- 河合望(Nozomu Kawai) 准教授(2013年12月当時)
小学生からの夢 -古代エジプト研究
私がはじめて古代エジプトに出会ったのは、小学1年生のときでした。ツタンカーメン王に関する当時のテレビ番組を見て子供心が大きく動かされ、エジプト学者になりたいという夢をもちました。その後、幸運にも恵まれ大学院時代に念願のツタンカーメン王の治世に関する研究に従事することができ、今日も古代エジプト文明の研究を続けております。
古代エジプトにおける祭祀儀礼の研究
古代エジプトは、アフリカ大陸の北東に存在した世界で最古の領域国家です。
古代エジプト史はとても古く長いもので、紀元前3100年頃に初期王朝が誕生して以来、紀元前332年まで続きました。その長い古代エジプト史は主に、初期王朝時代、古王国時代、中王国時代、新王国時代に区分されます。有名なクフ王や大ピラミッドは古王国時代のもの、もっとも有名なファラオであるツタンカーメン王の時代は古代エジプトの黄金期である新王国時代だと知られています。
世界で初めて広大な領土をもつ国家が誕生し、長い歴史を築いた古代エジプトを知ることは、人類史や文化を解明するためには非常に重要です。
エジプト学の研究はナポレオンがエジプトに遠征したときに始まりました。それをきっかけに現在に至ってもさかんに研究が行われています。19世紀以来の伝統的な古代エジプトにおける文明の研究は、それまでの研究功績である膨大な文字資料と図像資料をもとに紐解いていくという方法が主流でした。しかしながら、その方法だけでは当時の理想な考え方に支配されがちなので、必ずしも現実を反映したものではないという問題点があります。そのため、発掘調査で明らかになる考古資料も含めて総合的に研究する手法が必要です。特に、宗教活動である祭祀儀礼の実態を知るには、それが有効です。
中王国時代のアブ・シール南丘陵での祭祀儀礼の解明
私の研究の一例として、アブ・シール南丘陵遺跡で発掘した証拠から中王国時代の祭祀儀礼の詳細を明らかにした研究を紹介します。
アブ・シール南丘陵遺跡は、アブ・シールとサッカラの墓地遺跡の間に位置する聖なる丘として知られています。私は2001年から早稲田大学古代エジプト調査隊のアブ・シール南丘陵遺跡の発掘調査主任として、ここの発掘調査に携わっています。アブ・シ―ル南丘陵遺跡は初期王朝時代から新王国時代(紀元前2700年~紀元前1200年)までいくつかの時代に渡って使われた場所ですが、中王国時代(紀元前2000年頃)にはこの場所で祭祀儀礼の活動があったことが認められました。岩窟遺構前庭部では、供物を捧げたと思われる皿や器台が発見されたことからここで祭祀儀礼が行われていたと推測されました。続いて、岩窟遺構内部から中王国時代の王族の埋葬に特徴的な土器や祭祀用の土器を発見しました。
図1: 【上】アブ・シール南丘陵遺跡、【下左】祭祀儀礼の場、【下右】祭祀土器の廃棄跡。(©早稲田大学エジプト学研究所)
さらに、同じ岩窟遺構内部からライオン女神の土製像や「ウジャトの眼」と呼ばれる護符が出土し、ライオン女神の信仰があった可能性が高いことがわかりました。そして、それらを図像資料・文字資料の情報と併せてみると、ライオン女神は、太陽神ラーを信仰しない人間を破滅させる恐怖の女神と言われているバステト女神とセクメト女神であること、またウジャドの眼は太陽神ラーの眼であること、さらには二重冠である封泥陰影(「セケムティ」)は2つの神聖なる力(2柱の女神)を示していることが考えられました。
図2: 【上】ライオンの女神像と雌ライオンの横臥像、【左下】ウジャトの眼、【右下】封泥陰影: セケムティ。(©早稲田大学エジプト学研究所)
アブ・シール南丘陵遺跡で発掘された考古学的証拠と従来知られている図像資料・文字資料を組み合わせて考察することで、アブ・シール南丘陵では、中王国時代においてバステトとセクメトといった「太陽神ラーの眼」の性格を持つライオン女神の信仰を中心とする祭祀儀礼が行われていた可能性が高いことを実証的に示すことができました。
考古学研究の意義
私は考古学者の役割は2つあると思います。
1つ目は、自分で苦労して発見したものを単なる発見で終えるのではなく、学術的な報告書や一般的な書物に残すことで、学界に寄与し、社会一般の人々にも知的な関心を広めることです。2つ目は、ただ研究だけを行うのではなく、文化財・文化遺産として正しく修復・保存し、次の世代に伝えていくことです。
現在は「考古学=宝探し」の時代ではありません。考古学研究を通じてどのように社会に貢献するのか、この命題を意識しながら、今後も考古学研究に取り組んでいきたいと考えています。
取材・構成:青山聖子/吉戸智明/松田翔風
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School