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特集

「長い、難解」ばかりじゃない 研究者に聞く、目からウロコなロシア文学

2021年がドストエフスキー生誕200年に当たるということもあり、再評価の機運が高まるロシア文学。その一方で、長くて難解だというイメージがいまだに根強く、敬遠されがちでもあります。そこで今回は、早稲田ウィークリーレポーターが、ロシア文学者であり、自身もロシア語作品の翻訳を手掛ける上田洋子さん(株式会社ゲンロン代表取締役)にインタビューを敢行。ロシア文学の魅力や、読書とコロナ禍で行きにくくなった旅との関係について話を伺いました。

(右から)上田 洋子(うえだ・ようこ) ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。株式会社ゲンロン代表取締役。早稲田大学文学学術院非常勤講師。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修/ゲンロン/2013年)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳/松籟社/2012年)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著/森話社/2017年)、『プッシー・ライオットの革命』(監修/DU BOOKS/2018年)など。
植田 将暉(うえた・まさき) 法学部 4年。早稲田ウィークリーレポーター。読書は学術書を中心に月に20~30冊ほど。しかし、ロシア文学はパラパラめくったことがある程度で、なかなか手を出せずにいる。

きっかけは宝塚歌劇を通して出合った『戦争と平和』。短編作品も魅力的

――上田さんがロシア文学と出合ったきっかけを教えてください。

初めて読んだロシア文学はトルストイの『戦争と平和』です。関西出身ということもあり、幼い頃によく宝塚歌劇を観に行っていました。やがて歌劇の原作となった作品に触れるようになり、その中で最も衝撃を受けたのが高校時代に読んだ『戦争と平和』でした。自分の存在意義などを考えていた多感な時期だったこともあって、ひとりひとりの民衆が歴史の歯車を動かしていく様子を描いた重層的な物語に魅了され、文学の可能性を感じました。

――ロシア文学は何となく「長くて難しい」というイメージがあるのですが、初心者でも読みやすい作品はありますか?

『紅い花』〔ガルシン著/神西清訳/岩波書店(岩波文庫)〕

短い作品もたくさんありますよ。有名なところだとチェーホフでしょうか。チェーホフは社会の滑稽さややるせなさを笑いにした短編を書いた作家です。昔読んだときは全く笑えなかったのですが、人生経験を重ねるとともに、代表作の『かもめ』や晩年作品『桜の園』といった戯曲に登場した「地方都市に住む知識人の悲しみ」を理解できるようになり、面白さが分かるようになりました。学生でも、登場人物の境遇に共感できる部分があると、楽しんで読めるのではないかと思います。

他にはガルシンの『紅い花』。精神科病院を舞台にした表題作の他、植物園で育てられている植物が主人公の異色作『アッタレーア・プリンケプス』など、魅力的な作品が集まった珠玉の短編集です。

――今年、生誕200年を迎えるドストエフスキーにも、短い作品はあるのでしょうか?

彼の作品の中では比較的短い『貧しき人々』から読んでみるのがお薦めです。若く貧しい女性と中年の下級官吏の交流を描いた書簡小説です。ドストエフスキーの文体で敬遠されがちなクドさのようなものがプラスに働き、登場人物にくっきりとした憎めないキャラクター性を与えていて、いやらしさがなく非常に読みやすいです。短い作品だと、ゴーゴリの『鼻』も面白いです。鼻が人の顔から取れて一人歩きし始める幻想小説です。

上田さんが手にしているのは『貧しき人々』〔ドストエフスキー著/原久一郎訳/岩波書店(岩波文庫)〕

――少し聞いただけでかなり気になります! あらためて、上田さんが考えるドストエフスキー、あるいはロシア文学の魅力は何でしょうか?

