「障がいを持っていても、海外に行き、誰かを支援できることを示したい」
社会科学部 2年 齋藤 凛花(さいとう・りんか)

戸山キャンパス 戸山の丘にて
2022年の5月から6月にかけて、ポーランドでウクライナ避難民の支援活動に取り組んだ社会科学部2年の齋藤凛花さん。感音性難聴を持つ齋藤さんは、自らも当事者として関心を抱いてきたマイノリティー支援にも重きを置いた避難民支援事業の参加募集を知り、すぐさま応募したといいます。ポーランドの避難所での経験から自分の中に変化が生じてきたと語る齋藤さんに、支援活動の経験や大学での学び、将来への展望などを聞きました。
――ウクライナで戦争が続く中、隣国のポーランドで支援活動を行うには、大きな決断が必要だったのではないかと思います。どのようなきっかけで、支援活動に参加したのですか?
2022年5月から2週間ほど、公益財団法人日本財団ボランティアセンターが主催する、日本人学生によるウクライナ避難民支援のためのボランティア活動「The Volunteer Program for Ukraine」の一員として、ポーランドでのウクライナ避難民支援活動に参加しました。参加を決めたのは、この支援事業がニュースで取り上げられたときに「障がいを持つ避難民を支援する大学生を募集している」と紹介されていたからです。
私には、生まれつき感音性難聴(内耳や中枢神経系の障がいによる難聴)という重い障がいがあります。1歳のときに人工内耳を付ける手術をし、さらに訓練を続けて、今では聞いたり話したりできるようになりましたが、自分はマイノリティーだとずっと感じてきました。だから「マイノリティーの避難民支援」と聞いたとき、自分だからこそ分かることがあるはずだ、行くしかない、と思ったんです。応募するときに迷いは全くありませんでした。

(写真提供:日本財団ボランティアセンター)
――実際に支援活動に取り組んでみて、どのような経験がありましたか?
私が支援活動を行った場所は、ポーランド南東部の都市プシェミシルと、そこからさらに東にあるウクライナとの国境の町メディカです。メディカは小鳥のさえずりが聞こえてくるような静かな町で、すぐそばで戦争が起きているのが信じられないという気持ちさえ抱きました。
写真左:プシェミシルの大型スーパーマーケット跡地。一時避難所として使われていた
写真右:メディカの入国管理施設。ウクライナに戻る人たちが列をなしていた
私が支援活動をしていたプシェミシルの一時避難所には、ビザの発給を待つために2、3日だけ滞在する人から、行き先が見つからず2、3カ月も滞在している人まで、多くの避難民がいました。中には、半ズボンとビーチサンダルで命からがら逃れてきたという人も。そんな避難所で、私は世界各国から届く支援物資の仕分けから子どもたちの世話、感染症対策として消毒・検温まで、さまざまな活動に取り組みました。避難所でのボランティア活動では、頼まれてから何かを行うのではなく、自ら役割を探すことが大事でした。

避難民の子どもと遊ぶ齋藤さん(写真提供:日本財団ボランティアセンター)
――避難所で活動する中で、心に残ったことを教えてください。
避難所には、世界各国からボランティアが集まっていました。学生として派遣されていたのは私たち日本人だけでしたが、中には、自国で幼稚園の先生をしていたけれども、子どもが苦しんでいるのを見て、居ても立ってもいられずボランティアとして来た人もいました。特に印象的だったのは、ロシア人のボランティアが奮闘していたこと。ロシア政府から罪に問われる危険も顧みずに、避難民のために動いていることに感銘を受けました。さらに、自分自身も避難民でありながら避難所でボランティア活動をしている人たちもいて、心を動かされました。

