「自分が目指すべき選手は瀬古さん」。12月3日に行われた福岡国際マラソンで、2時間7分19秒という日本歴代5位の記録で3位となった大迫傑選手(2014年 スポーツ科学部卒)は大会終了後、約40年前に「世界最強」と言われたマラソンランナーである早稲田大学競走部の先輩の名を挙げました。
長い低迷の続く日本マラソン界に差し込んだ「光」といえる大迫選手が目標とする瀬古利彦氏(1980年 教育学部卒)は、国内外のマラソンで15戦10勝という戦績を残し、無類の勝負強さを誇りました。現役時代は生活の全てをマラソンにささげる「修行僧」と言われ、月間1000㎞以上を走る猛練習で知られました。「当時の練習は古い」という意見も多い中で、最新設備による科学的トレーニングを米国で続ける、古さの対極にある大迫選手がなぜ「瀬古」を目指すのでしょうか。
大迫選手は2017年4月、初マラソンとなったボストンで3位に入り、1987年に優勝した瀬古氏以来の表彰台に上がりました。福岡もまた、1978年、当時早大3年の瀬古氏が優勝し、伝説のマラソンランナーへと駆け上っていった舞台でした。2016年末、日本陸上競技連盟のマラソン強化・戦略プロジェクトリーダーに就任し、東京オリンピックでのメダル獲得に向けて日本マラソンの再建を託された瀬古氏。瀬古リーダーへのインタビューでは「持ち味のスピード」「マラソンへの覚悟」「勝負へのこだわり」といった大迫選手との数々の共通項が浮かび上がりました。
福岡国際マラソン。後輩の大迫選手がすごく頑張りました。
- 瀬古
- ああ、良かった。一番期待していた大迫君が期待通りに走ってくれたというのは、リーダーとして本当にうれしく思いました。期待通りに走る選手は大したもの。2015年春に渡米して3年目、ものすごい成長を感じました。
ものすごい成長とは?
- 瀬古
- 僕が見た学生のときの大迫君と、今の大迫君では違う次元になっています。完全に別人です。驚きましたね。箱根駅伝では1年と2年では1区の区間賞を取っていますが、スタミナ不足があって3年と4年では15キロぐらいで失速していた。マラソンは無理なのか、トラックの選手で終わるのかな、という危惧はありました。ところがボストンでは初マラソンで3位になった。後半のタイムの落ち込みもなく、マラソンへの適性があるのだなと思った。しかし、1回目はまぐれで当たることもありますが、2回目は意外と難しい。福岡ではその不安を見事に払拭(ふっしょく)して、期待以上の走りをしてくれました。
ボストンと福岡の違いは何か感じましたか。
- 瀬古
- 初マラソンは失敗しても許される面がある。しかし、今回は東京オリンピックのマラソン代表の選考に関わる大会で、記録も狙わなければいけないレース。プレッシャーが違います。いろんなプレッシャーが重なる中のレースで35キロの壁を乗り越えて、前半と変わらないフォームで、少しのブレもなく走りました。体も競技力も成長しているのだろうけれども、覚悟を持って一人でアメリカでトレーニングを積んだ精神的な成長もあるでしょう。将来の日本マラソンを引っ張っていくような本当にいい選手になりました。僕を超えるような選手になるんじゃないかと、期待しています。
大迫選手はレース後、「自分が目指すべき姿は、瀬古さんのような選手」と話しています。
- 瀬古
- おそらく、記録というよりも勝負をしたいという、勝ちたいということが一番の目標と言っているのだと思います。「記録よりも勝ちにこだわる」という考えは僕と似ていますね。レースで勝つ選手は記録も当然出ます。まずは勝つこと。僕はそういう気持ちでいつもやっていた。勝てば記録は付く。福岡でも優勝した選手は2時間5分台ですから。大迫君も勝ちにこだわることで、記録も出せると思います。
大迫選手は「フォアフット走法」という前足から着地する走法が注目されています。
- 瀬古
- フォアフットで走ったのは、中山竹通氏(※1)。今まで彼以外でフォアフットで活躍した日本人はいませんでした。太ももに負担がかかるのでマラソンでは難しい走りですが、一番スピードを生かせる足の使い方なんです。かかとから着地して前足から前進すると、その分時間がかかるのですが、この余分な時間が省ける。大迫君があのフォームでしっかり42.195キロを走り切ったというのにも少し驚きました。
※1 中山竹通(なかやま・たけゆき)氏は、1980年代中盤から1990年代前半にかけて活躍したマラソン選手で、瀬古氏のライバルだった。ソウルオリンピック4位(1988年)、バルセロナオリンピック4位(1992年)