やはり、長編を通じて語られる波瀾(はらん)万丈の物語が魅力です。トルストイの作品は、俯瞰(ふかん)的な視点から人々の時間経過に伴う心情の変化や成長の過程を丁寧に描くことで、多くの登場人物の生きざまを多面的に表現しています。広々とした風景の描写も鮮やかで、想像力を刺激してくれます。対照的に、ドストエフスキーの面白さは、都市空間を舞台に、比較的狭い視野の中で描かれる人間中心的な語り口にあると思います。

古典だけでなく現代文学も 注目の作家たち

――ロシア文学といえば、先ほどからお話しいただいているドストエフスキーやトルストイといった古典の印象が強いのですが、私たちと同時代を生きる作家の作品で面白いものがあれば教えていただきたいです。

当然、文学は社会を反映するものなので、昨今のロシアの社会情勢の変化とともにロシア文学も形を変えつつあります。少し前まではポストモダン文学が主流でしたが、保守的な思想が高まりつつある近年では、人生や人間模様について描かれた、より物語性の強い作品が人気となっています。

ロシア近隣国では、ベラルーシの劇作家プリャシコの作品が、日本語訳はまだないものの興味深いです。ベラルーシの田舎の日常風景を描いたものが多いのですが、収穫したリンゴをどのように箱詰めしていくのか、4人の男女がひたすら議論を繰り返す『収穫』という作品は、実生活にありふれた日常会話が劇中で延々と演じられることによって、次第にシュールさや哲学性を帯びていく、という仕組みになっています。他にも、空港で娘とSkypeで話す母親の様子を描いた作品など、会話のリズムで面白さを出すのが得意な作家です。

――ベラルーシの作家の話題が出ましたが、ロシア国内の各地域に注目すべき作家はいますか?

『右ハンドル』(アフチェンコ著/河尾基訳/群像社)

シベリアや極東にも魅力的な作家はたくさんいます。極東の作家アフチェンコの作品『右ハンドル』は、日本から輸入された中古車がウラジオストクの社会の中に溶け込んでいく様子が描かれています。日本語訳もあるので読んでみてください。

――上田さんはこれまでにどんな作家を研究されたのでしょうか?

『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(クルジジャノフスキイ著/上田洋子、秋草俊一郎訳/松籟社)

修士論文ではドストエフスキーについて取り上げましたが、その後は1920年代を中心に活動した作家、シギズムンド・クルジジャノフスキイを研究しました。彼はモダニストで西洋哲学に傾倒していたこともあり、当時のソ連では出版の機会を得ませんでしたが、1980年代のペレストロイカ(旧ソ連の改革運動)以降、ようやく日の目を見ることとなりました。私が研究を始めた当時は先行研究が非常に少なく、やりがいを持って取り組むことができました。この研究を通じて、新しいものを世に紹介する手法が自分に合っているのだと実感しましたね。

私が翻訳したクルジジャノフスキイの小説に『瞳孔の中』という作品があります。主人公が恋人の瞳孔の中に入ると、その中には恋人がこれまで付き合ってきた男たちが何人もいて、順番に恋人とのなれ初めを語っていく、という奇妙な話なのですが、なかなか皮肉が効いていて面白いですよ。

文学と読書、研究、そして旅の関係

――上田さんにとってロシア文学を「読むこと」と「研究すること」の違いは何でしょう?

読書のいいところは、人生という限られた時間の中で、自由な視野で自分の好きな物語に巡り合えるところだと思います。研究に関しては、ロシア文学、特にドストエフスキーなどの古典を研究する場合、膨大な量の先行研究を読む必要があります。価値観は人それぞれなので一概には言えませんが、貴重な人生の時間をそれに費やすのであれば、その分、時間をかけて新しい本を読みたいと考えてしまうこともありますね。このように、研究をすると、好きな本が自由に読めなくなってしまう側面がある一方で、研究者間のネットワークによって新しい本に出合うこともあるので、そういった点は一つの魅力だと思います。

上田さんが修士論文のテーマにしたというドストエフスキーの『白痴』〔米川正夫訳/岩波書店(岩波文庫)〕は付箋がびっしり

――話は変わりますが、コロナ禍により、海外旅行へは行きにくい状況が続いています。文学作品を読むことと、実際に旅に出ることの関わりについて教えてください。

文学作品は旅に出る大きなモチベーションになると思います。私自身、子どもの頃は好きだったピーターラビットの影響でイギリスに行きたいとずっと思っていました。大学時代にはムーミンの生みの親であるトーベヤンソンの故郷、フィンランドを訪れたりしました。文学作品に文字として登場した場所が実際に存在していることを確かめたときの感動は非常に大きいです。ロシアでいえば、ブルガーコフの小説『巨匠とマルガリータ』で印象的なシーンが描かれるモスクワのパトリアルシエ池は、作品を愛する多くの人々にとって聖地となっているんですよ。

――上田さん自身が訪れて記憶に残っている場所はありますか?

