―ベトナム、タイ、ベルギーでの事例を中心として―
早稲田大学 国際学術院(大学院アジア太平洋研究科) 教授 勝間 靖(かつま・やすし)
国立国際医療研究センター(NCGM)グローバルヘルス政策研究所(iGHP)グローバルヘルス外交・ガバナンス研究科長
The BMJ(ロンドン)で国際諮問委員、日本国際保健医療学会で代議員、国際開発学会で理事、ジョイセフで理事、GLMインスティチュートで理事を務める。英国プロジェクトのボランティアとしてホンジュラスで活動、海外コンサルティング企業協会の研究員として東南アジア・ロシア極東地域・南米で開発調査、国連児童基金(UNICEF)の職員としてメキシコ・アフガニスタン・パキスタン・東京で勤務した後、現職。関西学院高等部在学中にインターナショナル・フェローシップ交換留学生として米国ペンシルバニア州で高校卒業。カリフォルニア大学サンディエゴ校留学を経て、国際基督教大学で教養学士、大阪大学で法学士と法学修士、ウィスコンシン大学マディソン校で博士号を取得。
最近の研究関心として、持続可能な開発目標(SDGs)、人間開発、グローバルヘルス・ガバナンス、子どもの安全保障などがある。
編著書として、『テキスト国際開発論~貧困をなくすミレニアム開発目標へのアプローチ』(ミネルヴァ書房、2012)と『アジアの人権ガバナンス』(勁草書房、2011)、共編著書として『改訂版 国際社会を学ぶ』(晃洋書房、2019)と『国際緊急人道支援』(ナカニシヤ出版、2008)がある。
1.問題意識
2019年末に中国の湖北省にある武漢で新興感染症(emerging infectious diseases: EID)がアウトブレイク(outbreak)し、新しいコロナウイルス(coronavirus: CoV)の発見が、2020年1月12日、世界保健機関(WHO)によって確認された。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と呼ばれている。COVID-19は世界的流行、つまりパンデミック(pandemic)になっており、今なお収束の見通しが立っていない。COVID-19はこれまでの感染症と何が違うのか? その感染予防と蔓延防止のためにはどのような政策の選択肢があるのか? 今後、私たちは、中長期的に、COVID-19に限らず、EID全般にどのように立ち向かっていくべきなのであろうか?
筆者は、12月中旬と2月中旬にベトナム、1月下旬にタイ、3月上中旬にベルギーに滞在した。その目的はCOVID-19と直接的に関係がなかったが、結果として、関連した動きを見聞きしたり、体験することになった。そこでの学びに基づき、上記のような問題意識をもつようになった。
以下では、まず第1に、COVID-19の特筆すべき点について整理する。そして、第2に、ベトナムとベルギーにおいて、全国的な蔓延を防止するため、とくに移動制限において、どのような政策がとられたかを比較する。また、市民に対して、感染予防のための行動変容がどのように促進されたのかを見る。最後に、とくにタイの事例を参考に、今後のEID対策の方向性を展望したい。
2.COVID-19は何が違うのか?
まず、COVID-19は、グローバルに蔓延しているパンデミックであり、感染者数も死亡確認者も非常に多い。そして、その一因として、自覚していない感染者や、症状のある感染未確認者が、COVID-19の感染を拡大している可能性がある。また、院内感染を防止するための受診者を対象とした検査キットの開発や、N95マスク・シールド付きマスク・帽子・ガウン・手袋など医療従事者にとって不可欠な個人防護具(personal protective equipment: PPE)の調達において、国際協力が十分に進んでいない。以下で、さらに詳しく論じていく。
COVID-19は、ヒトに感染するコロナウイルスとしては7つ目となる。7種類のうち4つは、世界的にヒトのあいだで蔓延しているが、風邪のように、軽い症状しか出ないことが多い。残りの3つは、今回のCOVID-19を含めて、より重い症状を引き起こすことがある。2002年に中国の広東省で発見された重症急性呼吸器症候群コロナウイルス(SARS-CoV)は、キクガシラコウモリのCoVがヒトに感染するようになったと考えられているが、翌年7月までに30以上の国と地域に感染拡大し、感染確認者は約8,000人、死亡確認者は700人以上に達した。2012年にサウジアラビアで発見された中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS-CoV)は、ヒトコブラクダのCoVがヒトに感染するようになったと考えられているが、2019年末までに27か国に感染拡大し、約2,500人の感染が確認され、800人以上の死亡が確認されている。
COVID-19は、2019年12月に初めて報告されて以来、2020年4月25日現在、213の国と地域に感染拡大してパンデミックとなっており、感染確認者は270万人以上、死亡確認者は18万人以上に達している。そして、このウイルスについてはまだ分からないことが多く、収束の見通しは立っていない。その感染の規模は、100年も前のことで状況は大きく異なるが、1918~20年のスペイン風邪(H1N1型のA型インフルエンザウイルス感染症)を想起させるかもしれない。全世界で約6億人が感染し、2,000〜4,000万人が死亡したと言われている。