日本人には難しい走り方なのですか。
- 瀬古
- 日本人にはなかなかできません。しかし、子どもの頃からはだしで走っているようなケニア人やエチオピア人(※2)は、もともとフォームがかかとを着けないでつま先で走るフォアフットになっています。日本人とは体形が異なって、彼らは骨盤の位置が前傾姿勢なので、体形からしてつま先が先に着くようになっています。日本人がやるには無理があるんですよ。大迫君は相当、スクワットなど足を鍛えるトレーニングをやっていますよね。耐えられる筋力を付けているんだと思います。彼は見事にフォアフットをものにしました。この3年間のアメリカでの努力には、それはもう頭が下がります。
※2 世界の長距離競技を席巻している国。男子マラソンの世界上位10傑はケニア人6名、エチオピア人4名。
マラソンランナーとして、大迫選手と共通する部分は感じますか。
- 瀬古
- フォームは全く違いますが、トラックでのスピードをマラソンに移行するという考えは同じですね。私も5000メートルと1万メートルは、当時の日本記録を持っていたし、大迫君も5000メートルの日本記録がある。1万メートルの日本記録を作るのも時間の問題です。スピードをうまくマラソンに生かすというのは、世界で戦えるという証拠なんです。彼はレースのときも、自分をうまくコントロールできる。自分の体と42キロ、対話しています。我慢するべきところは我慢して、自分をコントロールできる。なかなかできないことです。そこは僕と似ているなと思いますね。42キロ、しっかり自分と対話できないと安定したマラソンができない。対話できれば、そんなに大きく外れることはないと思います。こういう点では、彼は東京オリンピックのマラソン日本代表に向かっていく最有力候補だと思います。
大迫選手が日本では頭一つ抜けている?
- 瀬古
- 福岡のレースでは、そう見えました。ただ、まだ他にもマラソンを走れそうな選手がいます。そういう選手が頑張るためにも、大迫君のこれからの活躍は大きい。陸上の100メートルでは4年前、桐生祥秀君(東洋大学4年)が10秒01を出して、「桐生に追いつこう」という若い人が出てきた。今、彼を含めて10秒を切れる可能性を持つ選手が5人います(※3)。大迫君はそういう状況に日本のマラソンを引っ張っていく力があると思います。大迫君のおかげで、未来が明るくなってきた感じがします。大迫君は日本選手権の1万メートルも二連覇(2016・2017年)していますから、やっぱり日本の若手のトップなんです。その大迫君が走らないと駄目だったんです。大迫君が走れば他の選手も、ぐーっと着いてくるんです。
※3 2017年9月9日、桐生選手は陸上男子100メートルで日本人として史上初の9秒台となる9秒98を記録した。
福岡では大迫選手と何か言葉を交わしましたか。
- 瀬古
- はい。彼は多くを語らないけど、「お前、よく成長したな」って話をしました。
大迫さんが所属しているナイキ・オレゴン・プロジェクト(※4)についてはどのように思われますか。
- 瀬古
- 僕は実際のトレーニングを見たことがないので分かりません。しかし、アメリカらしい新しいトレーニングをしているようですね。「水中トレッドミル」(※5)とか、よく考えつくなと思いました。足を冷やすからリハビリにもなる。走る練習の合間に行っているのでしょう。水の中でやっているから映像で見るとかっこいいのですが、僕らの時代に早歩きやウォーキングをしていたのと一緒ではないかと思います。大迫君が言うには、アメリカでは低酸素トレーニングや高地合宿も繰り返しています。そういう場所は苦しいから、1年いたら普通の人は嫌になるそうです。環境を乗り越えるというのはすごい。
※4 低迷が続くアメリカの長距離競技を復活させようと、スポーツ用品メーカーのナイキ社によって2001年にオレゴン州に設立された陸上競技チーム。少数精鋭でオリンピックや世界選手権のメダリストが所属する。大迫選手はアジア人初の所属選手。
※5 屋内で水中ランニングを行う器具
Altitude camp at full throttle now that we have our @HydroWorx !! pic.twitter.com/GtK3u7Nv6s
— Oregon Project (@OregonPJT) 2016年5月5日
コーチのことを信頼してトレーニングに取り組んでいますね。
- 瀬古
