Waseda Weekly早稲田ウィークリー

才能ってなんだ?1億部超の漫画原作者・樹林伸になる方法

就職留年が決まった帰り道、物書きを志すきっかけに出合う

『金田一少年の事件簿』は9,000万部、『GTO』は5,000万部、『サイコメトラーEIJI』は1,200万部、『神の雫』は500万部…。漫画原作者・編集者の樹林伸さん(1987年早稲田大学政治経済学部卒業)が手掛けた作品は、その代表作だけでも日本国内だけで軽く1億5,000万部以上を売り上げ、ドラマや映画としても人々に愛されてきました。また、漫画に限らず、木村拓哉さん主演のドラマ『HERO』(フジテレビ系列)では企画協力を務め、市川海老蔵さんの歌舞伎では脚本を執筆するなど、ジャンルを横断しながら、数々のヒット作を生み出しています。

もともと、『週刊少年マガジン』(講談社)の編集者としてキャリアを出発した樹林さん。一体なぜ、ここまでの成功を収めることができたのでしょうか? まずは、その経歴を大学時代からひもといていきます。

樹林さんは編集者・漫画原作者という立場で物語を作るお仕事をなさっていますよね。何がきっかけでその魅力に目覚めたのでしょうか?

樹林
きっかけは就職留年でした。大学4年次の就職活動では「楽しい仕事をやりたい」という程度の軽い気持ちで、出版社の他にも広告代理店やテレビ局などのマスコミ系を受けていたんです。しかし、結果はほぼ全滅。最後に受けた小さなレコード会社は、僕を採る気がないのが見え見えで、最終面接が始まった1分後には「こりゃダメだ」と悟りました。

どうせ俺は就職留年確定だ…。失意のどん底にいた僕はフラフラ歩き、駅前の本屋に何となく立ち寄りました。そこでふと手に取った小説の帯に「江戸川乱歩賞(※)の受賞作」と書いてあったんです。そして奥付には賞の募集広告が載っていた。

大学の単位はほとんど取得しているし、卒業まで特にすることもない。僕はその足で文房具屋に行き、原稿用紙500枚を買い込みました。で、家に帰って親に「ごめん、留年させてくれ。俺、小説を書くから」と言ったんです。親はもう絶句ですよね(笑)。

(※)一般社団法人日本推理作家協会が主催する賞。広い意味での推理小説で未発表のものが対象となる。受賞作は講談社が刊行、フジテレビが映像化する。
一方の僕は、その日のうちにはプロットを作り、翌日からはもう小説を書き始めていました。最初は五里霧中だったけれど、100枚くらい書いたあたりから、だんだん乗ってきたんです。途中経過を親に見せると「面白いじゃない」「次はどうなるの?」と反応をもらえるのも楽しかったですね。

結果、原稿用紙400枚くらいになった応募作品は、受賞には至りませんでした。しかし「物を書く仕事がしたい」と真剣に考えるようになったのは、その経験があったからこそですね。

就職留年をきっかけに、物語を作る楽しさに目覚めたと。

樹林
はい。留年中には、雑誌編集部でフリーライターの仕事を始めました。小説を書き上げたころ、「何でもいいからこういう仕事ができないかな」と思って姉(※)にそう話したら、たまたまアルバイトでライターを探していた人とつないでくれたんです。

最初の頃は、何を書いてもボロクソに言われましたね。新聞系の出版社だから、文章にはすごくうるさかった。でも、程なくして認めてもらえるようになりました。最初は短信からスタートし、記事をたくさん書くようになり、小さい特集を任せてもらったり、人の文章に赤入れするようになったりして。そうなると、すごく面白くなってきましたね。

(※)ノンフィクション作家の樹林ゆう子。樹林伸と共に漫画の原作を手掛ける漫画原作者でもある。

仕事のつながりもできそうですね。

樹林
ライター仲間ができましたね。そういう連中が仕事を回してくれて、広告関係、書評や映画評…それで大量の原稿を書くようになりました。1週間でペラ(※200字詰めの原稿用紙のこと)50枚くらい。もうライターでやっていってもいいかなとも思ったけれど、ちゃんと就職してからでも遅くはないし、出版社に行こうと。でも、さすがに留年2回は親にも悪いし、就活で失敗はできません。それで他の一般企業も受けました。

アルバイトに明け暮れる日々で就活に支障は出なかったのですか?

樹林
逆にアルバイトをしていたおかげで手応えがあったんです。アルバイト先だった編集部には、新聞は全紙、雑誌なんかもありました。だから、ものすごい量の情報を取り込んでいたんですよ。コツさえつかめば、新聞と雑誌を全部読んだって、午前中で終わる。すると知らないことがなくなってくるんですよね。今度はもう負ける気がしなかったな。無事、僕が勤めることになる講談社からも、内定をもらいました。

講談社では小説の仕事をしたいと考えていたのでしょうか?

