を利用していたわけでもなく、作品の購入者も「革新的な」絵をすぐに手頃な価格で手に入れられるわけでもありませんでした。

美術史学におけるこの革新中心主義的な思想の代表的な例は、1765年頃に起こった3・4色摺の「紅摺絵」から8色以上を使用する多色摺の「錦絵」への転換です。この転換の中心にいる絵師は鈴木春信(約1725~1770)で、彼は裕福なパトロンの支援を受けて高価な「錦絵」技術を大規模に活用した最初の絵師でした。そのため、多色摺技術の転換は、春信の作品にのみ関連して議論されることが多いです。しかし、春信は広範なネットワークの一部に過ぎなかったにもかかわらず、彼の著名な地位によって、他の絵師の業績は影に隠れてしまいした。私の研究では、この転換期に活動した紅摺絵を継続した絵師に焦点を当てます。彼らの作品とネットワークを追跡することで、彼らの業績を再評価し、多色摺技術の転換期における浮世絵の制作と消費の環境をより実態に即して考察することを目指します。 

(左)鳥居清満《清玄びくに 瀬川菊之丞》、宝暦12年頃(1762)、紅摺柱絵。シカゴ美術館(AIC), クラレンス・バッキンガムコレクション(1925.2843), Creative Commons Zero (CC0) Public Domain.
(右)鈴木春信《瀬川菊之丞 路考》(二代目瀬川菊之丞の清玄)、宝暦13年頃(1763)、紅摺柱絵。シカゴ美術館(AIC), クラレンス・バッキンガムコレクション(1925.2762), Creative Commons Zero (CC0) Public Domain.

グローバル文脈の中の浮世絵史

「浮世絵」は江戸時代に生まれたジャンルで、特に江戸の生活の儚い喜びを描写しています。主題には季節の祭りや流行の町人、歌舞伎役者などが含まれます。江戸時代において、浮世絵の歴史は大田南畝(1749~1823)の『浮世絵類考』などの絵師伝記を通じて記録され、南畝の原稿は明治期に至るまで何度も改訂されました。こうした絵師伝記に代えて「科学的」な方法を扱う現代の浮世絵研究は1870年代に欧米で発展しました。その頃、日本の美術は万国博覧会を通じて注目を集め、欧米のアーティストやコレクター、学者は、欧米の国立美術アカデミーの慣習と鋭く対立する浮世絵の鮮やかな色彩と構図に魅了されました。この日本美術への熱気は、ジャポニスムの前衛運動や、浮世絵史に関する最初の包括的な研究を引き起こしました。しかし、これらの研究者は非ヨーロッパの作品を解釈する方法と語彙を欠いていたため、既存の欧米的美学評価方法を適用しました。また、日本は1873年のウィーン万博に初めて産業国家として参加し、万博の図録の翻訳を通じて「美術」と「芸術」(応用美術)を区別する用語が日本美術史学に導入されました。

結果として、浮世絵は他の作品と同様に、ジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)や、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717~1768)、およびゲオルク・ウィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)によって徐々に醸成された歴史学の方法に基づいて分類されました。そうした歴史学視点では、それぞれの新しい段階は「革新」で始まるので、歴史家の視点から「原始的」な様式や造り方の段階は「出現」の段階として未熟だと見なされます。後の「古典的」な時代が「黄金時代」に達し、最終的には「衰退」に至るという典型的な欧米の考え方が標準的な理解となってしまいました。

研究の背景と範囲

この革新中心の視点の落とし穴は、私が日本学と欧米美術史を専門とする大学院生として鈴木春信の作品を研究し始めたときに明らかになりました。春信は多色摺技術(錦絵)を大規模に使用した最初の浮世絵師で、裕福なパトロンの支援を受けて3年間その技術を独占していたと考えられています。春信の数百点に及ぶ遊び心あふれる構図は、魅力的な町人を描きながら歴史的および文学的なモチーフに巧みに触れ、浮世絵史の偉大な革新者とされています。これらの錦絵は春信研究の中心となり、私も魅了されました。しかし、春信の絵師としてのキャリアは、実際には紅摺絵技術を用いた歌舞伎役者絵や白黒の絵本から始まりました。これらのメディアは以前「原始的」と見なされ、革新中心の言説では「重要でない」と周縁化されていました。ただ、なぜこのような「二流の作品」を発表する春信が錦絵技術への優先的なアクセスを得られたのか疑問に思い始めました。

この疑問を持ちながら、私の東洋美術史学における博士論文を執筆しました。そこで、春信が1760年のデビューから1765年の錦絵時代の始まりまでの5年間に発表した作品を調査し、彼の職歴構築戦略やネットワーク、活動環境が構図や版画の創作方法に与えた影響を研究しました。その結果、春信に帰属される「革新」のいくつかの様式的・形式的表現は必ずしも彼自身の創作によるものではないことが明らかになりました。却って、それらの様式上の手段は彼のデビュー前に現れ、複数の絵師に利用されていたトレンドの一部でした。春信にばかり着目することで、こうした先達の絵師の業績だけでなく、同時期に活動する、類似のキャリアを追求する絵師の職歴も影に隠してしまいます。

北尾重政《白拍子真菰の前 市村羽左衛門》、明和4年(1767)、細判紅摺絵、シカゴ美術館(AIC), クラレンス・バッキンガムコレクション(1928.892), Creative Commons Zero (CC0) Public Domain.

その絵師らが春信の錦絵の独占期にどのような浮世絵を制作したのかはまだ調査が不足しています。浮世絵の歴史において、彼らの一部は数年後に自らの錦絵で再登場したが、別の絵師に関する記録があまりないため、全く版画制作を放棄した絵師もいたはずです。同様に、錦絵印刷は当初、高い制作費のため限られた人の高級品でしたが、徐々に市場性のある商品へと変化しました。しかし、当時の浮世絵の商業出版社がこの新技術にどのように対応したのかは不明な部分が多いです。また、彼らの中で新技術に投資できた者や、紅摺絵技術を使い続けた者、高い制作費に苦しみながら錦絵の需要に応えられずに破産した者の数もこれまであまり研究されていませんでした。加えて、初期の錦絵制作の価格上昇の版画購入者への影響もほとんど考慮されていません。

これらの疑問に基づく私のWIASでの研究は、「革新」よりむしろ「継続性」を通じて浮世絵の制作を検討し、春信以外の錦絵印刷技術への道を開いた絵師の職歴や、初期錦絵制作の背景にある浮世絵史を明らかにすることを目的としています。早稲田大学の学際的な環境と優れた研究コレクションの中で、私はこれらの疑問に答えていきたいと思います。それによって、より包括的な浮世絵の歴史の発展を描き出すことを目指しています。

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