政治経済学術院准教授 田中 久稔(たなか・ひさとし)
幼い頃に住んでいた栃木の家の周囲には、見事な雑木林が広がっていました。土の道を歩くアオオサムシの青緑色の背中や、木々の間を飛ぶベニシジミのオレンジ色の航跡、遠くを横切るホンドイタチの俊敏な黒い影など、多くの生命に満ち溢(あふ)れた賑やかな場所でした。その森で何か綺麗(きれい)な生き物を見つけるたびに、それを家に持ち帰り、虫かごに入れて飽かず眺めていました。
小学5年生のとき、一人の同級生に、本格的な趣味としての昆虫採集を教わりました。まずは「酢酸エチル」という揮発性の薬品を綿に含ませ、それを「毒瓶」と呼ばれる専用のガラス壜(びん)に入れるのだそうです。採集した昆虫は、虫かごではなくその毒瓶の中に放り込むのです。そうすれば、哀れな昆虫は薬品の作用により体が柔らかいまま死ぬので、標本作成が容易になります。「展足板」というコルク板の上で「昆虫針」を使って整形した標本が十分に乾燥したら、採集日や場所を記したラベルを付けて、「インロー箱」と呼ばれる桐製の箱に納めます。これで、何百年の後にも残る立派な昆虫標本の完成です。その一連のやり方や、道具類の入手の仕方、県立博物館を利用する方法までを、その同級生は親切に教えてくれました。
彼は途中から昆虫ではなく化石や岩石を蒐集(しゅうしゅう)する方に進みましたが、私はその後も一人で昆虫採集を続けました。学校から帰るとすぐに採集用具を入れたカバンを背負い、雑木林の中をひたすら歩き回りました。早稲田大学に進学して生物系のサークルに入るまで、私はいつもあの森の中で一人きりであったような気がします。
それぞれ筆者のコレクションより。(左から)アフリカのムネアカセンチコガネ、ヨーロッパのツノセンチコガネ、アメリカのニジダイコクコガネ
現在の私の研究室には、こうして集まったたくさんの昆虫標本を収めた棚が置かれています。毎日の夕方、その日の仕事が終わった後に、コーヒーなぞを飲みながら標本箱を眺めたり、新しい標本を作ったりしています。故郷の森は今ではきれいに切り拓(ひら)かれ、無個性で乾燥した宅地に変わりました。ひとはそれを「経済成長」と呼んでいます。あの森に住んでいた小さくて綺麗な生き物たちも、森と一緒に全て死に絶え消え去りましたが、私の手元の箱の中には、かつて彼らがそこに存在していたことを示す微(かす)かな痕跡が残っています。