Waseda Weekly早稲田ウィークリー

#STYLE #from #WASEDA #Fashionista #live #talk #人生 森永邦彦×シトウレイ×木津由美子 鼎談<前編>「ファッションが、私たちの世界を変えた」

ファッションとの運命的な出会い「弟子になりたくて」同じ大学に

非常に不本意ながら、なぜか世間的に「ダサい」とレッテルを貼られがちな早稲田大学。実際そうなのか? とキャンパス内を見渡せば、トレンドを自然に取り入れたスタイリングや、個性的で目を引くファッションに身を包む学生も多く存在します。このままネガティブなレッテルに甘んじることなく、そろそろパブリックイメージを覆してもいいのではないでしょうか。実は早稲田大学の卒業生には、ファッション業界の第一線で活躍する方々が大勢います。

2014年にパリ・コレクション(通称「パリコレ」)デビューを果たし、テクノロジーを取り入れながら新たなファッションを提示するブランド「ANREALAGE(アンリアレイジ)」を主宰する森永邦彦さん。2008年に立ち上げたファッションブログ「STYLE from TOKYO」で原宿や表参道などを闊歩(かっぽ)する人々のファッションスナップを発信し続け、海外からも注目を浴びるファッションフォトグラファー/ジャーナリストのシトウレイさん。そして世界初の女性ファッション誌として1867年米国ニューヨークで創刊され、日本では2013年新たに立ち上げられた女性向けファッション誌『Harper's BAZAAR (ハーパーズ バザー)』の編集長代理を務める木津由美子さんです。

今回の特集は、そんなお三方のファッション鼎談。学生時代から現在に至るまでのキャリアを振り返りつつ、森永さん、シトウさんが一時在籍していたという早稲田大学随一の服飾サークル「繊維研究会」の部室で、「ファッションとの出会い」について語ってもらいました。

左から、シトウレイさん、森永邦彦さん、木津由美子さん
シトウレイ
(以下、シトウ)
学生会館には(レギュラーナビゲーターを務めていた)ラジオの収録で、1回来たんですよ。ちょうど3年前、懐かしいですね。ほら、そこの壁にサイン書いたんです(※#3 写真参照)。
木津由美子
(以下、木津)
ここって、いつできたんですか?

――現在の学生会館が完成したのは、2001年ですね。

木津
なーんだ。こんなところ、なかったもん。学生のころ。
シトウ
ですよねー。
森永邦彦
(以下、森永)
いや、ありましたよ(笑)。

シトウ
えっ? ほんと?
森永
確か、僕が3年生の頃だったから、レイちゃんは4年生だったはずですよ。
シトウ
そっかぁ。私、繊維研究会にいたのも一瞬だったもんなあ。

――木津さんはお二人と面識はあったのですか?

木津
森永さんとは「初めまして」ですよね?
森永
そうですね、初めまして。今日はよろしくお願いします。
シトウ
私は森永くんと共通の友達が何人かいて、学生時代からお互いに知っていましたけど、あまり直接的には関わっていなかったかな……。
森永
レイちゃんは学生時代からモデルをされていたので、よく見ていましたね。
シトウ
“よく見てた”って(笑)。

――学生時代から、ファッション業界を志していたのですか?

木津
全く! 学生時代はファッションと全く関係ない分野でやってきたので、「今日のテーマ、どうなの?」って感じなんです(笑)。当時お決まりのテニスサークルに入ったり、クラスメートと映画を作ったりしていたけど、友人に誘われるがまま、ただ好きなことを好きにやっていたレベルでした。
森永
僕の場合、ファッションとの出会いは代ゼミ(※予備校の代々木ゼミナール)だったんですよ。高校3年生のときに習っていた英語の先生が、ある日突然、洋服の話を始めたんです。「自分の教え子で、早稲田大学に入学して洋服づくりをはじめた人がいる」って。そして、その人がつくった洋服を持ってきて授業中にみんなに掲げたのです。予備校でもとても人気がある先生で、当時のクラスは400人くらいの大教室で行われていたのですが、当然、誰もが英語の受験のために来ている場所ですから、誰一人として突然の授業から脱線したファッション話には反応を示しませんでした。
が、僕一人はその洋服を見て、胸を撃ち抜かれてしまって。なぜ、早稲田に行った人が洋服をつくっているのか、本人に聞いてみたくて、その日の授業の後「その洋服をつくったデザイナーに会いたい」と先生に頼み込みました。後日、当時大学3年生だったそのデザイナーに予備校の講義室で会わせてもらうことになって。それが、神田恵介さんでした。本人と出会って、その生き様に憧れてしまって、「弟子にしてください」って頼んだんですけど、「いや、僕もまだ服づくりを始めたばかりだし、教えられることなんて何もない」と突き放されちゃったんです。
木津
すごい、素直!