- そうです。監督(コーチ)と選手の気持ちが一体になることが必要。僕はマラソンは監督と選手がマンツーマンでやるものと思っている。一人では絶対にできない。一対一で切磋琢磨(せっさたくま)しながらやっていくというのがマラソン。それができているのが大迫君です。「アメリカで信頼できるコーチに巡り会いました」と言っていた。そういう関係になるのが、マラソン選手になるための最終段階です。こうなると、絶対マラソンを走れる。リーダーとしては、日本の監督たちにマンツーマンでやってほしいとお願いしたい。監督がチームとして駅伝をやりながら個人のマラソンを中心にみる、という体制にするのは難しいのですが、そうしていかないといつまでたってもマラソン選手が育たない。世界のマラソン選手は、365日マラソン選手です。
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— suguru osako (@sugurusako) 2017年12月4日
Thank you , coach ! #marathon #fukuoka #マラソン #福岡 pic.twitter.com/BluzecmvG0
長らく日本のマラソンは低迷しています。その理由はどのように考えていますか。
- 瀬古
- 理由はいろいろあります。しかし、42.195キロという距離は今も昔も変わらない。早稲田大学競走部で僕が中村清先生から教えられたのは「泥臭く、地道に。近道はない。遠回りしてマラソンをやりなさい」ということ。これが僕の基本でしたが、今の選手からは「瀬古さんたちの時代は、科学的ではないし、効率的ではない。古い練習だ」と、よく言われるんです。確かに40年前だから古いですよ。でも、マラソンって回り道の練習なんです。走るだけではない、地道な練習量が求められるんです。体幹トレーニングとかは二次的であって、基本的にはしっかりとした足を作ることが大事。それには泥臭いトレーニングです。長い距離を繰り返し走って、42キロがすぐそこに見えるという感覚を得るためには、80キロの練習をやるんです。練習は走るだけではない、他にもやることはたくさんあるんですよ。学生時代は住んでいた千駄ヶ谷から大学までの5キロほどの道程を徒歩で通学していました。
重い安全靴を履いていたそうですが。
- 瀬古
- そう。安全靴履いて、石を持って歩いていったということも何回もある。そんなことがマラソンに直結するとは思えないけれど、35キロからの自信になる。「俺はああいうことやってきたんだ。絶対、宗さん(※6)に勝てる、イカンガー(※7)に勝てる」という自信が浮かんでくるんです。僕にとってはそれが遠回りの近道になっているような気がする。
※6 宗茂(そう・しげる)・猛(たけし)兄弟は瀬古氏のライバル。モスクワオリンピック代表を争った1979年の福岡国際マラソンでは、トラックで3者がデッドヒートを繰り広げ、瀬古氏優勝、茂氏2位、猛氏3位。三者とも代表となった。茂氏はモントリオールオリンピック20位(1976年)、ロサンゼルスオリンピック17位(1984年)。猛氏はロサンゼルスオリンピック4位。
※7 ジュマ・イカンガー。タンザニアのマラソン選手で、1983年の福岡国際マラソンでは、トラックの最終コーナーまで瀬古氏と争って2位となった。ロサンゼルスオリンピック6位、ソウルオリンピック7位(1988年)、バルセロナオリンピック34位(1992年)。
今の選手は瀬古リーダーに比べると、長い距離を走る練習をしていないのですか。
- 瀬古
- してない。練習ができないのか、やらないのか分からないが、明らかに少ない。でも僕らの時代に比べたら、トレーニング方法は進化しているし、シューズも改良されて、栄養学も発展している。設備だって全部整っているわけです。われわれの時代と比べると、劣ることが一つもない。それなのに記録がそんなに変わっていないんです。それっておかしくないですか?
初マラソンのとき、瀬古リーダーはお餅をたくさん食べてしまったんですよね。
- 瀬古
- それは初マラソンで何も分かんないから、「何か炭水化物、食っていればいいな」と思って食べたら太っちゃって、というのはありましたけども。今はきちんと、「出来上がった練習方法」がある。それをこなしても、記録が更新されない。むしろ後戻りしている。本当におかしい。だから、選手たちは甘えているなと思う。「泥臭いこと」を抜いている。私は自転車なんか乗ったことがない。乗る必要がない。走ればいい、歩けばいい。コンビニへ行くだけなのに自転車に乗る。日常は競技とは関係がない、と思っているのでしょうか。
日常生活にも「泥臭さ」が必要だと?