COVID-19の実際の感染者数は、感染確認者の数倍以上だと推定される。第1に、感染しても、無症状か軽症後の回復のため、無自覚のまま日常生活を過ごしている者が相当数いると思われる。さらに、無症状の感染者が他者へ感染させる可能性を指摘する研究者もいる。第2に、症状が出ていて感染が疑われている者に対して、ウイルス感染の判定などに使われるポリメラーゼ連鎖反応法(Polymerase Chain Reaction: PCR)による遺伝子検査(PCR検査)がすぐに実施されないため、感染未確認者が多く残されている場合がある。いずれにせよ、自覚していない感染者や、症状のある感染未確認者が、接触者追跡(contact tracing)が難しい形で感染を拡大させている可能性があると言えるだろう。
WHOは、加盟国に合意された国際保健規則(International Health Regulations: IHR)に基づき、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(public health emergency of international concern: PHEIC)」を宣言できる。COVID-19については、2020年1月30日に宣言された。これまで、H1N1新型インフルエンザ(2009年)、野生型ポリオ・ウィルス(2014年)、エボラ・ウィルス(2014年)、ジカ・ウィルス(2016年)、エボラ・ウィルス(2019年)についてPHEICが宣言されており、COVID-19は現行のIHRにおいて6回目の事例となる。本来であれば、WHOが加盟国間の利害を調整し、検査キットの開発やPPEの調達のほか、治療薬やワクチンの研究・開発における国際協力を促進することが期待される。しかし、WHOのグローバル・リーダーシップの不足だけでなく、拠出金の支払い停止を宣告したアメリカ合衆国を含めて、多くの加盟国の自国優先のため、国際協力は十分に進んでいない。
3.ベトナムにおける感染予防と蔓延防止のための政策
ベトナムでは、1月23日に最初の感染者が確認された。ベトナムに住む息子に会うため武漢からハノイを訪問していた中国人であった。翌日の1月24日、保健大臣代行は、緊急感染症予防センターの起動を指示した。その後の2月1日、この中国人からベトナム人に感染したことが確認され、これがベトナム国内における最初の感染とされた。これで、感染確認者は、中国人2人を含めて合計6人となった。同日に、グエン・スアン・フック(Nguyen Xuan Phuc)首相は、首相決定173号(Decision No.173.QD-TTg)に署名し、ベトナムにおけるCOVID-19の流行を宣言した。これを受けて、国境対策がとられた。同日、ベトナム民間航空局は、ベトナムと中国との間を飛ぶ航空機の運行許可を停止した。また、ベトナムと中国との国境線は約1,400キロに及ぶが、ヒトだけでなくモノの国際移動も制限した。
2020年のベトナム旧正月(Tet)は1月25日であったが、その祝日が終わっても、教育訓練省は、初等教育と中等教育を再開させなかった。さらに、2月中旬には、大学を含めた高等教育機関も休校にした。また、文化スポーツ観光省は、旧正月を含めた15日目の2月8日に予定されていた各地での伝統的な祭日について縮小・延期・中止するよう勧告した。こうした一連の活動の制限により、建設工事が中断されたほか、道路交通量は大幅に減った。
社会的距離の保持(social distancing)、あるいは最近になってWHOが言い換えるようになった「身体的距離の保持(physical distancing)」については、いくつかの繊細な課題に直面している。イスラーム教のタブリギ・ジャマート(Tablighi Jamaat)派の祭日のため、2月27日から3月1日までの期間、マレーシアのクアラルンプールの郊外にあるスリ・ペタリン(Sri Petaling)モスクでおこなわれた集団礼拝に、約1万6,000人(そのうち約1,500人は非マレーシア人)が参加したところ、そのうち数百人が集団感染したと報道された。そこに参加したベトナム人ムスリムの何人かは、帰国後も、自主隔離の法律に従わず、ベトナムにあるモスクでの礼拝に参加し続けたことが問題視された。
市民に対する行動変容のはたらきかけとしては、手洗いの習慣を定着化させる試みが特筆される。保健省の傘下にある国立労働環境衛生研究所は、ミュージシャンに依頼して、ヒット曲の替え歌を使って、正しい手洗いの方法を市民に広く推奨した。アニメーションを加えたビデオがYouTubeで視聴できる。
4月24日現在、ベトナムにおける感染確認者総数は270人、死亡確認者総数は0人となっている。4月17日以降の新規感染者は確認されていない。韓国、シンガポール、台湾、香港とともに、アジアで比較的に封じ込めにうまくいっている国・地域として注目される。
4.ベルギーにおける感染予防と蔓延防止のための政策
ベルギーでは、2月4日、武漢からブリュッセルに帰還したベルギー人のうち1名の感染が確認された。不要不急な中国への渡航をしないようにという勧告が1月29日から出ていたが、この頃、COVID-19は遠いアジアにおける問題と捉える認識が一般的であった。
