早稲田大学歴史館 助手 袴田 郁一(はかまだ・ゆういち)
1905年、最末期の清(しん)朝で突如起こった日本留学ブームの中で、早稲田大学は清国人留学生のための教育機関、「清国留学生部」を立ち上げます。現在、外国人学生の留学先として屈指の早稲田大学ですが、そのルーツがこの120年前にあると言っていいでしょう。
▼清国留学生部の設立に至る経緯はこちらの記事で
清国留学生部は1910年で閉鎖となりますが、わずか5年間という限られた歴史の中で学んだ留学生の数は推定のべ2,000人以上。特に初年度では762人もの留学生を迎えました。彼らにとって、海外への留学は初めての体験です。そのため留学先として欧米列強ではなく、比較的に距離、文化が近く、同じく漢字を使う日本が推奨されたわけですが、それでもあらゆるカルチャーギャップが彼らを襲います。とりわけ彼らを悩ませたもの、それはやはり食事でした。
中華料理の先駆けに
「日本の食べ物は、すこぶる簡単で、一汁一菜、味は至って淡泊。…夕食は汁と卵、飯も小さな箱に盛り切り。初めて食べてみると、具合が悪い(※)」
(※)さねとうけいしゅう・佐藤三郎訳『清国人日本留学日記』(1986年)より引用
黄尊三(こうそんさん、1908年清国留学生部特別予科卒)という留学生が日記に残した、来日したその日の食事の感想です。肉食中心、濃い味付け、たっぷり油を使う中国の料理に対し、日本食は魚や野菜が中心のあっさりとした味付けです。何より中国の人たちは魚の生食を怖がりました。黄はこの後7年間日本に親しみますが、最後まで食事には困ったようです。そもそも学生相手の下宿屋は大体、日本人学生も閉口する質素な食事だったといいます。
なじめない日本食から逃れるように、留学生たちは神田・神保町に増え始めていた中華料理店へ出入りするようになります。明治後期、中華料理は日本にようやく知られ始めたばかりでしたが、留学生たちのニーズがきっかけで浸透するようになったとも言われています。早稲田大学はそうした留学生のニーズをよく理解していたのでしょう。清国留学生部の寄宿舎では、朝昼晩の三食とも中国本場の料理が提供されていました。当時の献立表が今も残ります。

「1905年 清国留学生寄宿舎 賄献立表綴」(歴史館所蔵)。1905年10月から翌年1月にかけて寄宿舎で提供された献立一覧表。この資料は、旧3号館の屋根裏から発見された。当時には単なる書類の束でも、現代では貴重な歴史資料になる
大体朝はスープで、昼食夕食は豚・牛・鳥肉の炒め物を中心におかずが2品。別日には紅焼魚(炒めた魚のしょうゆ煮込み)や炒腰花(豚マメ(腎臓)炒め)の名前も確認できます。結構いいものを食べていますね。さらに中国の祝日(旧正月など)には特別メニューが組まれたともあります。
当時は専門の調理人を雇うにも食材を入手するにも大変だったでしょう。それでも早稲田は、彼らのストレスに配慮して、可能な限り環境を整えようと努めていました。食事面以外でも、遠足・修学旅行などのレクリエーションがたびたび企画されていたことが分かっています。
お金と病気
とはいえそれだけ手厚いケアにはお金がかかるもの。寄宿舎の舎費は、食事込みで月12円50銭でした。当時の小学校教員や警察官の初任給にあたる金額です。さらに、清国留学生部の学費は入学金5円、年間授業料が予科で36円、本科で48円でした。同じ早稲田の専門部が入学金2円、年間授業料22円、大学部が入学金2円、年間授業料33円だったことに比べると、留学生からはずいぶん頂戴していたことが分かります。
実際、この時期の清国人留学生は経済面では比較的恵まれていました。先ほどの黄は、日本の中流家庭の医者(妻と母の3人暮らし)が月24円で生活していると聞き、片や中国当局から毎月33円を支給される自分を「数倍贅沢」と反省する日記を残しています。当時は高級店だった中華料理店に留学生たちが出入りできたことも、この懐事情があればこそでした。
しかし、確かに経済的にゆとりはあっても悠々自適というわけでもありません。黄の日記によると、彼の一月の支出28円のうち、5円が医療費に使われています。一カ月分の学費を上回るほどの出費です。留学生の多くは、慣れない風土のために心身両面で病気に悩まされていました。特に精神面の不調(神経衰弱)を訴える記録が目立つように思われます。
清国という国家にとって、自国民を異邦の地で学び生活させる「留学」はほぼ初めての経験でした。留学第1世代の彼らには、現在のような留学生を守るための制度や組織はなく、頼るべき同胞の先輩は多くはありません。いつの時代も誰にとっても、留学というのは大変なことでした。
画像左:「1907年の早稲田大学キャンパスマップ」(『早稲田大学百五十年史』1巻より作成)。清国留学生部の校舎は現在の2号館付近に、寄宿舎は現在の121号館付近にあった
写真右:「清国留学生部校舎」。校舎に使われた建物は、東京専門学校(早稲田大学の前身)創設以来の木造洋館。後に東伏見に移転して「グリーンハウス」の名で親しまれた。その後老朽化のため解体されたが、現在は軽井沢セミナーハウスに新築復元されている