新たな視座から「昭和期日本の文化政策」を語る
私は、「昭和期日本の文化政策」に興味を持っています。戦時期、占領期、戦後復興期の文化政策を通して、「昭和」という時期がどのように経験され、語られたのかについて研究したいと考えています。最近のマスメディアや日常生活における大衆文化を見渡しますと、「昭和」は、もうすでに「歴史」として語ってもよい時代となってきたのではと感じられます。
また、当時の文化政策のことですが、日本でインタビューをしてみると、「日本に文化政策なんてあるの?」とおっしゃる方々がたくさんいます。多くの方が「文化というのは自然にできるもので、そこに政策が入ると歪んでしまう」という考え方を持っているようです。私は歴史を専門としているものとして、「昭和」という激動期に改めて注目し、特に、文化政策を通して、当時を生きていた人々の経験や目線からもう一度見直してみたいと思いました。
今回の発表では、まず、戦時期行われた文化政策に焦点を当ててみたのですが、それは、戦後になって形成されてきた、戦時期へのイメージや思惑を新たな視座から語ってみたいと思ったからです。
資料が語る文化政策の内容とは
戦時期日本政府は、国家総動員の一環として国民文化運動を行いました。政府は何を目指しており、また、文化運動に関わった知識人や、国民、芸能人はどのような思惑、期待を持って参加したのでしょうか。私たちは、戦時期日本は、文化の享受が許されない「暗い谷間」であり、政府は文化活動を全面的に統制したと考えがちですが、そう簡単には言い切れない部分があるのではと思います。全国的に展開された移動演劇運動は、当時の国家/社会関係を理解するのに面白い一面を語ってくれます。移動演劇は、「東宝移動文化隊」や「くろがね隊」など、様々な演劇団体によって行われ、全国のどこかで1日2~3回は行われるほどの公演数と観客動員力を誇りました。政府が推進した文化活動というと、堅苦しいテーマのものだと思いがちですが、実際に行われた演目をみると、漫才・落語、コメディーなど、楽しめるものが多いのです。そういった演目の中に、「生産力向上」など、戦時期に重要視されるテーマを織り交ぜていました。どのようなテーマが中心となるかは、その公演のスポンサー(「産業報国会」や「農村振興会」など)によって違いました。こうした移動演劇運動の様子は「現地調査報告書」という資料の中で詳細に記録されています。私が見つけたのは10通ほどです。因みに、移動演劇の他にも、職場などで仕事人が自ら舞台に上がる「素人演劇運動」もありました。

東宝移動文化隊の公演の様子を伝える当時の雑誌 (出典/『東宝10年史』)
重要なのは、「見たり」「演じたり」するうちに、国民は、「協働、節約、秩序、公のための私の犠牲」など、国家のイデオロギーを体化していったということです。また、演じる前後にも、人々は集団で「団体練成」を行ったり、観客との交歓会を通じて、戦時期にふさわしい「国民像」を習得し、国家目標を再確認することができたと言えます。つまり、単なるイデオロギー伝達だけには終わらなかったということです。もちろん、その中には、「戦争の話をしている真剣な時なのに、観客は格好いい俳優に夢中になっている」などの批判的な記述もあり、必ずしも理想的な行動だけが見られたわけではありません。
とはいえ、文化享受の機会が少なかった一般の国民にとって、国民文化運動は「福祉」として受けとられたのでしょう。戦時期、生産力向上のための重労働から少し逃れる休憩の場、そして、それまで農山漁村ではあまり見られなかったものを、ほとんど無償で楽しめる場として考えていました。それは、戦時期総動員においては何より大切な吸引力として作用したと思います。しかし、その背景には、小さなトラックの上に大小道具を載せ、悪天候の時でも、病気にかかっても、各地を回りながら、演技を披露し、舞台設置や、地方人との交流活動をまで担当していた、当時の“売れない俳優”たちの重労働があったことを忘れてはいけないと思います。
文化政策史研究のこれから
戦争を経験していない私たちは、マスメディアや、学校教育などを通じて、戦時期に関するナラティブ(物語)を再生産してきました。しかし、実際に、「史料」をどれほど綿密に読み、また、当時を生きていた人々の経験を理解しようとしたのか改めて考えてみる必要があるように思います。戦時期の文化運動を、単に政府から強いられたものと判断するのではなく、それを可能にした動因は何であったのかについて今後も考えていきたいと思います。
取材・構成:青山聖子/松田香織里
協力:早稲田大学大学院政治学研究科MAJESTy/J-School