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新型コロナウイルス感染症対策における「人権を基盤としたアプローチ」の重要性

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授 棟居 徳子(むねすえ・とくこ)

感染症の大流行や大規模災害の発生などの緊急事態においては、それまでその社会に存在していた不平等や差別が顕在化ないし悪化すると言われている。感染症や災害そのものは無差別であるが、その結果や影響は全ての人に同じではない。今般の新型コロナウイルス感染症の世界的大流行は、世界中の多くの人々の生活や社会経済活動に多大な影響を与えているが、なかでもそれぞれの国・地域において特に脆弱な立場に置かれている人々に深刻な影響を与えている。

写真提供:時事通信社

緊急事態においては、全ての人々の生命と健康を守るための公衆衛生上の措置とともに、その社会経済的な負の影響を考慮に入れて、特に社会の中で脆弱な立場にある人々の生活・労働・教育に対する権利などの経済的及び社会的権利への影響を緩和させるための措置もとることが求められる。また、緊急事態時に発生・悪化する特定の集団に対する差別、ヘイトスピーチ、ゼノフォビア(嫌悪)、ジェンダーに基づく暴力等への対応も必要である。第三者による人権侵害から人々を保護することは国家に課せられた義務(保護義務)であるとともに、人権を尊重することは感染症対策が成功するための基本であり[1]、人権を基盤としたアプローチ(Human Rights-Based Approach:HRBA)から新型コロナウイルス感染症対策を実施・評価することが重要である。

[1] OHCHR, COVID-19 Guidance. May 2020. https://www.ohchr.org/EN/NewsEvents/Pages/COVID19Guidance.aspx

新型コロナウイルス感染症対策に関わる国際人権基準

写真提供:時事通信社

感染症対策における人権を基盤としたアプローチの重要性は、さまざまな国際文書の中で指摘されている。世界保健機関(WHO)は、新型コロナウイルスの感染拡大について2020年1月30日に「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言した。WHOによるこの緊急事態宣言は、「国際保健規則」(2005年改正)という日本を含む196か国を法的に拘束する国際規則によるものである。本規則には、人間の尊厳、人権及び基本的自由の尊重の実現のために、国連憲章とWHO憲章に従い、感染症の国際的拡大から世界中の全ての人々を保護するために本規則を実施しなければならないこと(3条)や、「旅行者」の人権保護(23、32、45条)、加盟国によってとられる措置が透明かつ無差別に適用されなければならないこと(42条)が定められている。

また、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約の12条には、「到達可能な最高水準の身体的及び精神的健康を享受する権利(健康権)」が規定されており、日本を含むこの規約の締約国には、感染症等の予防、治療及び管理のための効果的措置を無差別平等に実施することが義務付けられている。他方、人々の健康権を実現するために国家によってとられる隔離や検疫、その他の措置が、人々の移動の自由や身体の自由など他の人権の制約となることがある。こうした公衆衛生上の緊急事態における人権の制限は、国際法上、一定の条件のもとで許容されている。「市民的及び政治的権利に関する国際規約の制限及び逸脱条項に関するシラクサ原則」(1984年)では、人権の制限が①法律に定められ、②法律の目的に基づき、釣り合いのとれたものであり、③民主社会に不可欠であり、④より制限的でない措置がとられ、⑤恣意的、不合理かつ差別的でないことが要求されている。

日本における人権保障上の課題

写真提供:時事通信社

新型コロナウイルス感染症対策として、人々の権利・自由を大幅に制限する非常に厳しい措置をとる国もある一方で、日本は人々に「自粛」を要請する比較的緩やかな措置をとっている。しかし、そうした比較的緩やかな制限措置であっても、人々の生活や社会経済活動への影響は大きく、特に非正規雇用や自営業・フリーランスで働く人々、シングルマザーや世帯収入の低い人ほどその影響は深刻であることが報告されている[2]

[2] 公益財団法人連合総合開発研究所「勤労者短観 新型コロナウイルス感染症関連緊急報告」2020年4月;独立行政法人労働政策研究・研修機構「新型コロナウイルスによる雇用・就業への影響等に関する調査、分析PT」2020年6月・7月・8月;シングルマザー調査プロジェクトチーム(NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむ)「新型コロナウイルス 深刻化する母子世帯の暮らし―1800人の実態調査・速報」2020年8月.

さらに、感染者や感染リスクの高い人々及びその家族への偏見・差別に関する事例も報告されている。感染者本人及びその家族のみならず、所属する学校や職場にも誹謗中傷の電話やメールが多数送られてきたり、感染者の顔写真や個人情報がインターネットやSNSで拡散されるといった事例や、医療従事者の子どもの保育所への受入れ拒否など、医療従事者とその家族への偏見・差別に関する事例も報告されている[3]

[3] 日本医療労働組合連合会「『新型コロナ感染症』に関する実態調査結果まとめ」2020年4月:同「『新型コロナ感染症』に関する緊急実態調査」2020年9月.

これまでに報道や民間の調査等により報告された不平等な影響や偏見・差別の事例は全体のごく一部であろう。まずその実態を明らかにし、新型コロナウイルス感染症対策の人権影響評価を行う必要がある。この点、政府は新型コロナウイルス感染症対策分科会の下に「偏見・差別とプライバシーに関するワーキンググループ」を設置し、ようやく実態把握に乗り出した。調査にあたっては、差別禁止事由ごとに細分化されたデータや情報を集めるとともに、侵害されている人権ごとに分析を行うことが求められる。また、いくつかの自治体で差別を禁止する条例や被害者への相談支援体制が整備されている。こうした自治体の取り組みを参考に、関連法の改正を含めた法整備も喫緊の課題である。

さらに、日本の大学においても、ハーバード大学など欧米のいくつかの大学のように、「健康と人権」に関する研究及び教育が展開される必要があるだろう。特に日本では、ハンセン病などの感染症の患者・家族、精神障がいを含む障がいのある人、水俣病などの公害の被害者や福島第一原発事故の避難者など、健康状態ないし健康被害に基づく差別が数多く存在する。また近年、日本でも社会格差の拡大とともに健康格差の拡大が危惧されている。こうした健康状態/健康被害に基づく差別や健康格差の問題を、人権を基盤としたアプローチから学際的・国際的・実践的に取り扱うプラットフォームとして、「健康と人権」に関する研究所を早稲田大学にも開設したいと考えている。

【追記】

本稿は、拙稿(2020)「公衆衛生上の緊急事態における人権保障―新型コロナウイルス対策において求められること―」『週刊社会保障』No.3066、44-49頁と、2020年9月11日に開催されたU.S.-Japan Instituteのセミナー”The COVID-19 Pandemic: Human Rights and Public Health in Japan and the United States”での報告をベースにしている。

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授 棟居 徳子(むねすえ・とくこ)
中央大学法学部法律学科卒。金沢大学大学院 社会環境科学研究科地域社会環境学専攻修了。博士(法学)。立命館大学、神奈川県立保健福祉大学、金沢大学を経て、2019年4月より現職。
専門は社会保障法と国際人権法で、主に「健康と人権」に関する研究を行っている。

※当記事は「WASEDA ONLINE」(2020年11月9日掲載)からの転載です。

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