- 瀬古
- エレベーターもエスカレーターも、選手時代の僕は乗った事がない。階段を上れば足作りになる。高田馬場へも歩いたり、駆け足で行けばいい。そういう発想がない。大迫君の「水中トレッドミル」のような科学的トレーニングも、走ること以外に行う練習の一つ。見た目だと「科学的」ですけど、マラソンに必要な「泥臭さ」だと思います。ただ、僕はリーダーになって1年目ですが、徐々に「練習しなければいけない」という意識が、長距離界に浸透してきたという手応えはあります。それは指導者も。「やはり泥臭いことをやろう」という雰囲気が出てきています。
過酷な道ですね。
- 瀬古
- マラソンというのは、地道にトレーニングを積まなければいけないので、みんな嫌になるんですね。日常生活は苦しいし、練習も苦しいし、途中で気持ちが萎えるんです、みんな。それを乗り越えた人に、マラソンの適性がある。誰にでもできる競技ではないんです。この選手には無理だな、と思うことがありますから。
それはランナーとしての実力があったとしても、ということですか。
- 瀬古
- そう。やっぱり続かないです、毎日が。すぐ嫌になっちゃう。1回は我慢できても、2回目は我慢できない。1カ月間は我慢できても、3カ月間はできない。どこかで手を抜いてしまうんです。「手を抜かないと続かない」という人には合わないんだなと思います。だから、全員に適性があるとは思っていません。でも大学のチームの中で学年に一人くらいは絶対いるんです、そういう選手が。だからチーム全体では4人はいるんです。「マラソンをやらせたら、いけるな」という選手が。
「24時間、マラソンのことを考えろ」とおっしゃっています。
- 瀬古
- 24時間365日を3年。マラソン選手になるには、3年間はしっかりかかる。3年間はもう、なりふり構わずマラソンのことだけを考えて訓練して、初めてマラソン選手になれます。大迫君もアメリカへ行って3年目ですから。ついでにマラソンするのでは、駄目です。「マラソン選手になる」という覚悟を決めた上での3年なんです。「マラソンが駄目なら駅伝だ、トラックだ」は中途半端。「マラソン選手になれなかったら、もうやめる」という、それぐらいの覚悟でやったら何でもできます。覚悟なんですよ。
瀬古リーダーはどのようにして覚悟を決めたのですか。
- 瀬古
-
1浪して早稲田に入った1年目、入学前に競走部の合宿に参加しました。当時は中距離選手として入って、根性無しの自分にはマラソンは無理だと思っていました。そこで出会ったのが中村先生です。中村先生は部員の前で「今の早稲田が弱いのは面倒を見なかったOBのせいだ。OBを代表して謝る」と言って、自分で自分の顔を手加減なしに何十発も殴りました。さらに海岸の砂をつかんで「これを食ったら世界一になれると言われたら、私は食える」と言って、口に入れてジャリジャリ食べ始めました。
その直後、「瀬古、今日からマラソンをやれ。スピードを生かしたら君は世界一になれる。練習でも何でも素直にはいと返事をしてやらなければ、強くなれないんだ」と言われ、「はい」と返事をしたんです。なぜ即答したのか分かりません。普通は変なおじいちゃんだと思うけど、僕は思わなかった。
覚悟はそこで決めました。「自分で約束したからには、僕はやるんだ」と。後戻りしたら自分にうそをつくことだから。成功するか、失敗するか、そんなことは分からない。だけど決めたからには、やるしかないじゃないですか。だから「よし、今日からマラソン選手になるぞ」と覚悟したんです。
- 瀬古 利彦(せこ・としひこ)
- 三重県出身。1980年、早稲田大学教育学部卒業。エスビー食品陸上部監督などを経て、2013年、横浜DeNAランニングクラブ総監督。2016年12月から日本陸上競技連盟強化委員会マラソン強化・戦略プロジェクトリーダーを兼務。高校時代に中距離選手として全国的に名をはせた瀬古氏は、多くの大学からの勧誘を蹴って早稲田大学への入学を志すも受験で失敗。米国・南カリフォルニア大学で陸上を学ぶことになったが、まともな練習ができず体重も10キロ増加し、失意の浪人生活を送る。1976年、念願の早稲田大学に合格し競走部に入部。中村清監督との出会いにより、マラソン選手としての才能が開花した。1980年のモスクワオリンピックは代表選手に選ばれながら、国のボイコット決定により無念の不出場となった。翌年の福岡国際マラソンではモスクワオリンピックのマラソン金メダリストを破って三連覇。1990年から4年間、早稲田大学競走部コーチ。武井隆次・櫛部静二・花田勝彦・渡辺康幸ら有力選手を擁して1994年、第69回箱根駅伝で総合優勝を果たした。
- 取材・文:早稲田ウィークリー編集室
- 撮影:上西由華