Waseda Weekly早稲田ウィークリー

特集

【創立記念特集】早稲田精神、開拓者のDNA 日本人初のプロ野球選手は誰か?

2015年度 創立記念特集

日本人初のプロ野球選手 アメリカ挑戦の先駆となった三神吾朗

「ALLNATIONS」と縦書きされたストライプのユニホームを着てバットを構える日本人の青年。早稲田大学野球部出身で1910年代前半に活躍した、資料で確認できる日本人初のプロ野球選手、三神吾朗(みかみ・ごろう)です。日本にまだプロ野球が存在していない時代、米国留学先の大学で野球部キャプテンとなり、実力が認められて独立プロ野球チーム「オール・ネーションズ」でプレーした、メジャーリーグ挑戦の先駆者ともいうべき校友です。

三神吾朗(セピア)

「ALLNATIONS」のユニホーム姿の三神吾朗(左)

早稲田大学野球部時代

野球部のユニホームを着た三神

野球部のユニホームを着た三神

山梨県出身の三神は1908(明治41)年に早稲田大学に入学しました。1年先輩にあたる飛田 穂洲(とびた すいしゅう)は、著書『名選手の面影』で、「僅(わず)かに球をなげる術を知っているにすぎなかった」実力の三神が、練習の末、「鮮やかな身のこなしの外野守備」に先輩たちが舌を巻くまでになる様子を描いています。

俊足巧守の外・内野手として活躍した三神は、野球部のハワイ遠征(1910年)、第2回米国遠征(1911年)、マニラ遠征(1912年)にも参加しました。山梨の地元紙には遠征記『米国野球界の印象』を寄稿し、メジャーリーグの先進的な経営システムや大学スポーツの充実した設備に驚嘆したことの他、体格が違い打撃力は到底及ばないが、日本の投手は優れた技量を持ち、チームの守備力は十分に対抗できたこと、そして「野球の強さを誇らむとせば走る事を研究せずばなるまい」と走力の重要性を説くなど、100年後の後輩・青木宣親外野手(サンフランシスコ・ジャイアンツ、2004年人科卒)、和田毅投手(シカゴ・カブス、2003年人科卒)ら日本人メジャーリーガーの活躍に通ずるような見解を述べています。

ノックス大学でキャプテンに

ノックス大野球部のキャプテンとして中央で写る三神

ノックス大野球部のキャプテンとして中央で写る三神

卒業後の1913年、三神は米国・イリノイ州のノックス大学に留学。同大野球部では米国遠征で得た経験や考察を存分に生かし、果敢な走塁をする遊撃手としてキャプテンにも選ばれました。このことはシカゴ・トリビューン紙でも報じられ、「中西部で最も足の速い内野手」と評されました。この実力がオール・ネーションズに注目され、三神は大学の夏休み期間にプレーしていたようです。

三神がノックス大のキャプテンになったことを伝えるシカゴ・トリビューン紙

三神がノックス大のキャプテンになったことを伝えるシカゴ・トリビューン紙

オール・ネーションズは名前のとおり、肌の色は関係なく多国籍の選手が在籍し、1910年代に米国各地を巡業したプロ野球チームです。当時のメジャーリーグは打率4割を記録したタイ・カッブが活躍し、ベーブ・ルースが登場した時代でした。選手になれるのは白人のみでしたが、白人以外もプレーできる独立のプロチームによる試合が行われていました。三神はオール・ネーションズで、後に米国野球殿堂入りした伝説的な選手らと名を連ねてプレーしていたのです。このチームはその後、黒人リーグの名門「カンザスシティ・モナークス」となり、黒人初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンを輩出しています。

ところが、「父はノックス大学でキャプテンになったことが誇りで、新聞の切り抜きを大切にしていました。でも、プロ野球選手だったという話は、母も私も全く聞かされていないんです」。こう話すのは、東京都目黒区に住む三神の次女・桑野順子さんです。

「オール・ネーションズ三神」への手紙

「CARE OF ALL NATION BALL CLUB」と書かれた、1914年9月の三神宛ての手紙

「CARE OF ALL NATION BALL CLUB」と書かれた、1914年9月の三神宛ての手紙

オール・ネーションズでプレーした日本人がいる。しかし、一体誰なのか?しばらく謎とされていましたが、桑野さんら家族が保管していた写真やオール・ネーションズ気付の手紙により、その日本人が「三神吾朗」であることが確認されました。1914年9月の三神宛ての手紙には、こう書いてあります。

「やあ、マイク(※三神の愛称)。君からはがきをもらってとてもうれしい。そう、オール・ネーションズは9月11日、ここで試合をする。君が戻ってきてくれることを期待しているよ。ノックス・カレッジにいるんだって?早い返事を待っているよ」

なぜ、三神がオール・ネーションズについて語らなかったのかは不明です。残された日記にもプレーしたと思われる夏の記述が抜けていますが、桑野さんは「私が子どものころ、父は毎シーズン六大学野球に連れて行ってくれました。プロ野球ではなく、お金も名声も関係ないアマチュア野球が好きだったからかもしれません。でも、100年以上も前に遠い外国で、誰もしたことがないことに挑戦した父を、私は誇りに思っています」と、亡父に思いをはせました。

