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早稲田出身の学長・総長【第1回】

第4代学長・第2代総長 塩沢昌貞

大学史資料センター 助教 佐川 享平(さがわ・きょうへい)

1882年の東京専門学校開校以来、早稲田大学の代表者(校長・学長)は、鳩山和夫ら学外から招聘(しょうへい)された人物や、高田早苗ら創立時の中心メンバーが務めてきたが、開校から40年余りを経て、いよいよ早稲田出身の学長・総長が登場する。本シリーズでは、戦前、早稲田を卒業して学長・総長を務めた塩沢昌貞・田中穂積・中野登美雄を取り上げる。

塩沢昌貞の人柄

「塩沢昌貞」

早稲田の出身者として初めて学長を務め、さらに、1922年に没した大隈重信の後を継いで総長に就任したのが、「学者らしい出張った額、見事に禿げ上がった頭、それを蔽(おお)い隠すためか、左から右へ掛け渡された細い幾筋かの頭髪」 (※1)という風貌の塩沢昌貞(1870~1945)である。

1891年に東京専門学校英語政治科を卒業した塩沢は、アメリカのウィスコンシン大学大学院、ハレ大学、ベルリン大学(ともにドイツ)への留学などを経て、1902年より早稲田大学で教鞭(きょうべん)を執った。早稲田大学では、大学部政治経済学科長、政治経済学部長、理事などを歴任する一方、財団法人協調会が創設した社会政策学院の院長を務めるなど、経済学の碩学(せきがく)として広くその名を知られた人物であった。

1910年代の雑誌には、学生らしき人物(「政治経済科 黧一郎」)の塩沢評が掲載されている。

その見識その人格は世既に定評あり、而(しか)して先生はその定評の如き人にて候。不得要領と点の辛いのと、エエエエを連発する講義に閉口させられることが学生の定評にて、彼にはしかし正直な先生だと付け加へ居り候。(※2)

(※1)高橋誠一郎『経済学 わが師 わが友』(日本評論社、1956年)73頁
(※2)『青年』2-8(1914年)146頁

「大隈さんの知恵袋」

語学に堪能で博識な塩沢はまた、「大隈さんの知恵袋」と呼ばれるほど、大隈重信から厚い信頼を受けた。大隈邸(現在の大隈庭園)に足しげく通ってさまざまな知識を提供し、大隈が自邸で各国要人と対談する際には通訳として臨席した。ただ、塩沢自身も誇りとした大隈との親密な間柄は、塩沢の学者としての活動時間を犠牲にすることで成り立っていたものでもあった。

「大隈重信・ウィリアム(米国ミズリー大学新聞科長)・フライシャー(『ジャパン・アドバタイザー』社長)・大隈信常・塩沢昌貞」(1918年11月)

学長・総長就任

「アインシュタイン博士夫妻の来校記念」(1922年11月)

1921年10月、塩沢は平沼淑郎の後任として、第4代学長に就任する。そして、翌1922年1月の総長・大隈重信の死去に際して葬儀委員長を務めたほか、チャールズ・A・ビアード(東京市政調査会顧問)、アルバート・アインシュタイン(ベルリン大学教授)といった海外著名人の来校に、大学の代表者として応対した。特に、アインシュタイン来校の際には、自らのドイツ留学経験を交えて同夫妻と親しく会談し、また、歓迎式における塩沢の辞は、聞いた者に「先生の朗読ぶりは、前年ノウベル物理学賞を受賞した世紀の巨人を前にして些(いささ)かたりとも臆するところなく、実に堂々たるものであり、『日本語よりもドイツ語の方が流暢(りゅうちょう)なんだな』との囁(ささや)きが学部学生らしい隣人の口から漏れた」(※3) との深い印象を残すものであった。

そして、1923年には塩沢総長が誕生するが、これは大隈死去の後に行われた寄附行為(校規)の改訂による産物であった。この改訂によって、それまで学長と称していた本学代表者を総長と改称することになり、1923年5月5日に新寄附行為が施行された結果、学長の座にあった塩沢がそのまま総長に就任したのである。もっとも、塩沢の総長就任は、新寄附行為に基づく新しい陣容が定まるまでの臨時的措置で、5月11日には早くも総長辞任を申し出、その席を高田早苗に譲った。従って、塩沢の総長在任期間はわずかに一週間足らずであった。こうした経緯もあって、過去に本学で編さん・刊行された書籍には、塩沢ではなく、高田を第2代総長として記載しているものもある(例えば『早稲田大学八十年誌』)。ちなみに、小松芳喬(1906~2000、政治経済学部教授)は、自身の総長就任について語る塩沢の様子を次のように回顧している。

塩沢は屡々(しばしば)、総長としては、自分が恩師「高田先生」の先任者であると、制度切り換えの際の手続き上の必要から、「老侯」の後を襲って半ヶ月間第二代総長の地位にあったことを口にしては、悪戯坊主のような笑みを浮かべたものであった。(※4)

なお、学長・総長在任期間を除けば、塩沢は「政治経済学部の育ての親」(※5)として、長年にわたり同学部の学部長を務めた。大学史資料センターには、猪俣津南雄(1889~1942、早稲田大学講師)が塩沢の母校・ウィスコンシン大学へ留学するにあたって仲介の労をとった際、恩師であるリチャード・T・イーリーが塩沢に宛てた手紙などが所蔵されている。

(※3)小松芳喬「追慕 塩沢昌貞先生」(『早稲田大学史記要』21、1989年)327頁
(※4)小松芳喬「塩沢昌貞伝考」(『早稲田フォーラム』57・58、1989年)163頁註52
(※5)時子山常三郎『早稲田生活半世紀』(早稲田大学出版部、1973年)45頁

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