Waseda Weekly早稲田ウィークリー

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学生生活の不安と悩みは、“見つめる”ことが処方箋

学業や対人関係、将来の進路…。さまざまな不安が付いて回る、早大生の学生生活。いざ誰かに相談しようとしても、コロナ禍で腰が重くなってしまう人も多いのではないでしょうか。そこで今回、臨済宗建長寺派満昌寺の副住職・永井宗徳さん(2014年人間科学部卒業、2016年文学研究科修士課程修了)と、臨床心理学を専門とする熊野宏昭教授(人間科学学術院)による対談を企画。心を整える手段として注目される禅(※1)やマインドフルネス(※2)の視点から、早大生が抱える悩みについて答えていただきました。

※1
仏教における概念の一つ。「心が動じず落ち着いた状態」を示し、坐禅を中心とした修行を行うことでその達成を目指す。
※2
過去の失敗や未来への不安でなく、“今の瞬間”に意識を向ける瞑想法に代表される心の使い方、生き方を意味する。

※記事内で掲載するお悩みは、読者モニターから募集し、早稲田ウィークリー編集室にて編集しています。

知るだけでも心が晴れる、
仏教の思想と実践法

仏教と心理学のそれぞれの分野から人の心に日々向き合う2人は、約10年前に早稲田大学で出会いました。生家が寺院ということもあり、幼少の頃からおぼろげながら仏門を志していたという永井さんは、仏門に入る前に心のケアについて臨床心理学を中心に学ぼうと人間科学部に入学。熊野教授の授業に感銘を受けたそうです。

永井
「マインドフルネス」の概念を初めて教えてくれたのが、熊野先生でした。私は生家が寺院ということもあり、禅について雑然とした知識はあったのですが、禅では抽象的に説明される概念を、先生が心理学的な視点から分かりやすく整理して教えてくださったんです。仏教で説かれる概念に由来するマインドフルネスが臨床心理の治療でも使用されているということも含め、衝撃を受けたのを覚えています。3年次からは先生の研究室に入り、卒業論文でもマインドフルネスを研究。僧侶として活動する現在も、その素養は役立っています。
熊野
マインドフルネスと禅は、どちらもルーツは仏教なんですね。ブッダが説いた仏教の実践方法「八正道(はっしょうどう)」に、正しく気付く「正念(しょうねん)」、正しく精神統一をする「正定(しょうじょう)」があります。 “今の瞬間”の現実をありのままに観察するマインドフルネスは「正念」、心を安定・統一させ叡智(えいち)に達しようとする禅は「正定」を強調しますが、どちらも目指すのは物事の本質を正しく理解する「正見(しょうけん)」です。時を経て現代になり、これらの方法が、心身のストレス緩和や、固定観念を離れる方法として注目されるようになりました。そして、Googleなどで社員研修としても取り入れられるようになったのです。
永井
坐禅による瞑想法を中心に修行する禅宗は、中国・南北朝時代の達磨大師が開祖。日本では鎌倉時代に伝わり発展を遂げ、脈々と現代まで受け継がれています。一方で近年、欧米の影響を受け、日本でもマインドフルネスが注目されている。先生がおっしゃるようにどちらも同じルーツでありながら、長い歴史の中で形を変えて世界を飛び回っているのが面白いですね。
熊野
実は私も、仏教やマインドフルネスに救われた一人なんです。高校生の頃、受験勉強で行き詰まり、なんとか状況を打開したいという思いでヨガに挑戦。大学時代には禅と出合い、何度か坐禅会に通いました。マインドフルネスに出合ったのも、研究者としてのキャリアの中で、一度教授への昇進に失敗したことがきっかけです。マインドフルネスが「通常の心の働きを壊す方法」という考えを知り実践したところ、実際に、教授昇進に失敗したことへの後悔に支配された自分の心も変えてくれました。この経験からマインドフルネスが臨床心理でも有効であると感じ、長年にわたり研究を続けています。
永井
まさか、熊野先生がそこまでの挫折を経験していたとは…! 仏教の根底には平たく言えば “失敗してもまた起き上がれば大丈夫。失敗したことに執着しない”という考えが根底にあります。失敗から学び、後悔という執着から離れ、新しいことに取り組んでこられた先生だからこそ、今のキャリアがあるのだと思いました。
熊野
禅やマインドフルネスは、苦しい時代を生きる学生さんにも役立つはず。では早速、皆さんの悩みについて考えていきましょうか。
対談が行われたのは、大隈庭園にある完之荘(かんしそう)。校友(卒業生)で実業家の小倉房蔵氏が飛騨の山村にあった古屋を移築した建物で、1952年に早稲田大学に寄贈された
2014年、熊野研究室の謝恩会で。人間科学部で出会った、熊野教授(左)と永井さん(右)。研究室の同窓会などを通じて今も交流があるという。「そういえば研究室では『お寺くん』と呼ばれていましたね(笑)」(永井さん)

