突然ですが、皆さんは一生のうちどれほどの時間をトイレに費やすかを考えたことがありますか? 試しに計算してみましょう。
人は平均的に、1日1回の排便、5〜6回の排尿をします。もし80歳まで生きるとすると、20万回近くトイレに行くわけです。ここに滞在時間を加味すると、合計7〜11カ月トイレにいることになります。1年弱、人によってはもっと長い時間を過ごすわけですから、トイレがいかに人生において大切な空間かを、お分かりいただけるのではないでしょうか。
そんな身近な存在であるトイレですが、現在私たちが使用するようなモデルが完成したのは、実はつい最近のこと。はるか昔の縄文時代、人口もまだ数十万人ではありましたが、私たちの祖先はところ構わず排せつをしていました。一定の場所で用を足すようになったのは、農耕とともに定住が始まってからです。水が豊かな日本では、人々の多くは川の上に建てた小屋で排せつしていました。これを「川屋」といいますが、「厠(かわや)」という言葉のルーツだとされています。
鎌倉時代になり人口が徐々に増えると、トイレにたまった排せつ物を、農業における飼料や肥料に利用するようになります。尿や便を畑にまいて育った作物を食べるわけですから、極めてエコな循環システムですよね。江戸時代には長屋の共同便所の排せつ物を、農家の方が「くみ取り料」としてお金を払って購入しており、大家さんは大もうけしていたほどでした。
実は排せつ物を肥料にする手法は、20世紀の前半まで続きます。しかし、第二次世界大戦で日本が敗北し、米国から進駐軍がやってくると、彼らの多くは生の野菜を食べたがったんですね。ところが畑には尿や便がまかれていたのでそのまま食べるのは不衛生。代わりとして化学肥料が持ち込まれるようになります。また、近代化により人口が増加したことで、肥料として使用されない余剰分が廃棄されるようになり、衛生問題も引き起こしていました。このような背景から、1960年代から都市インフラとして整備されたのが、下水道です。そして下水道とともに、水洗式トイレが普及します。こうして、現代型トイレの原型が出来上がったのです。
排せつは、生体の維持においてとても重要です。採尿によって臓器の異常を特定できるように、尿や便は人体の機能と密接に関係しています。スムーズに尿や便が出ないことは、不快なものを取り除けていないことを意味し、不健康のサインです。“快便”を促してくれるトイレは、健康の味方でもあるんですね。
快便を実現するためには、トイレが快適な空間でなければなりません。そこには、特に日本ではさまざまな工夫が施されています。「人が無理なく動けるか」「尿や便がスムーズに流れるか」「衛生状態が保てるか」「色彩や照明は適切か」「水量は妥当か」…。こうしたさまざまな課題に対し、医学、公衆衛生学、建築学、流体力学、人間工学に始まり、土木、環境、心理、デザイン、経済、法律まで、各学問的領域のプロフェッショナルが、日々知恵を振り絞ってつくられているのが、私たちが使用するトイレなんです。
現在、日本はトイレの技術水準において世界のトップに立っていると言っていいでしょう。その代表例は「温水洗浄便座」、ウォシュレットやシャワートイレ(※1)などです。
温水洗浄便座は元々、米国が医療用に開発しました。それを東洋陶器株式会社(現在のTOTO株式会社)が1960年代に輸入販売をしたことから、国内の各メーカーが研究開発に取り組むようになります。最初は「洗浄水の温度や角度が定まらない」といった問題を改良したことに始まり、着座センサー(1988年)、脱臭機能(1992年)、便器オート洗浄機能(2003年)など、続々と機能が追加。現在、水量を抑えても洗浄感が得られるよう、水玉を連射させる技術など、実に精緻な技巧が凝らされています。
温水洗浄便座の他にも、日本発のイノベーションはたくさんあります。ボタンを押すと水の流れる音が再生される「音姫」(※2)のような擬音装置もありますが、排せつ音をあまり気にしない海外では不要とされるほどです。日本人がここまでトイレを発展させた理由には、清潔を好むこと、楽をするために高性能な技術を求めること、痔(じ)に悩む人が多いことなど、さまざまな要因が考えられます。米国の人類学者ルース・ベネディクトは、西洋の「罪の文化」に対する日本の特徴を「恥の文化」と表していますが(※3)、こうした国民性も影響しているのかもしれません。
(※1)温水洗浄便座のことで、「ウォシュレット」はTOTO株式会社の登録商標。株式会社LIXIL製のものは「シャワートイレ」と呼ぶ。
(※2)「音姫」はTOTO株式会社の登録商標で1988年に発売。
(※3)ベネディクトの著書『菊と刀』(1946年)に記された概念。内面に善悪の基準を持つ「罪の文化」と、他者からの評価を基準とする「恥の文化」とを対比した。
