- 森 和(Masashi Mori)助教(2009年5月当時)
中国古代のうらないマニュアル「日書」
近年の中国古代史研究では、従来の文献史料に加えて、出土文字資料の活用が不可欠になっています。紙がまだ普及していない時代、文字は竹や木の札、または絹の布に書かれていました。これらを簡牘資料、もしくは絹布のものも含めて簡帛資料とよびます。
私は現在、「日書」という簡牘資料を用いて研究を行っています。「日書」は、日にちや時間の吉凶を判断するといった中国古代の占卜(うらない)のマニュアルです。1975~76年に湖北省雲夢県で発掘された睡虎地秦簡を皮切りに、現在までに、戦国時代後期から秦漢時代(前284頃~後8年)にわたる墓葬から十数件出土しています。
うらないから社会を見たい
中国古代史でよく利用される簡牘資料は行政文書や律令などで、政治制度や法制の面からのアプローチが進んでいます。それに対して「日書」を歴史研究に用いることはあまりありませんでした。
「日書」は、出土した墓葬の地域的分布も広く、また被葬者の地位身分が下級官吏から王侯にまで及んでいます。これは「日書」に収録されているような様々なうらないが、ときには政治的行為も規定するような、中国古代の社会や人々の日常に深く根差したものであったと考えられます。
そこで私は、「日書」から社会を読み解きたいと考えました。歴史学の人間がうらないのテキストから当時の社会を描き出そうという取り組みは、稀なものです。
中国古代の1日は何時間?
「日書」から当時の社会をひも解く試みの一例として、中国古代の“時間”をめぐる研究を紹介しましょう。
まず、時間に関する2つの概念を整理しておきます。1日が何分割されていたか、つまり当時の1日は何時間だったのか、という際の概念が“時制”です。現在は1日24時間ですから“24時制”ということになります。そして、分割された個々の時間帯に与えられた名称を“時称”とよびます。
「日書」に収録されている多種多様なうらないは、特定の日の吉凶を記すものや、嫁入り・嫁取りといった特定の営為に対する良日忌日を示すものなどに大別できます。そこから確認できる時制・時称に関する記述が分析の対象です。
それでは、秦、漢の各時代はそれぞれ何時制だったのでしょうか。秦代の時制については、数件の「日書」から、12時制、16時制が併存していたとされています。さらに、より細分化された28時制の存在も確認されています。
一方、漢代の時制研究はこれまで、西北の辺境地区(シルクロードの入口あたり)出土の、行政文書としての性格をもつ簡牘資料に基づいて行われてきました。これら辺境出土簡牘による先行研究においては、漢代では基本的に16時制が行われていたとする見解が主流になっています。
漢の政府の制度として16時制が使用されていたことは辺境出土簡牘からわかりました。しかし、資料の公表状況や分量などの制約から、これまでは漢代の時制を「日書」に基づいて検討することが困難でした。
新しい資料から見る漢代の時制
そのようななか、1998年~2000年、湖北省随州市の孔家坡煉瓦工場の採土場で発見された前漢時代の古墓葬から、700枚余り(整理後478枚と残簡48片)の「日書」が出土しました。この孔家坡漢簡「日書」(写真)は、現段階で唯一全容が公にされた前漢時代の「日書」です。私は現在、恩師の工藤元男教授が所長を務める早稲田大学長江流域文化研究所が進めている、湖北省武漢大学簡帛センターと資料の所蔵機関である随州市博物館との孔家坡漢簡「日書」の共同研究に参加しています。
私がこの資料を分析した結果、収録されているうらないのなかには、確実に16時制であると判断できるものは確認できませんでした。一方、まとまった時称を見ることができる4篇のうち3篇はいずれも12時制に基づいていると考えられます。以上から、漢代中国では、政府の制度としての16時制と、うらないのための時制として12時制が併存していたことがうかがえます。
時称については、資料によって千差万別であり、一定の幅があったと理解できます。たとえば漢代の16時制の時称については、複数の資料に見える52種類にも及ぶ異称を統計し、使用頻度から最も普遍的な16の時称を割り出した研究があります。
同時期に複数の時制が併存する状態にあって、当時の社会や人々はどのようにそれを使い分けていたのでしょう。これは非常に難しい問題です。現在の通説では、漢代では16時制が民間で普遍的に用いられていた、もしくは主流であって、12時制は暦法家など特定の人だけが使用していたというように、限定的なものとして理解されています。しかし、基本的に人々の日常を対象とする「日書」において12時制が重要な位置をしめ、それに基づくうらないが社会に受容されていたことを考えると、この通説は少なくとも現在公開されている「日書」からは否定されるのではないかと私は考えています。
(左)孔家坡漢簡 (右)孔家坡漢簡(拡大図)
限られた資料とそこからの発想―日本の赤外線カメラの貢献
歴史学というと過去に目を向けると思われますが、実は技術の進歩と一緒に歩いているともいえます。上述の早稲田大学長江流域文化研究所と武漢大学・随州市博物館の共同研究では、長江流域文化研究所が提供した赤外線カメラを用いて、すでに公開された資料を撮り直す作業を行っています。赤外線カメラで撮影すると、肉眼で見えなかった文字もはっきりと読むことができます。
文字の解釈ひとつで意味が変わってきてしまうこの研究では、資料の精確さが重要です。資料が出土したらすぐに赤外線カメラで撮影し、テキストを作ることができたら最高でしょう。
私たち研究者が用いることのできる資料は、出土後、整理・公開されたものに限られます。よって、研究者たちはみな同じ資料を見ることになります。しかし、そこから何を読み取り、どのような世界を描くかは個々の研究者によって異なります。歴史学者にとって大切なのは、資料から何をどのように発想するのか、だと思います。
取材・構成:押尾真理子
協力:早稲田大学大学院政治学研究科MAJESTy