森永
晴れて同じ大学の同じ学部に合格して、神田さんを探すんですけど、当時はSNSもないからなかなか見つからない。それで「洋服を作っているサークルは繊維研究会しかない」と思って入部してみたんですけど、神田さんは在籍しておらず。それで「社会科学部の神田さんって、どこにいますか?」と聞いて回ったら、ある人が連れてきてくれて。そこからまた「弟子にしてください」が始まるんですけど(笑)。

で、ちょうどその頃、神田さんがファッションショーを開催したんです。ファッションショーの舞台は、某私鉄の運行中の電車の中。招待客は1枚の初乗りの切符をもってその電車に乗り、ショーを見る、というものでした。もちろんゲリラです。今でも覚えていますが、1999年7月4日。それが僕が生まれて初めて観た、ファッションショーでした。招待状の切符を持ってその時間に駅に行くと、人がたくさん集まっていた。電車は動き出し、奥の方から(各駅で)乗り込んきたモデルが歩いてくるんです。するとモーゼのように乗客が左右に分かれて、電車の真ん中がランウェイになったんです。
木津
すごいね、それ(笑)。 今だったら、できないだろうね。
シトウ
あのころだから、やれたんだと思う。ちょうど私はそのショーでモデルをやっていて、最初の駅から乗る役だったの。森永くんと同じで、片道のみの切符を渡されて「終点の駅まで行って、それから逆方向の電車で戻ってくればいいから」って言われて。
木津
一般のお客さんも乗っているんでしょう?
シトウ
そうです。それに加えて、ダミーでボランティアスタッフが乗っていて、モデルが歩いて来たら、彼らが真ん中のランウェイを開けるように分かれて。一般の人は「え? なんで?」みたいな。今で言う「フラッシュモブ」ですよね。
木津
なるほど!

森永
それがもう、衝撃的すぎて。僕、いつも通学にその電車を使っていたので、日常の景色がガラっと変わって。「洋服ってすごい」と思ったんです。それで、そのショーを見た日に自分も洋服を作ろうと決意して、ダブルスクールで専門学校(※バンタンデザイン研究所)に通うようになりました。

ファッションに目覚めるきっかけとなった「keisuke kanda」のロゴマーク、ゾウのモチーフのジャージを着る森永さん

シトウ
恵介さんのこと、すごく尊敬しているよね。今、着てる服もkeisuke kandaのやつでしょう? メディアに出るとき、いつも恵介さんの洋服着てるんですよ。
木津
へー! なんか、「熱い師弟関係」って感じ。

シトウ
「男の友情」だよね。でも、この中で森永くんくらいだよ。「やりたいです!」って言って、やる気を持って、人生を歩んでいるの。
木津
そうですよね。信念があって、先を見据えて。私なんて「たまたまの人生」ですもん。何もポリシーがなくて、申し訳ないくらいです(笑)。
シトウ
私も。本当に「たまたま」です(笑)。

出会いと意思が巡り合わせた 思いがけないキャリア

――木津さんもシトウさんも、在学中から今の職業を目指していたわけではなかったんですね。

木津
話すと長くなるんですけど、いいですか?(笑) 実は私、新卒ではエアライン(※航空会社)に入って、成田空港に配属されたんです。
シトウ・森永
へーっ!

