2016年度 創立記念特集
演劇博物館副館長 児玉 竜一(こだま・りゅういち)文学学術院教授
坪内士行は本格的な“洋行帰り”であり、アメリカとイギリスの演劇事情を実体験として知っている人物でした。イギリスでは俳優として舞台にまで立った経験もある。また、人的交流も幅広かったらしい。西洋の演劇・舞踊について頭だけで知っているのではなく、非常に頼りにされました。士行ほど引き出しが多く、演劇人としての魅力があふれる人は、当時はなかなかいませんでした。また、そのまま上演に乗せられるような訳ができる、翻訳家としての地位も築いています。坪内逍遙の後継者として大きな可能性を期待された人でした。
『ダンス通』(四六書院、1930年)という著書もあります。西洋ダンスについて、そもそもダンスとは何ぞやという話から、社交ダンスの踊り方までしっかりと書ける。求めに応じて洒脱(しゃだつ)なことも言える人でした。また、1958年1月31日の最終講義の録音も残っていて、後半はシェイクスピアの朗読になっています。「自分は逍遙の後継者になれなかった」というような雰囲気を漂わせていますが、逍遙譲りでとてもうまい。
士行がどういう仕事を成し遂げたか、ということもさることながら、その人間的な魅力も無視できないでしょう。逍遙の養子として大人しく生きていれば、それなりの人生があったと思います。しかし、その姿勢は一貫して、ざっくばらん。偽悪的、露悪的で、逍遙研究会などに呼ばれても、逍遙に批判的なことを平気で話します。“女性の園”である宝塚歌劇団に男子専科を作るという非常に難しいミッションを背負っていながら、最初に何をしたかというと生徒と結婚してしまった。こうしたエピソードについても、計画性があるのか、ないのか。ここまで破天荒だと魅力的に映ります。それでいて、収まるべきポストに就いて仕事もこなしている。
士行が世話になった坪内逍遙と小林一三は、演劇における東と西の巨頭です。小林一三は誰もが楽しめる国民劇を目指し、逍遙も新しい国劇を大きな柱にしていました。2人の目指しているところはそれほど遠くはなかった。現代であれば、対談していてもおかしくなかったでしょう。この両巨頭を直接つなぐ存在が士行だったといえるのではないでしょうか。小林一三には「逍遙先生からお預かりしている」という意識があり、逍遙としては「小林君なら大丈夫だ」、という思いがあったと思います。
士行は初期の宝塚歌劇を代表する作家ですが、士行の作品にどんな特色があって、どういうところが当時としては魅力があったのか、ということについてはこれからの研究を待つ必要があると思います。また、演劇博物館には士行に関する手つかずの資料がかなりあります。ロンドン時代に演劇公演の巡業で各地を回っていたころの新聞記事スクラップも100数十件残っています。また、小林一三からの手紙や私的な研究会の開催通知や規約などの原資料もあり、こうした資料を調べることによって、士行の活動の全容が分かってくると思います。
1967年兵庫県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。早稲田大学文学部助手、日本女子大学准教授などを経て、2010年早稲田大学文学学術院教授。早稲田大学演劇博物副館長として展示等に携わるほか、『演劇界』、朝日新聞等に歌舞伎評を執筆。専門は歌舞伎研究。著書に『能楽・文楽・歌舞伎』(教育芸術社)、編著に図録『よみがえる帝国劇場展』(演劇博物館)、『最新歌舞伎大辞典』(柏書房)、『映画のなかの古典芸能』(森話社)など。