やはりサンクトペテルブルクが印象に残っています。ゴーゴリの小説のタイトルとしても知られる『ネフスキイ大通り』は、トルストイやドストエフスキーをはじめ、多くのロシア文学作品の舞台となっています。私も初めて訪れた際は心に込み上げてくるものがありました。あとは少しベタですが、ドストエフスキーの『罪と罰』に登場するセンナヤ広場。ロシアの街では歴史的建造物が一般住宅になっているところも多いですが、私が最初に留学した1990年代後半にはそうした中心部の住宅にも安価な貸し部屋があって、若者が住み着いていたりもしました。混乱の時代でしたが、今よりも自由にあちこち出入りできたので楽しかったです。

サンクトペテルブルクのネフスキイ大通り。右手真ん中辺りの二つのピンクの家の間にあるリテイヌイ通りには、20世紀のノーベル賞詩人ブロツキーの家がある。リテイヌイ通りはドストエフスキー『白痴』の舞台にもなっている(2019年上田さん撮影)

――ロシアを旅する際には、やはりロシア語ができる方がいいのでしょうか?

ロシア語は難しいという印象があると思うのですが、使用する文字は33字とシンプルです。新しい文字を使えるようになるというのは単純に面白いことですし、実際にロシアを訪れた際、文字が少しでも読めれば世界がくっきりと見えるようになります。ロシアには、多くの問題を抱えながらも多様な民族を統治してきた歴史があります。そして、そこには文化的な豊かさがあるのです。

2021年10月から開始した上田さんのチャンネル。ロシア語とロシア・スラヴ文化への思いをベースに、多彩な企画を放送中

まずはロシア語に少しでも触れていただければと思います。また、ゲンロンが運営する放送プラットフォームに「上田洋子のロシア語で旅する世界・万歳(ウラー)」というチャンネルがあるのですが、そこでも新しい世界へと好奇心の幅を広げるお手伝いができると思います。

――最後に、学生に向けて読書や学生生活について、何かアドバイスはありますか?

文学に触れることはもちろんですが、旅にも出てほしいですね。社会人になると長期の旅行をする時間的な余裕がなくなります。また、学生時代に旅をする習慣をつけておけば、その後も気軽に旅に出られるようになりますから。柔軟な考えを持っている学生のうちに旅をして、さまざまな経験をしてほしいです。

世の中に無数にある文学作品の中には、膨大な情報と先人の知恵がちりばめられています。例えばあなたがつらいと感じているとき、ページをめくれば、自身の気持ちを代弁してくれているかのような文章に出合えるかもしれません。文学作品はあなたの心に寄り添い、一緒に悩んでくれます。理解できないことを恐れず、気軽にアクセスしてみてください。

取材場所:ゲンロンカフェ(東京都品川区西五反田1-11-9 司ビル6F)
取材・文:上垣内舜介
撮影:小野奈那子

『早稲田ウィークリー』レポーター・植田さん

取材後、帰り道についたはずの私は、気が付けば途中下車して、駅前の大きな書店に足を運んでいました。『瞳孔の中』が気になって、すぐに読んでみたくなったのです。電車の中で、ページをめくる手は止まりませんでした。比較的短いテクストの中に、さまざまな思索や仕掛けが織り込まれている。サクッと読めそうなのに、めちゃくちゃ濃密です。私にとってロシアは隣国でありながら、どこか遠くにあるイメージ。文学作品を読むことで、物語や文章そのものを楽しむだけでなく、ロシアの歴史や文化、人々の「生」にも触れてみたいと思います。

今回紹介した、主なロシア文学作品

今回紹介した作品のうち、早稲田大学図書館に所蔵されている主な翻訳本です。この他にも、さまざまな訳者、出版社によって出版されている作品もありますので、ぜひ読み比べてみてはいかがでしょうか。

※著者五十音順(クリックして拡大)

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