コロナ禍により生活スタイルが一変し、思い描いていた学生生活を送れていません

“理想のキャンパスライフ”という固定観念を捨ててみましょう

熊野
まず、「思い描く」ということ自体が、苦しみの原因であることを知りましょう。私も先に述べた挫折の際、「なぜ教授になれないのか?」「こんなはずではなかった」「自分はなんて情けないんだ」という考えが次々と頭を支配し、苦しみました。しかしこうした考えは、「教授になれるはず」と思い描いた未来に取りつかれてしまっているから生まれるのです。マインドフルネスでは、この思考の世界から外に出て、目の前の現実を等身大に感じ取ることで、ストレスを緩和させていきます。同じ考えを繰り返してしまうのは、不健康なわけですね。
永井
仏教には「諦念(たいねん)」という言葉があります。「諦める」という字面はネガティブなイメージを連想しますが、実は仏教では、物事の本質をはっきりさせるという、プラスの意味があるんです。今の状況が突然変わることなどないのだから、むしろ執着せずに諦めることでスッキリとする。その上で、状況に応じた方法を模索した方が健全ということでしょう。
熊野
「諦める」の語源は「明らかにする」ですもんね。学生の皆さんが取り組むべきなのは、今、自分が置かれている状況を知ること。「理想のキャンパスライフ」「本来の大学生の姿」「早稲田に入るとこんなことができる」といった固定観念にとらわれるのではなく、むしろそこから離れることで、現実がどうなっているかを明らかにできるでしょう。
永井
そのためには、視野を広げ、悩みや不安を抱えている自分を外側から客観的に見ることが必要です。すると、「自分のやりたいことは一つとは限らない」ことにきっと気付くはず。コロナ禍であっても可能性が少しずつ拓(ひら)けるのではないでしょうか。
頭の中に“バーチャル”な現実を創り出すことが、悩みや不安の元凶だという熊野教授。これらを諦め、ありのままの現実を見ることで、多くのことが解決されるという

Zoomでの授業やSNSでの連絡が増え、対面でのコミュニケーションを面倒に感じています

最適なコミュニケーション手段を選んでください
対面の機会を持つことも大切です

熊野
以前と比べ、メールやSNS、さらにはZoomなどのオンライン会議ツールでのやり取りが増え、コミュニケーションの手段は格段に広がりました。ただし気を付けなければならないのは、それぞれのツールには特色があることです。例えば、メールのように文字でやり取りするツールには、「意見が合ったときにはどんどん盛り上がり、すれ違ったときには突然ギスギスする」という、極端な性質があります。コミュニケーションの手段を選び間違えてしまったせいでやりとりがうまくいかず、悩んでしまっている人は多いのではないでしょうか。
永井
文字というのは、実は情報量が極めて少ないですよね。人は同じ空間に居合わせると、五感を使って相手の感情を読み取ります。しかしオンラインツールではどうしてもそれが難しい部分もあります。Zoomであっても頼りになるのは視覚と聴覚だけなので、状況が許せば、対面で会うことも大切だと思います。
熊野
現代の人間関係は、非常に多様です。オンラインツールがあるから世界中の人とすぐに話せますし、出会いのチャンスも広がります。最近話題のメタバース(※3)にも、コミュニケーションの新しい可能性を感じます。だからこそ失望せずに、適切なコミュニケーション手段を選びながら、人とはつながり続けてほしい。なぜなら、自分の頭の中の固定観念を打ち砕いてくれるのが、友人だからです。
永井
私も、修行時代を共にした同期や後輩、厳しくも温かい先輩から、多くのことを学びました。楽しいことだけを共有する友人よりも、嫌なことがあったときに、自分の気持ちを分かってくれたり、自分をいさめてくれたりする友人の方が、大切なことを教えてくれますね。コミュニケーション手段に制約のあるつらい時代ですが、共に一つのことに挑戦するなど、苦楽を共にするような深い付き合いを、できるだけしていただきたいです。オンラインだけのつながりではなく、徐々に食事、旅行をしたりというように、段階的に対面の機会を増やすのが良いのではないのかなと思います。
※3
「メタ」と「ユニバース」を組み合わせた言葉で、インターネット上での仮想空間を指す。
鎌倉・建長寺で5年間修行し、それまでの大学生活とかけ離れた「カルチャーショック」ともいえるこれまでと違った環境の中で、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ/身に本来そなわる仏性を見抜いて、仏の境地へとたどり着くこと)」に近づくため、叱咤(しった)激励される日々を経験したという永井さん
うつ病など精神疾患にもアプローチする熊野教授は、マインドフルネスの効用を科学的視点から研究する