木津
当時、「早稲田=マスコミ」というイメージがあったし、それに感化されて、学生時代は編集プロダクションでバイトしてたんですけど、徹夜続きで「この業界に勤めるのはキツいぞ……」と(笑)。でもやっぱり一応出版社と、「残業もなくて高給与」ってことでエアラインも受けて、結果的に採用されたのがエアラインだったんです。でも実際に働いてみると、今の成田と違って職場の周りには何もないし、「シフト勤務で残業がない」ってことは、「自分にしかできない仕事はない」ってことなんですよ。

それに気付いて「やっぱりマスコミかな」と考えて。でも当然、転職するにも出版社はハードルが高くて、編集職は基本的に経験者しか採用されない。それなら、とにかく未経験でもできるところに入ってなんとかしよう、と思ってたんです。そしたら出版社の広告部門が未経験で採用をかけていたんです。広告業界って男社会でしたから、女性向け商材を強化するために、女性を採用する動きが出てきたんですよね。

それでファッション・カルチャー誌『流行通信』(※1966年創刊。日本発のファッション誌の先駆的存在。現在は季刊誌『WWD流行通信』に移行)に潜り込みました。なぜ未経験なのにすんなり受かったかというと、私が採用された時点で、採用を決めた上司は別の出版社に移ることが決まってたんです。で、彼が抱えていたクライアント(※広告出稿者)が、たまたま化粧品メーカーだった。だから「ビューティ(※美容)を担当するなら、男より女がいいだろう」と、私に決まったようなものなんですよね。それが私の「ファッション誌とビューティ」という世界への入口でした。
シトウ
私は卒業後、モデルをしながらもフラフラしてたんですよね。バイトで「カフェをやろうか、本屋をやろうか」みたいな(笑)。そんなときにファッションスナップ誌『STREET(ストリート)』( http://www.street-eo.com/street )を創刊した編集長の青木正一さん(※東京のストリートカルチャーを発信してきた雑誌『STREET』『FRUiTS』『TUNE』の創刊編集長)に声を掛けられたんです。唐突に「街で何か撮影してきて」って頼まれて。ほんと、急にですよ。カメラの知識はおろか、ビデオの録画の予約もできないような機械オンチなのに「やって」って言われたから、「はい、やります」って。
木津
なんで突然頼まれたんでしょうね?
シトウ
……それが、分かんないんですよね。本当に、今でもよく分からない。もともと面識はあったし、モデルとして撮影してもらったことはありましたけど、特によく話していたわけでもなく。とはいえ頼まれたから「じゃあ、撮ってみようかな」って、バイト感覚でやり始めて(笑)。だから、最初から「やるぞ!」という感じではなく、モデルをメインに兼業としてフォトグラファーの活動を始めました。

シトウさんの、初期の頃のストリートスナップ。
「この写真は、原宿のキャットストリートで撮らせてもらったもの。
男性は『MOSCHINO』のデザイナーであるJeremy Scottです。
日本にリサーチに来ていた時に、偶然出会って撮らせてもらいました」(シトウ)

木津
へぇ〜。そのときって、デジタル?

シトウ
アナログです。「6×4.5(ロクヨンゴ)」の中判(※プロ・セミプロ用の大型カメラの一種)で撮っていました。最初に、フィルムの巻き方とかボタンやダイヤルの使い方とか、本当に基礎的な撮り方だけ聞いて。しばらくはただ、言われるがままにやってるって感じでしたけど、何人も何人も撮ってるいるうちに、あの原宿のエネルギッシュで独特な、ファッションにチャレンジしている人が許容される場所に感化されて、ストリートスナップがすごく楽しくなっていった。そして、そのうち自分のメディアを持って「このかっこいい東京を発信したい」と思うようになり、「STYLE from TOKYO」を立ち上げた……という感じですね。

シトウさんの主宰する、東京のストリートスタイルを国内外に発信するWebサイト。
ブログから始まったこのサイトは、ファッショニスタご用達のメディアに。
書籍やリアルな店舗をオープンするに至った。
http://reishito.com/

“海外との違い”を乗り越えたそれぞれの戦う術とは?

