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帝国の「あいだ」を新たな視点で読み解く―カザフ遊牧民を例に 野田仁 准教授(2014年6月当時)

  • 野田仁(Jin Noda) 准教授(2014年6月当時)

カザフの地とカザフ遊牧民 ― 「カザフ=ハン国」の歴史

私の専門は中央アジア史です。中央アジアの定義は多様ですが、私の理解では、中国の北西に位置する新疆ウイグル自治区と、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスの旧ソ連5か国にまたがる地域をさします。

私は現在、中央アジアの中でも特にカザフスタンの歴史を研究しています。カザフスタンは、国土の大部分が広大なステップ地帯で、かつてはカザフ遊牧民が遊牧生活の拠点としていました。彼らは15世紀以来、「カザフ=ハン国」と呼ばれる独自の遊牧政権を形成してきました。この国は、19世紀前半になって解体の過程をたどり、19世紀後半には、清朝(中国)の領域にいる一部のカザフ人を除いて、大方はロシア帝国に併合されます。地理的にロシア帝国と清朝の間に位置していたということが、この国の重要な特徴の1つです。私の研究では、このカザフ=ハン国の18~19世紀の歴史に焦点を当てています。 カザフ=ハン国は、多様な遊牧集団が興亡を繰り広げた中央アジアにおいて、最後まで存続した遊牧民の政権でした。したがって、モンゴル帝国以降の中央アジアの歴史を把握するうえで、カザフ=ハン国史は重要な位置を占めていると考えています。

図1: カザフ遊牧民の夏営地(新疆ウイグル自治区 伊犁哈薩克自治州)(提供 / 野田仁准教授)

カザフの移動性 ― 国境の枠組みにとらわれない研究へ

カザフ=ハン国のもう1つの重要な特徴は、その構成員であるカザフ遊牧民の移動性にあります。彼らのこの性質をふまえて、カザフ=ハン国史に関わる先行研究の問題点を指摘することができます。

単純な歴史的事実としては、18~19世紀はカザフ=ハン国を含む中央アジアが、ロシア・清2つの帝国に支配されていき、併合されていく時代です。帝政ロシアが倒れた後、その領土はソ連に引き継がれ、カザフは地図の上では当然ソ連の国境内に位置することになります。ソ連時代になり本格的に歴史研究が始まって以来、主にソ連という領土的枠組みの中で歴史が考察されてきました。
しかし、カザフ遊牧民はロシア・清両帝国の国境を越えて移動を繰り返していました。19世紀後半にロシア帝国と清朝が条約を結び、国境が画定してからも、カザフの移動は1960年代頃まで続きました。したがって、カザフ=ハン国史は現代の国境という枠組みの中では正確に描けません。

中央アジアはもっぱら大国の支配のもとにあった地域ですので、カザフ=ハン国史も大国の視点から描かれてきたといえます。帝国の記した史料に依拠して研究が行われるため、その結果、帝国の支配論理の影響を受けてしまうのです。けれども実際には、大国の目から見た支配-被支配という関係では描ききれない、独自の歴史をそれぞれの民族集団が持っています。近年は、研究の潮流が変化してきており、少数民族の側から歴史を見るようになってきました。
カザフ=ハン国を中心に位置づけ、いかに歴史を認識し直すか。これが現在の私の主要なテーマです。

トライアングル・モデルによるカザフ=ハン国史の再構築

大国の視点から自由になり、カザフを主体に歴史を見直そうとしたときには、史料の問題を考えなければなりません。カザフ自身が史料を残すことは稀でした。そのため、研究の方法としては、ロシア・清両帝国の残した史料を再検討することになります。その手法として私は、トライアングル・モデル(図2)を提唱しています。これは、ロシア帝国、清朝、カザフ=ハン国を3つの独立したアクターとして、各アクター同士の双方向的な関係(図中矢印A、B、C)を相対化するための方法です。

図2:トライアングル・モデル(提供 / 野田仁准教授)

18~19世紀は、盛んに外交交渉が持たれた時代でした。最終的にロシア帝国に併合されるまでの過程で、カザフ=ハン国が主体的に交渉をしたり、政治的にバランスをとったり、駆け引きをしたりしていたということが、彼ら自身の文書としては残っていなくても、ロシアと清が残した史料の中に書かれています。具体的にどのように史料を分析するかというと、ロシア帝国側の理屈で取られた記録の内容と、同じ事象について清朝の側が彼らなりの理屈で記した内容を比較し、事実を抽出します。そうすることで、実際にはどのようなことが起こったのか、特にそれがカザフ=ハン国にとってどのような意味を持っていたのかということを読み解いていきます。さらにそこから、カザフ自身の意図や行動も見えてくることになります。

トライアングル・モデルにおいて私が最も重視している点は、カザフ-清朝間の関係(A)、カザフ-ロシア間の関係(B)のみでなく、ロシア-清朝間の関係(C)にも注目するということです。Cの関係はこれまで、カザフの研究においてほとんど注目されてはきませんでした。一見関連がないように思えるからです。しかし実際には、ロシア・清間の交渉や書簡のやり取りの中で、カザフに関してそれぞれの主張が展開されていました。このCの部分に断片的に存在するカザフに関する記述を、A、Bに関する史料の記述と統合することで、カザフ=ハン国がどのような存在だったのか、両帝国からどのように扱われていたのか、カザフ自身は何をしようとしていたのかなどがわかってくるのです。

図3:(上)文書史料 ロシア語

図3:(中)文書史料 満州語

図3:(下)文書史料 テュルク語。

数は少ないが、カザフが残した文書史料も存在する。(提供 / 野田仁准教授)

このトライアングル・モデルは、2つ以上の大国のあいだに位置する小国や少数派集団の歴史を考察するにあたり、さまざまな事例に応用できると考えています。例えば、イランとロシアのあいだに位置するグルジアや、過去の例としては、日本と中国のはざまにあった琉球王国の事例も、このモデルで考察することが可能でしょう。

中央アジア諸民族の民族意識とは?

「カザフ人」という概念は、とても新しいものです。モンゴル帝国の時代、モンゴル人はかなり広範に支配を展開し、各地で現地の人々と混血していきました。カザフの地においては、過去のこうした歴史を含む流れの中で、現在の「カザフ人」というものができてきたのですが、そのルーツは一口に説明できるものではありません。
またカザフ人は、国家への所属意識に関しても、極めて希薄だったといえます。いずれかの国家への帰属意識を持つようになったのは、国境が画定した後のことです。
私は今後、トライアングル・モデルを活用して、カザフだけではなく、ウイグル、キルギス、トゥンガンなどの中央アジアの諸民族の、民族意識、帰属意識の形成過程を解明していきたいと考えています。

私の研究は、狭く言えばカザフスタンやカザフ人の歴史を研究しているということになりますが、実際にはそれだけではなく、カザフを通してユーラシア大陸という広大な世界のことを知ることになります。この点に、私自身、最も興味をひかれていますし、この研究の可能性を感じています。

取材・構成:押尾真理子
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School

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