三神はその後、イリノイ大学大学院を修了、(株)三井物産などで海外経験や語学力を生かしたビジネスマンとして活躍し、1958年、病気のため68歳で亡くなりました。

参考文献
・佐山和夫『“ジャップ・ミカド”を巡る謎とロマン』(ベースボールマガジン2012年3月)
・早稲田大学野球部稲門倶楽部発行『白球の絆 稲門倶楽部の100年』
johndonaldson.bravehost.com
※本記事中の写真・手紙は桑野順子さん所蔵

兄の名を冠した三神記念コート

庭球部合宿所に掲げられている、米国にて兄弟で一緒に撮った写真(右・八四郎)

庭球部合宿所に掲げられている、米国にて兄弟で一緒に撮った写真(右・八四郎)

東伏見キャンパスにある早稲田大学庭球部の三神記念コートは、吾朗の兄で同部で活躍した三神八四郎(1909年大学部商科卒)の遺族からの寄付をもとに造られたテニスコートで、現在は3代目となります。

八四郎は卒業後に米国・シカゴ大学に留学し、1916(大正5)年、熊谷一弥と共に日本人として初めてテニス四大大会の全米選手権に出場しました。米国時代には、吾朗と正月を共に過ごすなど交流していたようです。日本で初めて硬球使用を唱えた人物で、黎明(れいめい)期の日本テニスを支えましたが、事業を行っていたフィリピンにて落馬がもとで30代で事故死しました。

1921年に初代コートが早稲田キャンパスに造られ、1941年に2代目コートが大隈庭園裏に整備、1992 年に東伏見キャンパスに移設されました。

早大野球部、史上初の米国遠征

第2回遠征で米国側が作成したポスター(『稲門倶楽部百年』より)

第2回遠征で米国側が作成したポスター(『稲門倶楽部百年』より)

「諸君らが日本野球界の覇権を握るようになれば必ず米国に連れて行く」。かねて「国際野球競技」の理想を掲げていた早稲田大学野球部創設者・安部磯雄は1905(明治38)年、日本野球史上初の米国遠征試合を行いました。日露戦争中の緊迫した時代でしたが、大隈重信は計画を快諾。安部は自著で「もし大隈総長のごとき国際的精神に富んだ人が早稲田の首脳でなかったならば、野球競技のため米国遠征するということはまったく痴人の夢にすぎなかったであろう」と振り返っています。

一高(※東大などの前身)、慶應、学習院など国内強豪チームに全勝して臨んだ第1回米国遠征は1905年4月4日に横浜港を出港、選手12 名で米国西海岸を転戦し、6月29日に帰国しました。戦績は7勝19敗であったものの、新しい野球用具や練習方法などを持ち帰り、日本野球界の発展に役立てました。

三神吾朗が参加した第2回遠征は1911年(明治44)年3月から8月にかけて行われ、西海岸から中西部、東部などを転戦し、戦績は17勝36敗でした。野球部は第2次世界大戦前に計6回の米国遠征を行っており、第5回(1927年)は22勝12敗、第6回(1936年)では15勝7敗と勝ち越すようになりました。

「パイオニアとして活躍した大先輩に誇り」

野球部主将 スポーツ科学部4年 河原 右京

野球部主将 スポーツ科学部4年 河原 右京

スポーツ科学部4年
河原 右京(かわはら うきょう)

100年も前の言葉も文化も違う国で、大学野球部のキャプテンになるというのは、自分には到底できないすごいこと。パイオニアとして活躍した大先輩がいたということに誇りを感じます。プレーだけでなく、リーダーシップなど人間的な部分も評価されたのだと思います。自分も早稲田大学野球部主将として、プレーでチームを引っ張るだけでなく、一人の人間としても成長できるよう心掛けています。歴史の重みを感じて、ラストイヤーの早慶戦に挑みます。

早稲田大学出身のメジャーリーグ挑戦者

  • 小宮山 悟(1990年教育学部卒)
    2002             ニューヨーク・メッツ
    通算:0勝3敗 43.1回 防御率5.61
  • 和田 毅(2003年人間科学部卒)
    2012・2013     ボルチモア・オリオールズ
    2014~          シカゴ・カブス
    通算:4勝4敗 69.1回
    防御率3.25 (2014年シーズン終了時)
  • 青木 宣親(2004年人間科学部卒)
    2012・2013      ミルウォーキー・ブルワーズ
    2014              カンザスシティ・ロイヤルズ
    2015~          サンフランシスコ・ジャイアンツ
    通算:打率.287 461安打 19本塁打
    67盗塁(2014年シーズン終了時)
  • 桑田 真澄(2010年スポーツ科学研究科修了)
    ※入学前の挑戦
    2007              ピッツバーク・パイレーツ
    通算:0勝1敗 21回 防御率9.43
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