SNSやネットニュースの世界にとらわれている自分がイヤになります

スマートフォンを部屋に置き、散歩に出掛けましょう
悩んでいるときこそ、行動すべきです

熊野
コロナ禍やウクライナ情勢に関するニュースをよく見ると、情報に、マスコミや政治家、国家など、発信者の“意図”が非常に強く働いている場合があることが分かります。SNSでの誹謗(ひぼう)中傷も同じ原理です。そうした情報に飲み込まれ、実際とは異なる“バーチャル”な現実を頭の中に構築することは、非常に危険です。
永井
私から、興味深い言葉をご紹介したいと思います。建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の語録に、今日の情報社会の弊害に警鐘を鳴らすような言葉が残されています。

諸人よ、毎日その中にいるのに、中のことを知らないのはなぜか。
それはきみらが、目の前の万象を捨てることができないからだ。毎日かぎりなく多々の物事が目に入り耳に入る。きみらは外境に執着し、おのれにかえっておのれを観じることができず、おのれを聞くことができない。だから目に見えるもの耳に聞こえるものに振りまわされ、まったく自由がない。これは他人がきみらを妨害しているのではなく、きみら自身が自分を妨げているのだ。

蘭渓 道隆禅師『蘭渓録』(公益財団法人 禅文化研究所)
41p

端的に言うならば、私たち人間は目や耳から得た情報に振り回されやすいということです。750年も前にこの言葉があったことには驚かされますよね。われわれにはそうした性質があることを念頭に置いて生活することは、現代の情報社会でも必要なのではないでしょうか。
熊野
実に面白いメッセージです。情報と一定の距離を置くことは大切。他方、「自分探しをしよう」と内面にこもることにも注意しなければなりません。それがスマホ中毒と組み合わさると、無限の自己注目に陥り、かえって危険だからです。外界の情報も自己の内面も、それについて考え続けてしまうと、妄想の世界が広がってしまうので、やはり良くないんですね。妄想の世界から出るには、現実そのものと触れ合うことが大切になります。
永井
お勧めなのは、スマートフォンを部屋に置いて、15分ほど散歩をすることです。季節の移り変わりや鳥のさえずり、水のせせらぎなど、目の前の現実を五感で受け取ることで、ニュートラルな自分に立ち返ることができます。
熊野
散歩については、身体を動かす役割も果たしているでしょう。身体は現実世界に属するものなので、動かすことで現実に接するスイッチになるのかもしれません。
永井
悩んでいるときは、まず動くことです。一歩目さえ踏み出せば、二歩目、三歩目と、いつの間にか好転するのだと思います。この記事を読んでいる人も、なにか憂鬱(ゆううつ)であれば今すぐにこの画面を閉じ、外へ出てみてください(笑)。
大隈庭園を散歩する永井さん(左)と熊野教授(右)。熊野教授のお勧めの散歩コースは所沢キャンパスの織田幹雄記念陸上競技場の奥の森だという

