大学を卒業して、昨年の4月に大学で働くまでの25年間を海外で過ごした。現地のことばを学び、その社会に住まわせてもらう外国人であった。最初がアメリカ、次がメキシコ、次がウズベキスタン、次がロシア。このあたりまでは、それぞれ英語、スペイン語、ロシア語で生活をしていた。しかし、次のハンガリー語で挫折し、次の英国、ブラジルは、英語、ポルトガル語と、馴染(なじ)みのある言語であるのに、それらの言語を使うのが少なくなった。
年をとると外国語が覚えられなくなるというが、記憶力が衰えたという認識はない。若い頃から覚えられなかったのだ。体力? いや、昔も今もそう変わりない。たぶん、一番、減ってしまったのは世界との無駄な関わりではないかと思う。メキシコでは、職場から家まで歩いていると必ず声をかけられ、よもやま話をした。ウズベキスタンでは、トラムの路線図がなかったので、毎週末、1路線ずつ、トラムの始発から終点まで乗って、曲がり角の向こうにどんな風景があるのかを確かめた。何か目的があるわけではなく、ただ、それだけのためにある時間だった。
家庭や仕事の責任が重くなり、生活の中に「無駄」という観念が生まれた。忙しくて暇がない。事実そうだ。しかし、本当にそうなのだろうか? ことばの喪失と共に失った無駄な時間は世界との接点ではなかったのか。世界との接点を失えばことばは生まれない。それは母語でも外国語でも同じだ。学生諸君は、新鮮な好奇心を失わぬよう。世界を見失わないよう。
(F)
第1060回