- 鈴木正信(Masanobu Suzuki) 准教授(2014年11月当時)
古代の氏族や祭祀のあり方を探る
私の専門は、日本の古代史です。主な研究テーマは、古代日本の国家や氏族の実態を明らかにすることです。当時の日本では、祭祀(神を祭ること)が政治に直結していました。そのため、古代の氏族がどのような祭祀を行っていたのかを明らかにすることが、「日本」という国の成り立ちを知る上で不可欠だと考えています。現在は、奈良盆地の南東部に位置する日本有数の古社「大神(おおみわ)神社」と、その祭祀を司っていた「大神氏」という氏族に着目して研究を進めています。
大神神社は、三輪山という山のふもとにあります。この神社の一番の特徴は、本殿をもたない点です。大神神社では、三輪山に住む神を祭っているため、あえて本殿を造らず、拝殿から山そのものを拝むのです。これは、神社に社殿がつくられるようになる以前の古い信仰形態と考えられています。

図1,2 古い信仰の形を留める大神神社(提供/鈴木正信准教授)
古代史研究を始めたきっかけ
私が歴史に興味をもったきっかけは、家に代々伝わる、一族の家系図を見せてもらったことです。私はそれまで、家系図とは大昔の人々の記録であり、自分には関係がないものと思い込んでいました。しかし、実物をひも解いてみると、連綿と続く系譜の最後に自分の名前が記されていました。この時、自分もいつかは「歴史」を構成する一員になるのだと実感し、過去と現在との「つながり」に興味をもつようになりました。
三輪山という場所を研究対象に選んだきっかけは、早稲田大学名誉教授の水野祐先生のご著書を読んだことです。水野先生は、「天皇家は万世一系である」という戦前の考え方を否定し、「王朝交替説」という新しい学説を提唱されました。この説では、古代の天皇家が断絶・交替していた可能性が示されています。さらに、日本最古の王朝である「三輪王朝」が三輪山周辺に存在し、大和王権の最初の形を築いたと述べられています。現在の研究水準からすれば、再検討すべき点も多いのですが、水野先生の古代史研究には、まるでパズルを解くような面白さがありました。その後、大学院に進学し、博士論文の審査では、新川登亀男先生、川尻秋生先生、篠川賢先生にご指導いただきました。いつかは上記の先生方のように、自分なりの世界観で、歴史を繊細かつダイナミックに描きたいと思っています。
大神神社と大神氏の関係
古代の政治の中心地は、藤原京、平城京、平安京などに代表される都城でした。しかし、都城が築かれる以前、特に五世紀後半から六世紀代は三輪山周辺が政治の舞台でした。この山は「神奈備(かんなび)型」とよばれる円錐形の美しい形をしており、古くから神が住む山として信仰されていたと考えられています。
三輪山の神は、名前を「大物主神(おおものぬしのかみ)」といいます。この神は、樹木の神、雷の神、蛇の神、軍隊の神、国家の守護神など、複数の性格をあわせもっているのが特徴です。従来の研究では、三輪山での祭祀は天皇によって行われており、のちに大神氏に任されたと考えられていました。しかし、歴史書の記述や、祭祀に使用された遺物の分析から、私は少なくとも五世紀末頃から天皇家が大神氏に三輪山の神を祭らせる、いわゆる「委託型」の祭祀が行われており、こうした体制が八世紀以降にも引き継がれていったと考えています。

図3 大物主神が住む三輪山(提供/鈴木正信准教授)
三輪山での祭祀を担うことで大神氏は力をつけ、東日本・西日本に勢力を拡大しました。朝鮮半島への遠征にも従軍しました。これらの軍事行動の際には、船の舳先に三輪山の神を祀りながら航海し、出征先で祭祀を行うこともあったようです。こうして三輪山の神の信仰が全国に広まるとともに、大神氏と関係する氏族も各地に分布していきました。
大神氏と祭祀の盛衰
三輪山の山中・山麓からは、実際に祭祀が行われていた痕跡が多数見つかっています。「山ノ神遺跡」という遺跡からは、1.8m×1.2mの巨石を中心に、合計六個の石で構成される磐座(祭祀の際に神が降臨する場所)が出土しています。主な遺物には、滑石製模造品、土製模造品、須恵器、子持勾玉などがあります。これらの出土品が祭祀に用いられていたことは間違いないでしょう。特に須恵器については、お供え物の神酒を注ぐ器として使われていた可能性が高いと考えられます。子持勾玉は、大きな勾玉の周りに小型の勾玉を取り付けた特徴的な形をしており、三輪山周辺から集中して出土しています。

図4 山ノ神遺跡。様々な祭祀遺物が出土している。(提供/鈴木正信准教授)
祭祀遺物は七世紀頃から減少し始めます。これは、三輪山での祭祀が衰退したというよりも、新しい祭祀の形へ変化していったためと思われます。七世紀後半から、政府は「律令」という法律によって国家を運営することを目指すようになります。こうした律令国家の成立にともなって、三輪山での祭祀は、国が年間を通して実施する祭祀の一つとして位置づけられるようになっていったと考えられます。
私は、古代における氏族や祭祀のあり方を、これまでの研究者が用いてきた歴史書や古文書に加えて、系譜・系図史料に注目して、体系的に捉える試みを行っています。例えば、「大神朝臣本系牒略(おおみわのあそんほんけいちょうりゃく)」という系図には、「オオタタネコ」という伝承上の人物が大神氏の始祖として書かれています。さらに、オオクニヌシやスサノオなど、神話に登場する神々も祖先として登場します。大神氏の中で、歴史上もっとも力をもっていたのは「逆(さかう)」という人物です。彼は敏達天皇に重用されましたが、物部氏によって殺されてしまいました。その後はしばらく低迷し、壬申の乱で戦功をあげた「高市麻呂(たけちまろ)」の代に、再び政治の表舞台に出るようになります。そして、奈良時代以降は大神神社の神職を継承していきました。

図5 鈴木正信准教授の主要著作(提供/鈴木正信准教授)
グローバルな研究者を目指して
古代の系譜・系図には、神や天皇から始まるものが多くみられます。有力な他の氏族との関係が示されている場合もあります。当時の日本では、天皇家と氏族が、あるいは氏族同士が政治的な同盟を結ぶ際、その関係を血縁になぞらえて、系譜・系図として示すことが行われていました。それは、現代の我々にすればフィクションに過ぎませんが、当時の氏族にとってはきわめて現実的な問題であり、重要な意味がありました。ですから、古代の系譜・系図を分析することで、古代の国家がどのように形成されたのか、その過程で各氏族がどのような活躍をしたのかを知ることができるのです。
今後は、古代の系譜・系図の研究を体系化するとともに、海外にも目を向け、アジアにおける日本の位置づけや、他国との交流にも視野を広げていきたいと思っています。また、英語での研究発表や論文執筆にも取り組み、研究成果を世界に向けて発信していきたいと考えています。
取材・構成:青山聖子/秦 千里/濱口翔太郎
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School