一時避難所での食事。避難民と同じ料理を食べていた
ウクライナから避難してきた、同学年の大学生との出会いもありました。彼のお父さんは戦争に行ってしまって、お母さんは戦争で足を失っていました。ウクライナでは国民総動員令によって18~60歳の男性は出国できませんが、彼はお母さんの介護のために出国が許可されて避難所に来ていたんです。でも、介護に専念するために元々通っていた大学を辞めなければならず、「戦争のせいで学ぶことができなくなった」と話していました。彼のスマートフォンを見せてもらうと、大学の学園祭の写真の直後に、戦争の生々しい写真や空襲警報のアラートの録音などが保存されていました。私と同じ年齢で、私と同じ分野を専攻していた大学生だっただけに衝撃が大きく、特に記憶に残っています。
その大学生のお母さんのサポートなどは行いましたが、当初の想定とは異なり、支援活動の中で障がいを持った方と接する機会はあまりありませんでした。けれども、避難民として他国に逃れ、それまで築いてきた生活や社会のセーフティーネットの外に出た状態は、障がいに重なるように感じました。

ボランティアの大事な役割には、避難してきた人から戦争の経験談を聞くこともあったそう。戦争を経験していないために、話をただ聞くことしかできず、もどかしく感じたと話す(写真提供:日本財団ボランティアセンター)
――海外での支援活動は、齋藤さんにとってどのような経験になりましたか?

避難所の壁に貼られた、世界中からの応援の手紙
ポーランドへ行くまでは、「やりたいことをやり尽くそう」という気持ちが強くありました。ボランティア活動を通じていろいろなことを経験してみたい、やってみたいと思っていたんです。それが、実際に支援活動を行う中で、自分がやりたいことだけでなく、自分に求められていることは何かを考えて行動するようになりました。
そして、自分の関心も広がったと感じています。これまでは聴覚障がい者の社会参画に携わりたいと思っていたのですが、ウクライナ避難民の支援をきっかけに、マイノリティー全体の社会参画に関心が広がりました。
帰国後も、ウクライナから日本に避難してきた人たちの支援活動に携わっています。現在は、早稲田で受け入れているウクライナ人学生5名をサポートする活動に参加しています。他の早大生と共に、留学生が大学になじみ、東京滞在を楽しむことができるよう、日常生活で困ったときの手助けをしたり交流イベントを企画したりしているんです。そのとき意識しているのは、「同じ大学生」として接するということ。ウクライナ人学生たちは、助けられる対象としての避難民ではなく、一人の学生として大学に溶け込みたいと口にします。その気持ちを大事にしたいと考えています。

2022年9月に早稲田キャンパスで開催された、ウクライナ人学生の歓迎会での一枚
――これからの展望を聞かせてください。

ポーランドではアウシュヴィッツ強制収容所も訪れた
この秋からは奥迫元先生(社会科学総合学術院准教授)の国際関係論のゼミに所属し、理論と歴史の相互検証を行いながら、国際紛争に関して学んでいます。この学びを通じ、マイノリティーの社会参画促進に向けてどのように国際的にアプローチできるかを考えたいです。
また先日、「村上財団パブリックリーダー塾」の第一期メンバーに選ばれました。これは、女性のパブリックリーダーを生み、社会問題の解決やジェンダーギャップの解消を目指す取り組みです。私自身が政治の道に進むかどうかはまだ分かりませんが、政治家に女性や障がい者が少ないことには問題意識を抱いていて、政治というフィールドから社会を変えていくことにも関心があります。
聴覚障がいを持っている人は、自分の殻に閉じこもってしまうことも少なくありません。私は、障がいを持っていても、海外に行き、誰かを支援できることを示していきたいんです。私自身、社会のために何かができるということに大学に入ってから気が付きましたし、今はゼミなどで心躍るような学びにも打ち込めています。誰かの励みやロールモデルになることを目指して、これからも勉強と活動を続けていこうと思います。
第832回
取材・文・撮影:早稲田ウィークリーレポーター(SJC学生スタッフ)
大学院法学研究科 修士課程 1年 植田 将暉
【プロフィール】
愛知県出身。桜花学園高等学校卒業。高校2年時から、1年半米国の高校に留学していた。早稲田大学に進学したのは、校友(卒業生)である家族の影響が大きく、子守歌が『紺碧の空』だったと語る。大学1年の頃から、東京大学や慶應義塾大学の複数のゼミに参加し、障がい者や外国人の社会参画や社会政策などを学んでいる。写真は、所属するゼミの先輩たちと北米を横断したときの一枚。オーロラを堪能したそう。