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早稲田出身の学長・総長【第3回】

第5代総長 中野登美雄

大学史資料センター 非常勤嘱託 渡邉 剛(わたなべ・つよし)

「早稲田出身の総長・学長」について、シリーズ【第1回】では「大隈さんの知恵袋」と呼ばれた第4代学長・第2代総長の塩沢昌貞、【第2回】では1930年代から1940年代という戦時統制下に第4代総長を務めた田中穂積を取り上げた。そして最終回となる【第3回】では、その田中穂積の死去後、第5代総長に就任した中野登美雄について紹介する。

中野登美雄の人物像

アジア太平洋戦争下、戦局が激しさを増す1944年10月、第5代総長に就任したのが中野登美雄(1891~1948)である。

「長身白皙(はくせき)、貴公子然たる風貌」(注1)と形容された中野は、北海道の出身。1916年に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業、研究科に進学後、1918年に留学生として洋行した。アメリカのジョンズ・ホプキンス大学、ドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学で学んだ後、1923年に帰国して早稲田大学政治経済学部助教授に就任、翌年には教授に昇進した(注2)。

教授就任前、日本の学者は「翻訳的学問」を脱し得ておらず、「大きな襟度(きんど)でドツシリとした態度で独立の研究を進めるやうにしたい」(注3)と語った中野の代表的業績は、いわゆる「統帥権の独立」に関する研究であった。

「面影 助教授中野登美雄氏」(『早稲田学報』348、1924年)

戦前、軍の統帥権は国務大臣の輔弼(ほひつ)の範囲外という慣行があり、これが軍部独走の原因となっていた。これに対し、中野は「統帥権の独立」を認める憲法解釈を疑問視し、将来的に国務大臣の下に統帥権を収めることを展望した。1930年に提示されたこの見解は、当時の学界で最も軍部に挑戦的なものであった(注4)。

こうした研究において駆使されたのが、諸外国の憲法・法律・政治に関する広範な知識であり、中野の教え子で政治経済学部教授を務めた大西邦敏は、中野の特色として「比較憲法学的態度」を挙げる(注5)。こうした学風は、戦後大西らが政治経済学部において継承・展開していった。

なお、大西が挙げた中野の特色がもう一つある。それは「欧文の註(ちゅう)の多いこと」で、出所を明示し読者の便を図る学問的良心によるというのだが、恐らくこうした特色が転じて、「多少衒学(げんがく)的でキザ」という評価(注6)につながったのであろう。

大空襲下の苦闘

やがて戦雲が濃くなってくると、中野の論調に変化が表れた。1934年の著書『統帥権の独立』では軍部への批判意識が後退した点が指摘されるが(注7)、著書や論文に時局的色彩が増え、戦時下ではその傾向が一層強まった。こうした中野の姿勢は同時代的にも問題視する向きがあったというが、「時勢と共に生き時勢と共に進む」「一種の国士的性格」を持つと評された中野にすれば(注8)、単純な時局迎合でなかったことは確かである。

戦時下、中野は大学内で重要な地位を占めていく。1943年10月には政治経済学部長、1944年3月には常務理事となり、体調が悪化していた田中穂積総長の事務代行を務めた。そして同年10月、中野は田中総長の死去を受け、第5代総長に就任した。

総長として式辞を述べる中野(大学史資料センター所蔵)

1945年5月25日から26日にかけての「山の手大空襲」は大学に及んだ。空襲の激化に伴い大隈会館内に起居するようになっていた中野は、建物のガラスに突き刺さって燃え盛る焼夷(しょうい)弾に長柄のついたたたきを持って駆け寄り、自らこれをたたき落とした。

やがて大学に下賜(かし)されていた「御真影」や勅語・詔勅の謄本を入れたリュックサックを持ち、中野、法学部教授・中村弥三次、出版部・池田美代二の3名で、安全と思われた目白の学習院方面に避難を開始した。中野は結核性の痔(じ)を患っていることもあってか途中で歩けなくなってしまい、池田が近くの警察署に助けを求め、署内で休息をとった。この後、中野の病状は悪化し、重要な来客があっても起き上がれないほどであったが、窮境の中でも今後の大学経営のあり方を周囲に語っていた(注9)。

空襲の被害を受けた演劇博物館(早稲田大学図書館所蔵)

総長公選制

敗戦後、大学再建の重任を担う中野に、公職追放の影が忍び寄る。大学内外で戦意高揚に努め、大日本言論報国会理事などの要職を務めた中野に、追放を逃れるすべはなかった。追放を予知した中野は、1946年1月、病気を理由として総長を辞任する。

戦時下における心身の酷使に加え、追放後に生活の資を得るために行った講演活動が、中野の健康をむしばんだ。1948年5月、中野は大学の敷地内の仮住まいで56年の生涯を終えた。『早稲田大学百年史』は、「訪客も稀(まれ)な寂しい最期は悲運と言うほかなかった」と述べる(注10)。

中野登美雄(大学史資料センター所蔵)

さて、中野は大学を去る時、あることを提唱した。「総長公選制」である。従来、総長は理事の互選による選出だったが、今後は全教職員の選挙によるべきであると、中野が辞任時に述べたのだという(注11)。その後、導入されたこの制度によって、第6代総長・島田孝一が誕生した。

中野はこの世を去ったが、総長公選制は今も大学で生き続けている。

(注1)『早稲田大学百年史』4(早稲田大学出版部、1992年)789頁
(注2)清水望「中野登美雄(一八九一年―一九四八年)―その生涯と業績―」(『早稲田大学史記要』16、1983年)2~3頁
(注3)「面影 助教授中野登美雄氏」(『早稲田学報』348、1924年)14~15頁
(注4)荒邦啓介『明治憲法における「国務」と「統帥」』(成文堂、2017年)339~353頁
(注5)大西邦敏「中野登美雄先生を偲びて」(『早稲田大学彙報』2-6、1948年6月)4頁
(注6)「学園展望 早稲田の巻【2】」(『読売新聞』1928年3月15日付2面)
(注7)前掲荒邦、353~361頁
(注8)「新人旧人」(『日本評論』16-1、1941年)227頁
(注9)池田美代二「終戦前後の中野登美雄総長」(『早稲田大学史記要』15、1982年)234~242頁
(注10)前掲『早稲田大学百年史』4、790頁
(注11)同上、404頁

早稲田出身の学長・総長【第1回】

早稲田出身の学長・総長【第2回】

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