どことない倦怠(けんたい)感に襲われます。何をするにもやる気が起きません

動かざるを得ない状況に身を置くと良いでしょう

永井
五月病や受験勉強の燃え尽き症候群など、早大生の皆さんにとって倦怠感は身近なもの。やる気が起きない人に共通するのは、一人でじっとしてしまうことです。身体を動かすのもそうですが、新しいことにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。動かざるを得ない状況に身を置くと、結果としてやる気が出てくるんです。
熊野
オンライン授業が増えたことで、自由に使える時間が増えたと感じる人もいるでしょう。実は、これも倦怠感の原因です。“自由”というのは不思議なもので、「自由にやりなさい」と言われると、かえってダラダラと過ごしてしまうんです。そういえば、昔あるお坊さんに「禅では何を求めているのでしょうか?」と尋ねたところ、「自由です」と言われたことがありますが、禅と自由にはどのような関係があるのでしょう?
永井
私たち禅僧、とりわけ臨済宗の修行には、毎日決まったリズムで厳しいルールに沿った生活をしていながら、自由な発想で老師(師匠)から問われる複雑な難題(公案)を解いていく、禅問答(参禅)をする慣習があります。これは、“型”があるから“自由”があるという、一見相反する人間の本質を示しているのかもしれません。短歌や俳句、茶道など、ルールや型の中で表現するものって、日本には結構多いですよね。
熊野
あえて型にはまりにいく。学生にとって身近なのは、やはり勉強なのだと思います。目の前の授業を真剣に受けたり、書物を読み込んだりする。もちろんアルバイトや旅行、恋愛でもいいのですが、一生懸命取り組んで、型が身に付いてくると、かえって自分の広がりが見えてきます。悶々(もんもん)としたものが晴れ、自由で元気に動けるようになるはずです。

卒業後の進路に不安を感じます。
自分の将来とどのように向き合うべきでしょうか

「不安=悪いこと」ではありません

永井
不安は悪いことではありません。未来に対して不安がない方が危ないと思います。なぜなら不安は、自分に準備をさせるために、身体が知らせる反応だからです。私自身、今でも不安を抱えているんですよ。「結婚できるかな」とか…(笑)。
熊野
コロナ禍が始まった頃、すぐに元通りの生活になると、誰もが思っていました。しかし現実には、生活様式が変わったまま2年以上が経過しています。私たちは、どこかで不安と折り合いをつけながら生きていくしかないのでしょう。現実は刻々と変化しているのだから、自分も常に変わり続け、諦めずに挑んでいくしかない。「諦めることの大切さ」が説かれたばかりなので、矛盾した言い方になっているのかもしれませんが(笑)。
永井
不安の原因となる固定観念や、不安を消すこと自体を諦める一方、自分に課された試練に対し、一つ一つ懸命に取り組むことは諦めない。そういうことではないでしょうか。「もし失敗したら恐ろしい」「でも、こうなっても嫌だ」と考えると、不安は必要以上に肥大化します。そうではなく、失敗してもいいので、目の前の現実に果敢にチャレンジする。もし失敗しても「一生懸命やったのだから仕方ない」と受け止める。人生はその繰り返しだと思います。
永井さんの卒論発表会(2014年)。入学時は明確に僧侶を目指す意志はなかったという永井さんだが、熊野教授の指導でマインドフルネスを学んだことで、仏教や禅に対する考えがより深まったという

禅とマインドフルネスをより深く体験する方法

熊野
学生の悩みについて永井さんと話していて、あらためて仏教の奥深さを感じました。坐禅もマインドフルネスも、瞑想により心を整えていく活動ですが、もう一つ大切なのは環境ですね。静寂なお寺の境内には、緑があり動物が集まるので、五感で現実世界を感じることができます。そこに佇(たたず)み、深呼吸をするだけでも、「今、ここにある世界」に戻ってこられるでしょう。それこそがマインドフルネスの体験になりますね。
永井
現代の日本人には無宗教だという人が多いですが、実際には仏教的な環境に囲まれて無意識ながら生活しているのです。だから仏教や禅、近年ではマインドフルネスが、多くの人に受け入れられている。せっかくそうした国にいるのだから、悩んだときは近所のお寺を訪れて、境内でゆっくりと過ごすのもいいかな、と思います。お寺はいつでも誰でも受け入れてくれます。悩みというのは、悩むことでは解決されないのですから、まずは動いてみること、やってみることが大事です。

PROFILE

臨済宗建長寺派満昌寺副住職
永井 宗徳(ながい・そうとく)

1990年神奈川県生まれ。2014年早稲田大学人間科学部卒業(熊野教授に師事)、2016年大学院文学研究科修士課程修了。その後臨済宗建長寺派専門道場に入門。5年間の修行を経て、2021年に暫暇。同年満昌寺副住職に任命される。

人間科学学術院教授
熊野 宏昭(くまの・ひろあき)

1960年石川県生まれ。1985年東京大学医学部医学科卒業。1995年博士学位取得。博士(医学)。東京大学大学院医学系研究科ストレス防御・心身医学(心療内科)助教授・准教授などを経て、2009年より現職。

取材・文
相澤優太(2010年第一文学部卒)

撮影
小泉賢一郎(2000年政治経済学部卒)

編集
株式会社KWC

デザイン・コーディング
株式会社shiftkey


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