高橋さんが名誉会長・顧問を務める日本トイレ協会は、1985年設立。トイレ文化の創出と快適なトイレ環境の創造、トイレに関する社会的課題の改善に寄与することを目的に活動している。同協会の運営委員であり、同協会の下部組織である災害・仮設トイレ研究会で代表幹事を務める山本耕平さんは、1977年に政治経済学部を卒業した校友。さらに早稲田大学副総長の後藤春彦教授(理工学術院)は、同協会の「グッドトイレ10賞」でグランプリ(第14回、1998年)を受賞するなど、早稲田と日本トイレ協会の関わりは深い。
快適さを追求して進化してきたトイレですが、ここでもう一つ言葉を加えなければなりません。“誰にとっても”快適であるかどうかです。
時代の変化とともに多様性が尊重されるようになってきましたが、公共トイレにおける多様性への配慮は、車いす使用者への対応から始まりました。2000年にはいわゆる「交通バリアフリー法」が制定・施行され、人工膀胱(ぼうこう)・人工肛門を装着するオストメイトの方、乳幼児連れの方などへの設備が導入されるようになります。こうした流れから生まれたのが、皆さんご存じの「多目的トイレ」です。しかし最近では、一つの個室に多様なニーズを集約するのではなく、個室ごとにニーズに対応する、分散型の設計が主流になりつつあります。なぜでしょうか。
認知症や発達障害を抱える方やその同伴者、オストメイトの方など、見た目では分かりにくい事情を抱える方のことを想像してみてください。彼らの中には、車いす使用者をはじめ、物理的な理由などから多目的トイレを利用しなければならない方を優先しようという周囲への配慮や、「多目的トイレ=事情がある」と思われるのではと「人目」を気にするなど、多目的トイレの使用に積極的でないケースがあるのです。このように、声を上げにくいニーズに応えるには、多目的トイレは設備・キャパシティーともに十分ではないことから、より細かく機能を分散した、トイレ全体の設計が求められるのです。
また、ジェンダーの問題も関わってきます。LGBTQ+の中でも特にT(トランスジェンダー)(※4)の人は、男性用と女性用、どちらのトイレを利用するかを問われる場合があり、学校や職場のトイレにおいては、カミングアウトの有無も影響します。自認している性と使用したいトイレの性が一致しない場合、多目的トイレが有効であるように考えられがちですが、ここでも「人目」や障がい者への配慮による気後れなどの問題が生じます。この課題に対しては、性別に関係なく利用できる共用の個室トイレなど、選択の幅を広げることが解決策になるかもしれません。
(※4)自認する性と生まれたときに割り当てられた性が一致しない人。
ほかにも、子ども、高齢者、目が不自由な人、宗教や国籍の異なる人や生理の問題など、さまざまなニーズに対応していく必要があります。トイレのダイバーシティはまだまだ発展途上。多様性との調和に向け、進化を続けているのです。
2017年に早稲田大学は、早稲田、戸山、西早稲田、所沢キャンパスの身障者用トイレ(多目的トイレ)のサインを、「だれでもトイレ」に統一。車いす対応、オストメイト、おむつ交換台、ベビーチェアなどの機能を備え、性別を問わず誰でも利用できるようになっている。
また、生理に伴う負担の軽減に向け、早稲田大学は2021年より一部の女性用トイレに、生理用ナプキンを常備・無料提供するサービス「OiTr(オイテル)」を導入。早稲田大学学生健康増進互助会では、2021、2022年度に生理用品無料配付キャンペーンを実施した。
写真右:早稲田キャンパスにある會津八一記念博物館内のトイレ。男性用トイレにもおむつ交換台が備えられている
トイレが調和しなければならない、もう一つの大きなテーマが“地球”です。排せつが生理現象だからといって、トイレとそれを取り巻く設備は人工物。持続可能な社会を実現するためには、トイレもアップデートされなければならないのです。
私たちが水洗式トイレを利用できるのは、下水道が整備されているからだと述べました。排せつされた尿や便は、ほかの汚水とともに下水道管を通り、下水処理施設に運ばれます。ここで微生物の働きを活用した浄化が行われ、最終的には河川や海に放流されます。
しかしこの下水道、万能ではありません。下水道には汚水に加え、雨水を流す役割もありますが、汚水と雨水を一つの下水道管で集める方式を「合流式下水道」といい、東京23区の約8割がこの方式を採用しています。別々の下水道管を使う「分流式下水道」もあるのですが、多くのコストがかかるわけですね。ここで問題となるのは近年多発する豪雨です。大量の雨水が流れてくると、下水処理の容量を超え、浄化しきれない下水が海へと流れてしまいます。すると海洋の水質汚濁が起こり、生態系が破壊される。東京湾では既に深刻な問題になっているのです。
