「学校社会」を川の流れにたとえるなら、その最後に控えている大学とは、川が河口へと至って淡水と海水が入り混じる、いわば「汽水域」のようなものだ。
同じ学校といっても、大学は高校までと比べてはるかに自由度が高い。学生たちは勉学以外にも、文字通り「水を得た魚」のように、サークル活動にアルバイトに恋愛にと、最後の学校社会での自由を謳歌(おうか)するのだろう。
他方で大学は、「実社会」にもっとも接した場所でもある。とりわけ就職活動を経験するなかで、淡水に馴染(なじ)んできた魚たちもはじめて海水の洗礼(塩っぱい!)を受けることで、少しずつ世の中のなんたるかを知ってゆく。そして、やがてこううそぶくようになるかもしれない。曰く、「大学なんて甘すぎる」と。
このような、「学校ではきれいごとを言っていれば済むが、『実社会』はきれいごとでは済まない」とする見方を、森岡孝二は「実社会イデオロギー」と呼んで批判した(『就職とは何か』、岩波新書)。私もまたそう思う。この見方のなにが問題かといえば、じつは企業社会の論理(利益・効率優先)「だけ」を内面化したに過ぎないのに、それをあたかも「実社会」のすべてであるかのように敷衍(ふえん)し、それとの対比で、多様な価値観が混在していること自体に価値があるはずの、豊かな「汽水域」たる大学を不当に貶(おとし)めるからである。
「きれいごとでは済まない」と開き直ることはつまり、「汚いことに手を染める」だろう自分をあらかじめ許容してしまうことだ。本当にそれでいいのか。「汽水域」にいるあいだに、いま少し考えてほしいことである。
(Y.G.)
第1081回