樹林
いえ。初めから漫画編集の仕事を考えていました。小説の編集者は、当時は小説家から原稿を受け取る仕事が中心で、「一緒に物語を作る」という機会はそう多くはありませんでした。一方、漫画の編集部では、編集者が企画の段階から漫画家と共に物語を作っていました。そこが僕にとって一番大きな魅力だったんです。
講談社の面接では「物語を作ったり企画を出したりする仕事がしたい」とアピールし、当時『週刊少年マガジン』の編集長だった五十嵐隆夫さん(講談社顧問)に気に入ってもらって、マガジン編集部配属となりました。本当は『ヤングマガジン』編集部に行きたかったんですけどね(笑)。

入社後は、どのような働き方をされていたのでしょうか?

樹林
マガジン編集部には配属されたものの、先輩の手伝いなどが多かったですね。会議に参加しても新入社員の話はなかなか聞き入れてもらえませんでした。これでは、自分の企画が雑誌に載るまで何年もかかってしまう。そこで自ら率先して動くようにしたんです。

同人誌の即売会や学園祭に行って新たな描き手を探したり、編集部に持ち込みの電話がかかってきたら自分が担当になるために積極的に対応したり。そこから有望な新人を発掘しました。それが編集部に配属されて1カ月半頃のことですね。

わずか1カ月半でそこまで!

樹林
はい。新人漫画家が連載を持つ近道は新人賞を取ること。そこで彼らと一緒にネーム(絵コンテ)を考え、二人三脚で漫画を作っていったんです。その中の一人が『お天気お姉さん』『バカ姉弟』などを描いた安達哲さん。彼が描いてきた大量のネームを僕が取捨選択し、つなぎ合わせて完成させた『卒業アルバム』という作品が、マガジンの新人賞を受賞しました。それがきっかけで彼のデビュー作『ホワイトアルバム』の連載がマガジンで始まります。
打ち切り寸前だった初の担当作がストーリーの力で人気No.1に
樹林
ところが、連載がスタートしても、読者アンケートの結果はほとんど最下位。3週目か4週目には「12週で打ち切りにする」と決まってしまいました。しかし、先輩社員の計らいで14週まで延ばしてもらえたんです。

そこで、既に出来上がっていたネームを全てボツにし、1週間くらい漫画家の仕事場に通い詰めて、プロットを全部作り直しました。それまでややシリアスな展開だったストーリーにラブコメの要素を入れ、カタルシスを盛り込んで。

その結果、連載11週目のアンケートでは7位に上がり、翌週には2位、最終回では1位にまで成長しました。クレジットこそ入っていませんが、僕が本格的に漫画のプロットを手掛けた初めての経験は、あの作品ですね。

最下位を記録した打ち切り作品が、まさか1位になるとは!

樹林
あまりにもうれしくて、「本当に打ち切りでいいんですか~!?」と編集長の前をウロウロしましたよ(笑)。その後、安達くんの新連載がすぐ始まりました。『ホワイトアルバム』が最下位だった頃はとてもつらかったけれども、あの経験がなかったら、今の自分はありません。「自分で物語を作って結果を出す」という快感を一番初めに覚えたのは、この時でした。

「漫画原作者・樹林伸」の原点、記念すべき初担当作品『ホワイトアルバム』(講談社)。
作者の安達哲は後に『さくらの唄』(講談社)を描いた。

樹林さんは安達さんの他にも、『シュート!』の大島司さんをはじめ、数々の漫画家を新人から育て上げています。新人を発掘する際には、どのような部分を見ていたのでしょうか?

樹林
ストーリーは僕が作れるので、絵を重視していました。一番大切なのは人物の表情です。単にうまい絵かどうかではなく、大切にしていたのは「そこに人がいる」と感じられるかどうか。それが漫画家を見る上で一番のポイントです。

『湘南純愛組!』や『GTO』を描いた藤沢とおるさんも、樹林さんが同人誌から発掘した人物ですね。

樹林
藤沢くんの場合、別の人が作っていた同人誌に、彼が一枚イラストを描いていました。この絵がとてもうまくてカッコよかったので、「この人を紹介してほしい」とお願いしたんです。当時、藤沢くんはマイナーな雑誌で作品を描いていましたが、それらの原稿を見てもやっぱりうまかった。そこで「取りあえずアシスタントに入ってほしい」とお願いし、安達くんの新連載『キラキラ!』のアシスタントについてもらいます。

『キラキラ!』も、大まかなプロットは僕が作っていたので、毎週安達くんと打ち合わせをした後、藤沢くんとも作品の構想を練っていた。そこから『艶姿純情BOY』という作品が生まれ、その次に『湘南純愛組!』、さらに『GTO』へとつながっていったんです。

1992年からは、『金田一少年の事件簿』(作画:さとうふみや)が始まります。この作品では、編集者としてのみならず、「天樹征丸」名義で原作者としてもクレジットされていますね。どのような経緯でこの作品が誕生したのでしょうか?

