現在、キリスト教には多くの宗派が存在します。私自身、中学・高校はカトリック系の学校に在籍していました。なぜキリスト教には多様な宗派が存在し、またこれらはどのように発展してきたのでしょうか。中高生のころに感じたそうした疑問を出発点に、キリスト教の変遷とともに西洋の歴史を探っています。
教会分裂が中世ギリシャの歴史を揺さぶる
紀元前1世紀末に成立した古代ローマ帝国は、現在のスペインやフランスからトルコや北アフリカに及ぶ広大な国でした。パレスチナで生まれたキリスト教は、この古代ローマ帝国に広まり、4世紀初頭には皇帝によって公認され、4世紀の終わりには国教となりました。ローマ帝国が東西に分かれた後も、ローマには教皇がおり、キリスト教は西ローマ帝国とそれに続くゲルマン部族の国々、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で大きな影響力を持ち続けました。
しかし、次第に教義や言語を異にする人々の間で対立が起こるようになり、キリスト教は幾度かの分裂を繰り返します。その中でもっとも大きな分裂とされるのが、11世紀半ばに起こったとされるビザンティン正教会(東)とローマ・カトリック教会(西)の東西教会の分裂(シスマ)です。
当時、ビザンティン帝国は現在のギリシャとトルコの一部をおもな領土としていましたが、そこにイスラム勢力(セルジュークトルコ)が小アジアの東部から迫ってきていました。教会が分裂している状態では国の危機は免れられません。この異教徒勢力に対抗するため、ビザンティン帝国の皇帝はローマ教皇に救援を求め、十字軍派遣が始まりました。その一方で、代々の皇帝は分裂した2つの教会をなんとか合同させようとしました。ところがビザンティン帝国内では合同に反対する声が強く、1274年にいったんは教会合同が成立するものの、わずか8年で破綻してしまいます。トルコ人らの攻撃を阻止しきれず、次第にビザンティン帝国は滅亡への途をたどっていくことになりました。
合同反対派が唱えた独特な言説
一部の合同反対派は、「ビザンティン正教会とローマ・カトリック教会の合同は魂を脅かす平和である」と主張しました。彼らは、ローマ・カトリック教会の人々を「ラテン人」と呼び、自分たちの信仰とは相容れない異端者と見なしていました。そして、ラテン人との教会合同で魂を脅かされるよりも、イスラム教徒に身体を支配されるほうがましだと考えていたのです。
さて、なぜ彼らは「魂(プシュケー)」なるものに言及したのでしょうか。また、なぜこのようなラディカルな言説が生まれたのでしょうか。この問題については、あるテクストが重大な役割を果たしたと考えられます。
それは教会合同の是非について、皇帝マヌイル・コムニノスとビザンティン正教会の総主教ミハイル・アンヒアロスが交わした対話の記録とされるものです。このテクストの中で、合同を望む皇帝マヌイルに対して総主教ミハイルは次のように反論しています。
身体を軽視することはよりよく、魂に配慮することは有益です。身体を害するものを私はまったく顧慮しないでしょうが、魂を害するものについては、私はそれを拒もうと心掛けるでしょう。私たちは生ける神の神殿です。もし異教徒が我々の支配者となれば、我々はいかなる危害も受けないでしょう。しかし、もしイタリア人(ラテン人)と交わりを持てば、害はきわめて大きいでしょう。
テキスト総主教ミハイルは魂と身体を明確に区分し、身体より魂の方が大切であると説いているのです。そして、「魂=信仰」「身体=帝国」と対応させ、異端者であるラテン人との交わりは身体(帝国)を救うが、それによって魂(信仰)に危害が加えられるとして、教会合同に反対しています。このテクストは当時の聖職者や修道士の間に広まり、合同反対派の形成に大きな影響を与えました。

カーリエ博物館、「聖母の眠り」。イスタンブール旧市街の北西に位置するカーリエ博物館の建物は、ビザンティン末期に政府高官テオドロス・メトヒティスによって再建されたコーラ修道院の主聖堂である。館内では修復された当時のモザイク画とフレスコ画が観覧できる。この「聖母の眠り」において、イエス・キリストはマリアの遺体の側に立ち、赤子の姿で描かれた彼女の魂を手にしている。

聖山アトス、エスフィグメヌ修道院の主聖堂。同修道院は10世紀末にアトス半島の北西海岸に創建され、ビザンティン末期にはコンスタンティノープル総主教アタナシオスと神学者グリゴリオス・パラマスが一時期暮らした。今日のアトスにおいて、もっとも厳格な修道院の一つとして知られる。異教徒の主聖堂への立ち入りは禁止されている。(提供/橋川裕之助教)
巧妙に仕掛けられたテクスト
しかし現在、このテクストは何者かによって意図的に作られた偽書であると考えられています。皇帝マヌイルと総主教ミハイルの存命時期からすれば、対話は12世紀後半に行われたと考えるのが妥当ですが、その頃にはまだわかっていないはずの歴史的事実がいくつもテクストの中には記されています。また、実際には総主教ミハイルも合同を支持していたと言われています。
今ではこのテクストの作成時期は、1274年の教会合同成立の前後ではないかと考えられています。しかし、誰が書いたのかはわかっていません。ただ、たいへん豊富な知識を持ち、歴史に通じた人物だということは、テクストを分析すれば明らかです。
アウグスティヌスの思想の影響が強い西ヨーロッパとは異なり、魂と身体の二分法は、ビザンティン世界ではそれほど重要な考え方ではありませんでした。旧約聖書や新約聖書の中にも魂と身体を明確に分ける記述は見出されません。しかし、古代ギリシャまでさかのぼると、それはプラトンの一連の著作、とりわけ死の直前のソクラテスを描いた『パイドン』において現れ、哲学的な考察の対象となっています。『パイドン』において、ソクラテスは魂と身体についての彼独自の主張を展開し、彼の死刑の回避を望む友人たちに反論しています。すなわちソクラテスは、死は魂を身体から解き放つと述べたうえで、哲学者はその人の身体ではなく、魂に配慮し、やがて来る死に備えなければならないと説いているのです。
おそらく対話テクストの作者は、12世紀後半に皇帝マヌイルが追及した合同政策についても、キリスト教が普及する前に古代ギリシャの哲学者が唱えた思想についても十分な知識を持っており、皇帝ミハイルの合同政策に反対する立場から、容易には偽書と判明しえない、影響力のある政治的パンフレットを作ろうと望んだのです。そして結果的に、彼は人々の反ラテン感情を煽り、自分たちの魂を守るためにはイスラムの支配下に入ることも厭わないという合同反対の意を広めたのでした。
以上のように、キリスト教の変遷をたどることは西洋の歴史をたどることにほかなりません。また、対話テクストにおける魂への配慮については、中世ビザンティンの知識人が、帝国の民族的アイデンティティを維持あるいは強化するために、古代ギリシャの哲学を用いたという見方もできるのではないかと考えています。
取材・構成:秦千里
協力:早稲田大学大学院政治学研究科MAJEST