- 小高敬寛(Takahiro Odaka)助教(2011年7月当時)
「考古学」という学問
私の専門は「考古学」です。考古学というと、恐竜の化石なんかを掘っているんじゃないかと思われることがよくあるのですが、考古学はあくまで「人間」を対象とする学問です。
過去の人間活動を知るためには、遺跡や遺物のような物質的な痕跡が重要な資料となります。物質的痕跡から人類の過去を探るのが「考古学」であり、その資料収集のための代表的手法が「発掘」というわけです。
人類発展の地・近東
私が研究対象としている近東地域は、人類史上とても重要な場所だと言われています。
500~600万年ほど前、アフリカ大陸の大地溝帯で誕生した人類が、他の大陸に拡散していく際に通ることができた唯一の出口が、この近東地域でした。
その後、長い間遊動しながら自然にあるものを収奪して食糧を確保する「獲得経済」を営んできた人類が、自らの手で食糧を作り出す「生産経済」へと転換し、やがて都市や文明を築くに至る。そのような一連の革新が起きたのも、この近東でのことと考えられています。
学部生の時、偶然シリアでの発掘調査に参加する機会を得て以来、私はこの近東世界での人類の発展、特に新石器時代の生産経済の完成から都市形成期への移行過程についての研究をつづけています。
そのために私が用いている資料のひとつが「土器」です。
土器は、それぞれが形や使われた技法、表面の装飾などの多様な属性を持ち、しかも遺存しやすく大量に収集できるので、細かく分類することができます。そのため、編年や考古学的文化の示準、つまり「時空間のものさし」としてよく利用されます。
近東地域で土器製作が開始されたのは、放射性炭素年代測定により、紀元前7000~6600年頃、考古学的には「後期新石器時代」と呼ばれる時期だということがわかっています。農耕牧畜の発生をはじめ、人間社会が複合的な変化を起こして新たな生活様式へと移り変わる過程、すなわち「新石器化」の最後を飾るようにして、土器は現れました。
農耕牧畜がはじまったのは、トルコ南東部からシリア北部あたりの山間・山麓と言われていますが、後期新石器時代以降になると、シュメールやアッカドなど、それ以前には人間活動の痕跡がほとんど見つかっていない低地からも土器が出土するようになります。
つまり、土器を追うことで、新石器文化がどのように他地域に拡散して行っていったかを知ることができるというわけです。
テル・エル=ケルク遺跡と土器の興隆
常木晃・筑波大学教授の指揮の下、私たちが発掘を続けているシリアの「テル・エル=ケルク遺跡」は、近東でも最も古い土器が出土する遺跡のひとつです。このあたりは「北レヴァント」と呼ばれる、早い時期に農耕牧畜が発展した地域で、テル・エル=ケルクも初期農耕民の残した遺跡と考えられています。
テル・エル=ケルク遺跡から発掘される土器の中でも最も古いタイプの土器を、私たちは「ケルク土器」と名付けました。ケルク土器は鉱物が混和されて暗色であるなど、その後盛んに作られる「暗色磨研土器」との共通点が多く、暗色磨研土器の古いタイプがケルク土器であると考えられています。これらの作りの良い「精製土器」と呼ばれるタイプの土器に加え、テル・エル=ケルク遺跡では作りが粗い「粗製土器」というタイプの土器も発掘されており、北レヴァントではかなり早い段階からこの二種類の土器を使い分けていたことが伺えます。

図1 ケルク土器(左)と暗色磨研土器(右)(提供/小高敬寛助教)
ところが、ケルク土器と似たような土器を同じ年代に使っていた北メソポタミアの山間や山麓では、時代が進むに連れて徐々に粗製土器が多くなり、やがて精製土器は完全に姿を消してしまいます。土器誕生の後、農耕民はそれまで開発が進んでいなかったメソポタミア平原へと広く展開することになるのですが、そこでは精製土器と置き換わった粗製土器が使われていました。このことから、各地へ拡散していく人々の出自は古い段階から分かれており、それぞれが「地域性」を持っていたことがわかるわけです。
もうひとつ、このテル・エル=ケルク遺跡で重要な発見がありました。
土器が誕生する直前の時期の地層から、貯蔵用らしき「器」を備えた倉庫らしき施設が見つかったのです。この「器」は施設自体に造り付けてあり、焼成もしていませんし、もちろんケルク土器とは似ても似つきません。土器誕生以前に作られた「器」の発見は、近東最古の土器は貯蔵を目的として作られたという、従来の説を覆すものでした。
この地域で土器が生まれた本当の理由は、まだ明らかではありません。現時点では、何か特定の機能や用途を目的として作られたわけではなく、動かせることによって容器が様々な機能や用途を持ったこと、それ自体が重要だったのだと推測するしかありません。大事なのは、現代に生きる我々の見方を押し付けるような、性急な用途論・機能論を適用してしまわないことなのです。

図2 655号遺構・先土器新石器時代B期後期の倉庫址(提供/小高敬寛助教)
世界のいまを知るために
「なぜ日本人なのに、近東などという遠い場所の歴史を研究しているのか?」これもよく受ける質問です。
日本だけではなく、各国の研究者たちが近東地域の遺跡を調査してきました。これは前述のとおり、この地域が人類史上重要な場所であるからですが、この「重要」という意味は、単に過去に起きた出来事が革命的だったからというだけではありません。
1万年以上前に近東地域で誕生した西アジア型農耕は、現在は世界中で営まれている経済活動の原型となりました。同じくこの地域で生まれた一神教はいくつかの宗教へと分かれ、多くの信者を抱える世界宗教へと発展しました。我々の生きる現代社会は、近東を発信源とする社会変化の上に築かれているのです。
逆に言えば、現代社会が抱える問題の根をたどれば、農耕牧畜の誕生に行き着くとも考えることができます。だからこそ、我々は人類の歩んできた歴史を知る必要があり、そのためにも、この近東地域で起きた人類の変化を調査することが重要なのです。
土器を分類して、時代や地域ごとに並べる。それは一見、意味のない作業のように見えるかもしれませんが、このような基礎的な積み重ねがなければ、過去の出来事を正確に証拠づけることはできません。ですから私の仕事は、この世界を顧みるのに必要な「ツール」を作ることなのだと、私は考えています。
取材・構成:吉永大祐
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School