累計9,000万部を売り上げた『金田一少年の事件簿』(講談社)。
主人公の決めゼリフ「じっちゃんの名にかけて」は流行語ともなった

樹林
講談社に入社する前からミステリー漫画をやりたいと思っていたんです。僕は決してマニアとは言えないけど、子供のころからミステリーが好きだったから。ミステリーって面白いじゃないですか。小説でもヒット作がいっぱいあるし、テレビでも視聴率を取っている。でも、本格ミステリー漫画は全くなかった。なんでだろうって逆に不思議でしたね。自分で連載を始めたら、ようやくその謎が解けました。

それは…?

樹林
ミステリーは、最後までしっかりとトリックを考え、プロットを作った上でなければ作品を描き始められないんですよ。漫画家一人ではとてもしんどい。原作者がついていても大変で、「普通はミステリーを漫画の原作でやるくらいなら小説に行くでしょ」って考えるくらいなんです。「これを週刊でやるのは狂気の沙汰だ、だから誰もやらなかったのか」と(笑)。

その作業を毎週、十数年も続けたわけですね?

樹林
はい。とてつもなく大変な作品でしたが、そのぶん印象には残っています。金田一シリーズは今も続いていて、『金田一37歳の事件簿』を連載中、『金田一少年の事件簿R(リターンズ)』はテレビ(CS)放映中です。2018年には、弘兼憲史さんとのコラボレーション作品『島耕作の事件簿』も誕生しました。

では、2004年に連載を開始し、ドラマ化もされた『神の雫』(作画:オキモト・シュウ)はいかがでしょう?

樹林
もともとワインが好きで、姉と一緒に「この味わいはまるで泉のようだ」など、ワインの味を比喩で例えながら遊んでいたんですね。そのうち「もしかすると、これを漫画にできるのではないか? と思って作り始めたのが『神の雫』です。そもそもが自分のわがままから始めたようなものだったので、連載は1年も続けばいいと思っていました。しかし読者からの反響もよく、「作者に会いたい」と言ってくれる人がとても多かった。今でも付き合いのある起業家たちとも、この作品をきっかけに知り合いました。

また、日本だけでなく韓国、台湾、フランスなど海外でも翻訳され、高く評価していただいています。フランスでは200万冊ほどを売り、日本でワイン普及に貢献したとしたとのことでボジョレーワイン騎士団から「騎士号」の称号を贈られ、農事功労章や芸術文化勲章もいただきました。フランス人とこんなに仲良くなるとは思わなかったですね。『神の雫』は僕自身の生活を大きく変えてくれた作品です。

2011年7月、駐日フランス大使公邸で開かれたフランス芸術文化勲章の叙勲式で乾杯する、(左から)樹林ゆう子さんと樹林伸さん。二人には「亜樹直」として、農事功労章が贈られた(共同通信)

お話を伺っていると、樹林さんは就職留年以降、ずっと楽しそうな人生を歩んでいるんですね。

樹林
いや、つらかったですよ。『ホワイトアルバム』がアンケート最下位だった頃は、本当につらかった! 就職が全滅した時よりもつらいくらいです。ストーリーも大まかには僕が作っていたし。それを否定された気持ちですよね。漫画家にだってまだこれから…という時期に、無理やり連載を始めさせてしまった。それを含めてすごく責任を感じました。

だから「何としても人気を取らなきゃ」とプロットをいくつも書く。けど、たとえ「これはいける」というものができたとしても、本当にいいかどうかは分からないじゃないですか。アンケートの結果が出るまでは。面白いこと、楽しいことをやっていても、やっぱりつらいですよ。

でも、物語を作る仕事そのものは一貫して楽しいと。

樹林
「ストーリーを作る」ってことは「何人かの人間の人生を作る」ってことです。そりゃあ、楽しいですよ。子供を産んで育てるのと同じような面白さがある。
僕はあまり自分の分身みたいなキャラクターは作らないんですよ、恥ずかしいしね(笑)。僕が作るのは「こんな奴がいたらいいな」「こんな奴がいたら怖いな」「こんな奴がいたら気持ち悪いけど笑っちゃう」とか、子供のころに想像していたような人間です。そういう人間像を形にしていますね。

