私の専門分野である「有機合成化学」は、現代の生活に不可欠な有機化合物を合成する学問です。この有機化合物はスマートフォンに使われる発光材料から医農薬品に至るまで多岐に渡っており、我々の暮らしを支えています。有機化合物の合成は、原子の間に結合を形成しながら進めていきます。レゴブロックさながらに分子を組み立てますが、思い通りに分子を合成するには、結合を形成するだけでは不十分であり、一度形成した結合を開裂する方法論も必要になります。結合の開裂によって生じる化学種はいくつかありますが、私は特に「ラジカル」と呼ばれる中間体に注目して研究を進めています。ラジカルとは不対電子をもつ常磁性の化学種で、一般的に短寿命で反応性の高い中間体です。再び結合を作る際にも有用で、アニオンやカチオンとは異なる独特な反応性を示します。私の現在の研究は、この結合開裂によるラジカル生成の選択肢を増やすことです。すぐに実用には結びつかない基礎研究ですが、教科書を変える可能性にロマンを感じ日々研究しています。
結合の開裂はある種の分解反応なので、せっかく作り上げた分子を壊さないようにするためには、特定の結合を選択的に開裂する精密な制御が必要です。何かの道具を使って狙った結合だけを選択的に切れれば話は早いですが、分子(結合)は小さすぎて人間の目には見えませんし、溶液中で自由回転する分子の動きを止めて、目的の結合を開裂する方法もありません。つまり、今の技術では局所的に分子にエネルギーを与えることは困難です。では、どうするかというと、狙った結合を開裂するために、周辺の構造を変換して目的の結合を弱めるという方法が広く使われてきました。しかし、これはいわば「遠回り」です。目的の分子に辿り着くまでの工程が増え時間も労力も増えます。この課題を解決すべく、従来反応しなかった結合を直接開裂する技術が活発に研究されてきました。特に光を利用する反応は、反応系へ与えるエネルギーが比較的大きく、熱を利用する反応では不可能だった結合開裂が実現可能な点で注目されています。LEDなどの光源が安価に購入可能になったこともこの分野の発展に重要でした。この15年間に様々な手法が生み出され、光を利用した結合開裂におけるパターン、定石のようなものが醸成しつつあります。これら既存のパターンとは異なる位置で結合を開裂する方法論を確立できれば、分子合成の可能性はさらに広がり、未踏分子を生み出すことや、従来合成が困難だった分子をより簡便に作ることに貢献できると期待されます。

図1. 分子合成の概念図。原子の間に結合をつくり分子を合成するが、自在な分子合成には結合の形成だけでなく、結合を開裂する手法も必要となる。
ヘテロ原子と相互作用するジルコノセンに着目した結合開裂
光を利用した結合開裂における新しいパターンを生み出すために私が着目したのは、ジルコニウム(Zr)を含むジルコノセンという触媒です。プリンストン大学留学中は全く異なる触媒系を使って、水素–酸素結合を開裂する反応の開発に従事しました。従来は困難だった開裂を実現する画期的な触媒系です。ただ、対象は水素原子を含む結合に限られていました。他の種類の結合開裂にも適用可能な方法を考えているうちにジルコニウムが候補にあがりました。ジルコニウムは、水素や炭素よりもヘテロ原子(水素と炭素以外の原子。酸素、窒素、ハロゲンなど)と強く相互作用する性質をもちます。この性質を利用すればヘテロ原子を含む種々の結合が開裂できると期待しました。ジルコノセン触媒を結合開裂、特に均等開裂に利用するためには、一電子を与えて「活性な」状態にする必要があります。外部から電子を与え、金属の酸化数を変化させるこの過程を一電子還元と呼びます。ジルコノセンの還元には、一般的に強力な試薬(還元剤)を必要としますが、あまりに強力なため、触媒の活性化時に分子が壊れる可能性があります。そこで、私はこの還元による活性化に光触媒を利用することにしました。光触媒とは、光エネルギーを化学エネルギーへ変換する触媒です。光を吸収して励起状態となった触媒が、一電子還元を促進します。可視光領域に吸収をもつ光触媒をフラスコに入れ、その後、可視光を照射します。すると、分子は反応せず光触媒のみが励起状態になり、ジルコノセンの還元が達成されます。一電子還元の過程を試薬ではなく光触媒で置き換えたのが私の研究の要点です。

図2. ジルコノセン触媒系。可視光で励起された光触媒がジルコノセンを活性化(還元)する。活性化した触媒がヘテロ原子をもつ分子の結合を開裂し、ラジカルを生成する。
開発したジルコノセン触媒系を用いることで、炭素-酸素、炭素-塩素、炭素-フッ素などの結合を開裂することができました。また、生成したラジカル種を使って、新たな結合を作ることにも成功しています。天然に豊富に存在する有機化合物は有用な医農薬品のシーズですが、安定な結合をもつものも多くあります。これらの結合を開裂し、構造を組み替えることができれば医農薬品の合成プロセスの短工程化に貢献できるかもしれません。ジルコニウムは金属の中では比較的安価であり、LEDの普及により可視光も容易に利用できるようになりました。今後も、開発したジルコノセン触媒系を利用して、強固な結合の開裂や、従来とは異なるパターンの結合開裂の選択肢の拡充に取り組みたいと考えています。また、結合開裂の方法論を生み出すだけでなく、実際に分子合成に適用し、有用分子を作り出すプロジェクトも進行中です。結合開裂がいかに分子合成を容易にするかを示したいと考えています。

図3. ジルコノセン触媒系を用いた結合開裂。本触媒系は天然物の誘導体にも適用できた。