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戦前・戦後の最初の総長【第1回】

早稲田大学初代総長 大隈重信

大学史資料センター 非常勤嘱託 木下 恵太(きのした・けいた)

総長就任までの大隈重信

明治政府の高官であった大隈重信が西洋文明導入の旗手として活躍しながら、政府より追放された明治十四年の政変は、大隈の生涯の分岐点となった事件である。大隈はその翌1882(明治15)年の10月に私立の東京専門学校を南豊島郡下戸塚村(現・新宿区戸塚町)に創設した。大隈はその私有地に学校の敷地(現在の早稲田キャンパス2号館~正門付近)を設定し、洋風の校舎を自ら建築して用意しており、名実共に学校の生みの親であり、また「恩人」であった。

一方で、大隈は立憲改進党を結成していたように、本人の意識においてはあくまで政治家であり、英国流の近代国家の建設という大きな視野において、私立学校の創設はその事業の一つという位置付けであった。このため、学校の具体的な運営や教育の事業は学校幹部に委任しており、創立15周年(1897年)以後は次第に学校や校友会にて演説する機会が増えたものの、学校の何らの役職にも就任していなかった。大隈自身がその式典にて「学校は寺みたいなものだ。私は檀家(だんか)だ」と演説したように、大隈は学校の後見人、また支援者・賓客を兼ねたような立場にあった。学校幹部の方でも学校の多面的な発展の点で、一政党色が着く「大隈学校」とみなされることを避けたい事情があり、「学校の独立」のためにも大隈とは一定の距離を保つようにしていたのである。

大隈総長と早稲田大学

こうした状況が変わったのは、東京専門学校が早稲田大学に改称してから5年後の1907年のことである。大隈が率いる政党の代議士たちは万年野党の状況にしびれを切らしており、不満を察知した大隈は党大会にて「告別演説」を行い、その党首を突然辞任した。この時、大隈は「我輩は…死に至るまで政治を止めはしない、政治は我輩の生命である」(注1)と演説したが、この事態の新展開に素早く反応したのは、早稲田大学の幹部たちであった。幹部たちは、国民の社会的指導者の立場に転じた大隈を大学の表に擁立し、その民間における大きな名声と国民的な人気を早稲田大学の発展に活用したいと考えたのである。

早速、幹部たちは6876坪に達していた学校敷地の寄贈を大隈に要請するとともに―大隈はこれを快諾した―、総長職を新設し、大隈に就任を要請した。大隈は「自分は学校の為とあらば、老後の思ひ出に看版(看板)となるは敢て辞する所にあらず」(注2)と語ってこれを承諾し、1907年4月に初代の早稲田大学総長に就任した。実は、同時に学長職が設置され、学校運営は学長が一手に引き受ける規定となっており、総長は名誉職であった。しかし、大隈自身そうした役回りを認識しながら、喜んで大学の「看版」となることにしたのである。

(注1)『憲政本党党報』第8号
(注2)市島謙吉『外平内動録』(早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵)PDF31

創立30年祝典における大隈重信総長(右)、1913年10月。
左が教員の大隈信常、中央が学長の高田早苗。大学では大隈総長のみが緋色(赤)のガウンを着用し、その他の者は黒のガウンを着用する規定であった(大学史資料センター所蔵)

総長に就任した大隈に対し、大学幹部が特に期待したのは、募金運動における活躍であった。当初、大学幹部・市島謙吉の記録には、大隈の演説が楽天的で募金の「効力」が薄いと心配したことが記されている(注3)。しかし、その回想によれば、大隈が募金の演説に滔々(とうとう)と政治・外交から世界の大勢を説くありさまであっても、集まった富豪たちは募金に応じてくれたという(注4)。大隈は募金を勧誘するための旅行も行っていたが、その際、不自由な足を投げ出して末席に着き、辞を低くして大学への同情を求めたことがあり、学長だった高田早苗は感激して思わず涙が込み上げてきたことを回想している(注5)。こうした努力があり、大隈の旧友である実業界の重鎮・渋沢栄一らが募金のため尽力したこともあって、巨額の資金を要する私立では初の大学部理工科の開設に成功したのであった。

しかし、大隈の大学への貢献は、募金といった形の面だけに止まるものではなかった。大隈はその老年になり、「吾輩は常に満々たる勇気を持って居る。前途に大希望あり、大抱負がある」(注6)、「吾輩は破れて勝ったんである」(注7)と語っているが、その生涯は進取の精神をモットーとする早稲田大学の気質と重なるところがあった。また、権威による支配を好まず、「不羈(ふき)独立」を重んじていた大隈総長の姿は「自由の学園」と称された早稲田大学と相通じるところがあった。大学幹部市島はそうした大隈のことを「精神的校風の創立者」と述べている(注8)。そして、何より、大隈の開放的な性格、広く人々とのつながりを大切にする姿勢は、人々に親しまれる庶民性・社会性に富んだ「早稲田大学らしさ」を形作っていった部分が確かにあったといえるのである。

卒業証書授与式における大隈総長(中央、椅子に座っている人物)、1916年7月(大学史資料センター所蔵)

(注3)市島謙吉『背水録』(早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵)PDF51
(注4)市島謙吉『大隈侯一言一行』(早稲田大学出版部、1922年)62~64頁
(注5)高田早苗『半峰昔ばなし』(早稲田大学出版部、1927年)468~469頁
(注6)大隈重信『大隈伯社会観』(文成社、1910年)314頁
(注7)前掲『大隈侯一言一行』167~169頁
(注8)市島謙吉『随筆早稲田』(翰墨同好会南有書院、1935年)121頁

戦前・戦後の最初の総長【第2回】

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