遊ぶように働いているんですね。

樹林
僕はそうですね。正直、「好きでやっていたら仕事になっていた」という感覚なんです。以前、元サッカー選手の中田英寿さんと飲んでいると、彼が「僕は今まで仕事ってものをしたことがない」と言い出しまして。「え、じゃあ今までやってきたことは何?」と聞いたら、「好きでサッカーをやっていて、気が付いたらこうなっていただけ。『仕事をしている』っていう感覚があまりない。樹林さんもそうじゃないですか?」と。それで「言われてみれば俺もそうかもな」と気付きました。楽しいことが仕事になっていくのが一番の理想ですよね。
5億円より、世界一の漫画雑誌の編集者

編集者として人を輝かせることと、原作者として自分が責任を持つこと。この二つの仕事では、楽しさのタイプは違いますか?

樹林
違いますね。実は僕、編集の仕事の方が好きなんです。編集者っていわばキングメーカー、陰の実力者じゃないですか。大物漫画家だって、デビュー前は何だかよく分からないやつです。そいつが世の中に認められていくのに関わっていて、間近で見ている。ダイナミズムがあって面白いですよ。

成長する漫画家には、どんな共通項がありますか?

樹林
まず、頭がいいこと。「学校の勉強ができる」というタイプの頭の良さではないです。話が通じて意見を言い合える相手であることが、クリエイティブな作業をする上ではとても大切。人の気持ちを理解して行動できる、その上で、自分の考えを持っている。そういう人でなければ、素晴らしい仕事はできません。

「漫画が好き」というのも条件ですよね?

樹林
もちろんです。「お金が儲かるから漫画家になる」なんて言うやつは、ダメに決まってますよ(断言)。「好きだからやってる」じゃないと。僕自身も、ガキの頃から夢中になってたくさんの漫画を読んできました。『あしたのジョー』(梶原一騎・講談社)『ドカベン』(水島新司・秋田書店)『ベルサイユのばら』(池田理代子・集英社)、手塚治虫さんが描いたマイナーな短編漫画まで。そんな名作たちは、コマ割りまで全部頭に入っていますよ。

そういう原体験があって漫画編集者になったわけですね。

樹林
もちろんです。ただ、講談社に入った当時から、作家として独立しようとは思っていました。当初は、5年だけ修業するつもりだったんです。けれど、やりたいことはやらせてもらえるし、居心地もいいから、辞める理由が見つからなかった。結局12年もいましたね。

下世話な話ですが、社員ではなく、フリーの漫画原作者として作品に関わっていれば、膨大なお金を得ることもできたように思います。お金のことは二の次だったのでしょうか?

樹林
あまり考えていませんでしたね。それよりも、当時はマガジンに勢いがあって、もう少しで売り上げ1位だった『週刊少年ジャンプ』(集英社)を抜けそうだったんです。自分が頑張れば、マガジンが世界一の発行部数に輝くかもしれない。その瞬間を経験したかった。1、2億円程度のお金なら、後からいくらでも稼げます。…まあ、実際は5億円くらい損しているんですが…(笑)。

膨大なお金じゃないですか!

樹林
お金を稼ぐよりも、みんなで頑張ってジャンプを抜くほうが、はるかに楽しいじゃないですか。編集者としても経験値が積める。実際、1997年にジャンプを抜いた当時のマガジン編集部の盛り上がりには、すごいものがありました。電車に乗ると、乗客の誰もがマガジンを読んでいるくらいでしたからね。僕はその雑誌で『GTO』『金田一』『サイコメトラーEIJI』『シュート!』と、アンケートの上位5本の指に全て入ることもある作品を手掛けていた。それは最高に気持ち良かったですよ。
プロフィール
樹林伸(きばやし・しん)
1962年東京生まれの漫画原作者・編集者。亜樹直、天樹征丸など多くのペンネームを持ち、『金田一少年の事件簿』『GTO』『サイコメトラーEIJI』『神の雫』(いずれも講談社)など数多くのヒット作を手掛ける。『東京ワイン会ピープル』(文藝春秋社刊)、『陽の鳥』(講談社刊)、『リインカーネイション』(光文社)、『ビット・トレーダー』(幻冬舎)、『クラウド』(幻冬舎)など小説も多数。ドラマや歌舞伎の原作・脚本なども担当。漫画アプリ「マンガボックス」(https://www.mangabox.me/)の創刊編集長でもある。
取材・文:萩原 雄太
1983年生まれ、かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。
http://www.kamomemachine.com/
撮影:加藤 甫
編集:松本香織、横田大(Camp)
デザイン:中屋辰平、PRMO


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