
早稲田大学歴史館 非常勤嘱託 柳 啓明(やなぎ・ひろあき)
沖縄県石垣島にある県営バンナ公園。この公園の南口には、観光案内には載らない数々の石碑が並んでいます。そのうち二つの、戦争の記憶を伝える石碑に、早稲田の校友の名前が刻まれています。
一人は、1967年建立の「八重守之塔」(やえもりのとう)に名を刻む大濱信泉(おおはま・のぶもと)(1918年法学部卒)。石垣島出身で、早稲田大学第7代総長(1954〜1966年)を務めた後、佐藤栄作元首相の特別顧問として沖縄返還の立役者となった人物です。もう一人は、1997年建立の「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」の説明文に署名する大田昌秀(おおた・まさひで)(1954年教育学部卒)。琉球大学で社会学者として活躍した後、1990年から第4代沖縄県知事を務め、基地問題で国と対立しました。

大濱と大田が写る写真。1952年の沖縄大島早稲田会にて(早稲田大学歴史館所蔵)
大濱は沖縄から早稲田大学への「留学生」たちの後見人的存在で、同郷の誇りを体現する人物でもありました。大田もそうした学生の一人として1950年に入学。翌年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、沖縄が米国施政下に固定化されていく時期に学生時代を過ごしています。
生年は34年、名を刻んだ石碑の建立時期も30年隔たる二人。それでも石垣島では、6月23日の「慰霊の日」にこの二つの石碑が主要な追悼の場となってきました。なぜ二つなのか。それぞれの背景をたどると、異なる「戦後」の姿が見えてきます。
「復帰」へ向かう冷戦下の戦後 大濱信泉と八重守之塔


八重守之塔(2025年6月28日筆者撮影)
八重守之塔の建立趣意文には、「独立混成第45旅団と海軍警備隊が『八重山群島同胞と相携えて』米軍の侵攻に備え、戦没した『勇士670柱の霊を慰め』」と刻まれています。1969年には、日露戦争以降の戦没軍人・軍属ら「英霊」も合祀(ごうし)。住民と兵士の協力関係が強調された、軍人・軍属を中心に顕彰した碑です。
そこには、日米が沖縄返還へと動き出した時代背景があります。ベトナム戦争が激化しつつあった1965年1月、佐藤首相が訪米しジョンソン大統領と会談。沖縄・小笠原の軍事施設の重要性を確認し、これらの早期返還を求める佐藤首相の願望が共同声明に盛り込まれました。同年8月には戦後の首相として初めて沖縄を訪問、石垣島にも渡りました。大濱は特別顧問として旅程に同行しています。

石垣空港で挨拶する大濱(左端)。右端は佐藤栄作首相(沖縄県立公文書館所蔵)
八重守之塔は、政府主導で返還事業を進めた南方同胞援護会の補助で、当時会長だった大濱の承認と署名と共に建立されました。冷戦下、日本政府の「復帰」に向けた取り組みが具体化する中で建てられた慰霊碑だと考えられます。
問い続けられる戦後 大田昌秀と八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑


八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑(2025年6月29日筆者撮影)
一方の八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑は、遺族による国家補償要求運動が、個人補償ではなく国庫補助の「慰藉事業」として政治決着した末に建てられました。大田が署名する説明文には、軍の作戦展開のために住民が有病地域への避難を強いられ、三千余名が終戦前後にマラリアで命を落としたと記されています。
八重山では沖縄島のような地上戦は起こらず、犠牲の大半は強制移住によるマラリア感染でした。「沖縄戦」のイメージからは見えにくい八重山固有の戦争体験を掘り起こし、日本軍の戦争責任を問う運動が、この碑に結びついています。遺族会は、説明文に「軍命」の文字を入れるよう求めましたが実現せず、地元紙には遺族の複雑な思いが報じられました。
建立の方針が固まった1995年は、9月の米兵による日本人少女暴行事件をきっかけに米軍沖縄基地縮小を求める大規模な抗議が起こり、大田が知事として日米関係を厳しく問うた年でもあります。また、アジア各国から日本へ戦時被害の個人補償を求める訴訟が相次いだ時期でもありました。大田の署名は、戦後50年を経て戦争の記憶が問い直される中で残された「政治」の痕跡でもあるのです。
早稲田で交差した二人の戦争体験と八重山の戦後
大田は鉄血勤皇隊(※)として沖縄戦を生き延び、その体験を戦後の研究と政治の原点としました。一方の大濱は、戦時下の大学教員として学生を戦地に送り出す立場にあり、戦後は大田ら沖縄出身学生の支援に尽くしました。
※ 沖縄県全ての男女中等学校の生徒が動員され、上級生が「鉄血勤皇隊」、下級生が「通信隊」に編成された。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の修復などにあたった。大田が属した沖縄師範学校男子部では生徒386名・教師24名が動員され、生徒226名・教師9名が戦死した

早稲田大学学徒の出征旗。右下に「大濱信泉」とある (早稲田大学歴史館所蔵)
異なる戦争体験を持つ二人は早稲田で交差し、それぞれ戦後のリーダーとして八重山の戦争の記憶の継承に関わりました。バンナ公園の二つの石碑は、戦争の記憶と、その継承の在り方をめぐる政治的緊張という戦後史を伝えています。
〔参考文献〕
内海愛子『戦後補償から考える日本とアジア』(山川出版社、2002年)
大田静男『八重山の戦争』(南山舎、1996年)
大田静男『八重山の1945年』(みすず書房、2025年)
大田昌秀「血であがなったもの」『沖縄健児隊』(日本出版協同、1953年)1頁~121頁
大田昌秀「米軍政下の『日留』生活」『早稲田大学記要』第19巻(早稲田大学大学史編集所、1987年)166頁~177頁
喜舎場大貴(大濱信泉記念館指定管理者株式会社ハブクリエイト)編、石垣市監修『―大濱信泉生誕130周年特別展記念冊子― 信泉と復帰~世替わりの沖縄の未来発展を希う~』(琉球企画、2024年)
野添文彬『大田昌秀――沖縄の苦悶を体現した学者政治家』(中公新書、2025年)
沖縄県平和記念資料館編『沖縄県平和記念資料館年報』第19号(沖縄県平和記念資料館、2019年)
竹富町史編集委員会編『竹富町史 第十一巻 資料編 新聞集成7』(竹富町役場、2019年)
牧野清『新八重山歴史』(牧野清、1972年)
沖縄タイムス 1997年3月29日 朝刊 25頁「きょう追悼式/戦争マラリア犠牲者の遺族 思い複雑/悲しみは終わらない/新しい出発点に/「自分の手で慰霊碑を」/波照間島出身の保久盛康さん」
沖縄タイムス 1997年4月18日 朝刊 5頁「戦争マラリア追悼式/無念な玉虫色の解決/軍名により有病地に疎開/具志堅全弘」
沖縄県「沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊」(2026年6月9日確認)
柳 啓明(やなぎ・ひろあき)/早稲田大学歴史館 非常勤嘱託
法政大学大学院社会学研究科博士後期課程単位満期取得退学。専門は琉球・八重山の近現代史。公益財団法人政治経済研究所の研究員・理事・事務局長を兼務し、大学や自治体、市民団体と連携した地域アーカイブズの構築事業などを推進している。