――キャリアを方向付けるうえで、皆さんキーパーソンに出会ってこられたんですね。森永さんは「keisuke kanda」の神田さん。シトウさんは『STREET』の編集長、そして木津さんは『流行通信』の上司……。

木津
キーパーソンというと、一人には絞れないかも。私の場合、いろんな人との出会いによるものが大きくて。『流行通信』で働きはじめて、いろんなメーカーのPRの方々と接していて、皆さん強烈な個性を持った方ばかりで、面白かったんですよ。そうしたらたまたま、とある化粧品会社から声がかかって、入社1年後にはあっさり転職。当時「KENZO」(※ケンゾー。高田賢三氏が設立したファッションブランド)が新たに化粧品ブランドをライセンスで立ち上げることになって、マーケティングも含めていろいろと手伝ってほしい、ということで。

その会社には7年ほど勤めました。AD/PRとして、タイアップ広告やカタログなどを制作して、校正紙(※校正用の試し刷り)をチェックしていると「あれ、これくらいなら私にも作れるんじゃない?」と不遜にも思い始めまして(笑)。「またマスコミに戻ろうかな」なんてぼんやりと考えていたら、『流行通信』にいたころの編集長が『VOGUE NIPPON(※現・『VOGUE JAPAN』。『VOGUE』は1892年米国創刊の女性向けファッション誌)』の立ち上げに編集長として関わることになって、「編集やりたいって言ってたよね。やってみる?」と誘われたんです。でも、それからが大変で、当の編集長が創刊前に辞めることになっちゃったんですよ。
シトウ・森永
えーっ!
木津
今はもうそんなことはないでしょうけど、当時は映画のような“ザ・外資系”の会社だったので、「明日から来なくていいです、荷物は送りますから」みたいな。しかも、日本版創刊にあたって本国は相当気合が入っていて、会社にいるのは、海外のコレクションを最低7年以上は取材しているようなプロフェッショナルのファッションエディターばかり。かたや私は未経験で「私、いてもいいのかな……?」って感じで。でも、こうなったからにはと自分がやれることを模索して、ビューティ・エディターとしての道が始まったわけです。

――マスコミを志望して、なかなか思いがかなわない人もいますが、そういうキャリアの切り開き方もあるんですね。

木津
意識的に切り開いてはいないんですよ。たまたま人との出会いで変わってきた、というだけで。でも、『VOGUE』時代は本当に厳しかったので、よく続いたなという感じでしたね。やはり同じ出版社でも外資とドメスティックでは、編集者はスペシャリストかゼネラリストかという感じで、全く別物なので。

日本の出版社では前提として終身雇用制がありましたし、そうなると編集でも媒体を異動したり、営業や人事など、さまざまな部署を経験するのが一般的です。けれども外資は、ファッションはファッション、ビューティはビューティ。編集部内で担当を代わることもないし、ましてや社内異動なんてありえません。

当時、アメリカのコンデナスト社と日本経済新聞社とのジョイントベンチャーとして立ち上がってはいましたが、組織の考え方は完全に外資。日本の出版社でキャリアを積んだ百戦錬磨の編集者がどんどん辞めていくわけです。でも私の場合、他の編集部での経験がないから、なんとも思わなかったんですよね。理不尽なことがあっても、「まぁ、こんなもんなのかな」って。それで7年もいられたんだと思います。

――木津さんが外資系出版社で感じたような「日本と海外との文化の違い」は、おそらく至るところに存在しますよね。森永さんは2014年からパリ・コレクションに参加されていますが、いかがですか?