さらに現代のトイレは、下水道処理により発生する温室効果ガス、排せつ物を下水道管に流すための水資源などの課題も有します。今後の処理技術の向上も必要ですが、私たちの意識改革も重要です。そもそもトイレは、以前は1回の洗浄で12リットル、今は節水タイプで6〜3.8リットルになりましたが、それでも結構な水を使います。そのことを忘れてはならないでしょう。
環境配慮のほかに、もう一つ着目すべきなのが、災害への対応です。南海トラフ地震や首都直下地震は、30年以内に70~80%の確率で発生するといわれています。また気候変動とともに多発する豪雨や水害ですが、下水処理機能をはじめとした都市インフラ機能が不全になると、トイレは使えなくなります。地震も同じで、大震災の際に下水処理施設が破損した例は、過去にもありました。そんなときに用意しておきたいのが簡易トイレや携帯トイレです。もしもの際、国など行政による支援も存在しますが、いざ届くまでには時間がかかります。最低でも3日、自分でやりくりする分量を用意しておけば、万が一の際も対応できるはずです。
2011年3月に発生した東日本大震災を受け、早稲田大学は災害対策の強化に取り組んできた。キャンパス内には約15万個の簡易トイレを備蓄。また、仮設トイレは72基ほど設置可能な状況で、その導入に当たり組み立て訓練なども行っている。
2015年に国連サミットで採択されたSDGs(持続可能な開発目標/Sustainable Development Goals)は、地球規模の問題を反映した17のゴールが設定されています。その中の6番目の目標は、「安全な水とトイレを世界中に」。貧困や飢餓、ジェンダーや平和に並ぶキーワードとしてトイレが扱われているのですが、そのことについて考えてみましょう。
世界には約80億の人々が暮らしています。しかしそのうち36億人ほどは、安全で衛生的なトイレを使えていません。4億9,400万人は野外で排せつしているとされ、病原体を原因とした感染症の発病が今でも深刻な問題となっています。多くの子どもたちが命を落としているのも事実です。
野外での排せつは、経済的理由によるトイレの不整備も大きいですが、宗教的理由から「家の中に不浄なものを設置してはならない」といった、文化に起因するケースもあり、問題は複雑です。その影響は、女性が野外で襲われたり、生理の際にトイレが使えないからと学校に行けずに教育格差が生まれたりと、衛生以外の部分にも広がります。
複雑な問題を解決していくためには、それぞれの国・地域の文化や宗教、習慣を尊重しながら、情報交換を行い、先進国が技術や財力で徐々に支援していくような、着実な歩みが必要でしょう。水洗式トイレや多目的トイレと同様、現在の水準にとどまることなく、持続可能なトイレを開発していかなければならないのです。
私は1936年生まれで、現在86歳。いわゆる戦争を体験した世代ですが、昔のトイレはひどかった記憶しかありません。特に公共トイレではうじ虫が湧いているような所もあり、正直なところ不快でしかありませんでした…。その後80年にわたり、トイレの進化を目の当たりにしたわけですが、今思うと日本は進化し過ぎたのかもしれません。早稲田大学の学生さんが辺境の地に赴いて活動することになった場合、現地のトイレに耐えられるでしょうか? なかなか難しい問題だと思います。
少なくとも言えるのは、今ある日本のトイレは、決して当たり前のものではないということ。生命維持に不可欠なトイレは、人間の尊厳であり、人権そのものです。その人権をどう守り、世界中の困った人に共有していけるかは、次代を担う皆さんにかかっています。トイレの中で過ごす何気ない時間、ふとした瞬間に私の話を思い出していただけたら、未来は変わるかもしれません。これからの社会をつくる早大生の知恵に、期待しています。
世界のトイレ
写真右:ローマ(イタリア)の国際空港「フィウミチーノ空港」のトイレにある洗面台。蛇口、せっけん、ハンドドライヤーが一体になっており、一見シンプルながら機能性も高く、上品なセンスが感じられる
写真右:ロシアにはさまざまな形の“しゃがむ”トイレが存在する。大阪大学・ヨコタ村上孝之准教授「世界のしゃがみ方」講演より
書籍紹介
『進化するトイレ SDGsとトイレ―地球にやさしく、誰もが使えるために』(柏書房)
日本トイレ協会の編集による、トイレの進むべき未来を考えるために参考になる一冊。『災害とトイレ―緊急事態に備えた対応』『快適なトイレ―便利・清潔・安心して滞在できる空間』と併せて読むことで、トイレに対する理解が深まる。