ベルギーでは、2月22日から、バンシュ(Binche)、アールスト(Aalst)、マルメディ(Malmedy)などのカーニバルがあり、1週間ほど学校は休校となった。この時期にイタリア北部のリゾート地へスキーに行っていたベルギー人観光客が帰国し、3月2日には6人の感染者が確認された。3月以降になって、ヨーロッパの近隣諸国からの感染リスクが認識されるようになった。
3月10日には1,000人以上が参加する室内イベントの中止が要請された。その後、国家安全保障会議は、連邦政府による危機管理フェイズを宣言し、3月13日から、学校の休校、ディスコ/カフェ/レストランの閉鎖、スポーツや文化のイベントの中止などを決めた。実際には、カフェやレストランは、店内で飲食させず、持ち帰りのみで販売していたことが多かった。次に、3月17日、不要不急の旅行の禁止、生活に必須でない店舗の閉鎖、集会の禁止を決めた。さらに、3月20日、不要不急の旅行には国境を封鎖した。
市民に対する行動変容のはたらきかけとしては、他者との身体的距離を1.5m保持するようにとのメッセージが繰り返された。挨拶として、握手・抱擁・頬へのキスが日常的におこなわれる文化圏において、これは大きな社会変容を意味することになる。
4月26日現在、ベルギーにおける感染確認者総数は4万6,000人強、死亡確認者総数は7,000人強となっている。死亡の約40%は介護施設で発生したという報告がある。
5.中長期的なEID対策の方向性
第1に、国境対策、または島国にとっての水際対策についてである。結果として、早期に厳格な国境対策をとったベトナムは、現段階でCOVID-19の封じ込めに成功していると言える。医療水準が必ずしも高くないベトナムにとって、できるだけウイルスを国内に入れないことが最優先課題であり、SARS-CoVの制圧から学んだ教訓も生かされたと考えられる。付け加えると、韓国もMERS-CoVによる院内感染からの教訓があり、すでに拡充されていたPCR検査体制をもとに、多くの検査によって感染者を隔離したことが功を奏したと思われる。
他方、ベルギーは、中国への渡航の延期勧告は出していたが、イタリア北部をはじめとした近隣諸国へのベルギー人観光客がウイルスを持ち帰ってしまった。また、欧州統合を進める欧州連合(EU)の本部がブリュッセルに所在することもあり、ベルギーとしては、出入国審査をなくしたシェンゲン協定加盟国との国境対策に当初は消極的であった。グローバル化のなかで人びとの国際移動に伴う手続きをできるだけ簡素化する傾向があったが、今後は再検討する必要も出てくるだろう。
第2に、身体的距離の保持についてである。COVID-19が収束しても、従来の挨拶の仕方には戻れないかもしれない。新しい「あいさつ文化」を構想する機会かもしれない。他のより繊細な問題として、集団礼拝をどう考えるかがある。ベトナムでは一部のイスラーム教徒の行動が問題視されたが、韓国ではキリスト教系の新興宗教の集団礼拝で感染が起こった。他の宗教でも同様の集団感染が起こる可能性があるだろう。宗教指導者たちに検討していただくべき課題であろう。
第3に、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)の原則の1つである「誰も置き去りにしない(leave no one behind)」という原則についてである。ベルギーでCOVID-19による死亡が確認された者の多くは、介護施設にいたことを見た。十分な情報がないが、刑務所の収容者の健康も同様に重要な課題であろう。タイにおいては、王室の支援もあり、受刑者の健康を含めた生活の質(quality of life: QOL)を向上させるための取り組みが進められている。たとえば、サムットプラカーン(Samutprakan)県のバーンボーン(Bang Bo)郡にあるサムットプラカーン中央刑務所では、近隣にあるバーンボーン総合病院と協力し、所内に受刑者を対象とした出張クリニックが設置されている。このように、感染症に脆弱な環境にある人びとを置き去りにしないための省庁間の連携が求められる。
第4に、コロナウイルス感染症のほか、鳥インフルエンザ感染症やヘニパウイルス感染症といった新興の人獣共通感染症(zoonotic diseases)は増加傾向にあるかもしれない。その背後には、ヒトと野生動物との接点が増えていることも一因としてあると考えられる。世界健康安全保障のためには、ヒトの健康だけでなく、動物の健康と、それらを取り巻く生態系に取り組む必要があるだろう。動物―ヒトー生態系の相互作用に注目し、ワン・ヘルス(one health)という概念のもとに、すでに、国連食糧農業機関(FAO)、国際獣疫事務所(OIE)、WHOは、2010年に三者協力に合意している。
タイでは、ライルのオオコウモリ(Lyle’s flying fox)が、果物などを求めて、村に集まる現象が見られる。たとえば、チョンブリー(Chonburi)県のパナットニコム(Phanat Nikhom)郡にある村の寺院には、無数のライルのオオコウモリが住みついている。糞や食べ残しの果物を落とすが、村の住民は人獣共通感染症のリスクについて十分な認識がなかったため、住民への健康教育が進められた。また、オオコウモリが村に餌を求める背後には、森林破壊などの生態系の変化があるため、長期的には環境保全にも取り組むべきであろう。
※当記事は「WASEDA ONLINE」(2020年4月30日掲載)からの転載です。