森永
日本と海外の違いはかなりありますね。海外ではコレクションピース(※パリコレなどのファッション・ショーのための服)に近い強い服が求められますが、日本だとその逆で、もう少し着易いものが求められると感じます。

「ANREALAGE」の2016年春夏コレクション。
このコレクションでは、「光が反射すると色や柄が現れる服」
という斬新なデザイン・コンセプトで多くの反響を呼んだ。

木津
ウケるものが違うしね。やっぱり日本では「カワイイもの」や「無難なもの」。何だか目に見えない抑止力があるような気がする。
シトウ
海外はアクが強くて、テンションの高いものの方が好まれますよね。
森永
他にないものを作って始めて、「果たしてそれが受け入れられるかどうか」という土俵に立つことができる。その洋服が闘っているか? ということを常に考えています。とくに海外では、名だたるファッションブランドがせめぎ合っている、その限られたラックの中に食い込んでいく闘いなので。戦場ですね。
シトウ
海外では、「本気で売るため」にとがったものを作れる。日本だとそういうものは「とはいえコレクションピースでしょ」という扱いで、消費者には受け入れないであろう前提になっちゃうんだよね。だけど、日本に面白いことがないかというと、そういうわけでもないと思うんですよね。ストリート(※路上。ここでは、ファッション・ショーと比べて、よりリアルで日常のファッションのことを指す)を見ていると、また違う動きがあるなと感じています。
プロフィール
森永 邦彦(もりなが・くにひこ)
ファッションデザイナー。1980年、東京都生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。バンタンデザイン研究所卒業。2003年「ANREALAGE」設立。ANREALAGEとは、A REAL-日常、UN REAL-非日常、AGE-時代、を意味する。日常の中にあって非現実的な日常のふとした捩れに眼を向け、見逃してしまいそうな些事からデザインの起点を抄いとる。「神は細部に宿る」という信念のもと作られた色鮮やかで細かいパッチワークや、人間の身体にとらわれない独創的なかたちの洋服、テクノロジーや新技術を積極的に用いた洋服が特徴。2005年、ニューヨークの新人デザイナーコンテスト「GEN ART 2005」でアバンギャルド大賞を受賞。同年、06S/Sより東京コレクションに参加。2011年、第29回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞。2014年、15S/Sよりパリコレクションデビュー。2015年、フランス服飾開発推進委員会主催の「ANDAM fashion award」のファイナリストに選出。2016年、南青山にANREALAGE AOYAMAをオープン。
「ANREALAGE」 http://www.anrealage.com/
シトウ レイ(しとう・れい)
日本を代表するストリート・スタイル・フォトグラファー、ジャーナリスト。
国内外のストリートスタイルを紹介するサイトSTYLEfromTOKYO主宰。
毎シーズン、世界各国のコレクション取材を行い、独自の審美眼で綴られる言葉と写真が人気を博している。ストリートスタイルの随一の目利きであり、「東京スタイル」の案内人。
また彼女自身のセンスもストリートフォトグラファーの権威「The Sartolialist」の著書で特集を組まれる等ファッションアイコンとしても活躍中。ストリートスタイルからランウェイまでファッションに対する幅広い知見から、企業のアドバイザー、商品プロデュース、ファッションセミナーなど、ジャンルを超えて活動の幅を広げている。
著書:
東京ストリート写真集「STYLEfromTOKYO」(discover21刊)
東京ガイド「日々是東京百景」(文化出版局刊)
『STYLE from TOKYO』 reishito.com
木津 由美子(きづ・ゆみこ)
『Harper's BAZAAR(ハーパーズ バザー)』編集長代理。静岡県生まれ。1987年、早稲田大学第一文学部卒業。航空会社、出版社、化粧品会社を経て、1998年日経コンデナスト(現・コンデナスト・ジャパン)に入社し、『VOGUE NIPPON』(現・『VOGUE JAPAN』)のビューティ・エディターに就任。2003年アシェット婦人画報社に入社し、『marie claire(マリ・クレール)』のリニューアル創刊に携わる。2009年フリーランスエディターとして独立後、2013年ハースト婦人画報社で『Harper's BAZAAR』を創刊。2014年から現職。2012年、早稲田大学大学院商学研究科専門職学位課程(MBA)修了。修論テーマは「化粧品ビジネスにおけるラグジュアリーブランド戦略の考察 プロダクトにみるラグジュアリー構成因子-」。
『Harper's BAZAAR』 http://harpersbazaar.jp/
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