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被災地にエネルギーを届け、命と希望を未来へつなぐ

未来への希望をつなぐ、気仙沼復興のエネルギー

2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。津波と津波を起因とした火災は、宮城県気仙沼市の電気・ガス・水道を寸断させた。長年にわたってエネルギーの安定供給に努め、気仙沼地域のインフラを支えてきた株式会社気仙沼商会の代表取締役社長・髙橋 正樹さん。その使命感から震災の翌日には給油を再開し、今なお気仙沼市民に希望を与え続ける髙橋さんに復興に向けた10年の歩みを振り返っていただいた。

Profile
髙橋 正樹
株式会社気仙沼商会 代表取締役社長
気仙沼市出身。1986年に早稲田大学商学部卒業。2020年で創業100年を迎えた株式会社気仙沼商会の5代目経営者を務める。東日本大震災後に気仙沼市震災復興市民委員会に招聘され、復興計画の立案と遂行に尽力する。2012年には気仙沼地域エネルギー開発株式会社を設立。当時、前例のなかった間伐材から電気を作る木質バイオマスプラントを稼働させ、再生可能エネルギーの事業化に成功。現在、気仙沼市を拠点に自動車用、産業用、家庭用エネルギーの販売や各種保険代理業など多角的に事業を展開する。

エネルギー供給が止まった日にわき上がった『給油しなければ』という思い

古くから遠洋漁業の基地港として栄えてきた日本屈指の水産都市、気仙沼。このまちで、100年にわたり地域の漁業を支えてきたのが気仙沼商会。「企業は地域のため、人のためにある」を経営理念に掲げる同社では、東日本大震災の翌日も、社員総出で地域の人達に切らすこと無くガソリンを供給したという。

「その日は社員との面談で気仙沼にあるガソリンスタンドを訪れていましたが、突如尋常でない揺れを感じて津波が来ることを確信し、社員に高台への避難を指示しました。過去に何度も津波被害に遭ってきた三陸地方では、『津波てんでんこ』という言葉が言い伝えられてきました。

『てんでんこ』には『各自』という意味があり、『大地震がきたら、各自すぐに高台へ逃げる』が暗黙のルールです。私自身も車で避難しましたが、逃げ惑う人によって道路が渋滞していたため、市場の前にあった本社に戻るのは諦め、車を乗り捨て、途中自宅に誰もいないことを確認し近所のお年寄りに声を掛けながら市役所のある高台に逃げました。振り返って市内を見下ろすと、街には既に津波が押し寄せ、あちこちに浮かんだ車からクラクションが鳴り響いていました。

その後まちの中央の高台にある学校に避難しましたが、その夜は真っ赤に染まる海の方角の夜空をただ茫然と見つめるしかありませんでした。暖をとる手段がロウソクしかない状況で、水も食料もなく、寒さに震えながらふと感じたのは『給油しなければ』という思い。それは移動のためではなく、車の中で暖をとるためにガソリンが必要だと思ったからでした。津波で所有していた石油タンクが流され、気仙沼地区に15箇所あった事業所も2つのガソリンスタンドを残して全壊という状況でしたが、まだ生きている命を救いたいという一心で給油を再開しました」

母校から来た学生のエールが復興の大きな原動力に

「早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)から連絡を受け、学生ボランティアを受け入れることになりました。ボランティアを受け入れるのはもちろん初めての経験。食事の手配や安全の確保、連絡調整など不安がなかった訳ではありません。

しかし、早稲田大学と学生の「被災地には一切迷惑は掛けない」という姿勢は徹底されており、到着してすぐに相当な覚悟を持って来てくれたことを知り、安心しました。『先が見えない』不安で何度も心が折れそうになっていた私たちでしたが、母校の学生が進んで泥のかき出しや、がれきの撤去などをする姿に、申し訳ない気持ちと誇らしい気持ちになったことを覚えています。

お世話になった学生の皆さんにせめてものお礼にと、気仙沼の魚と芋煮汁を振舞いながら気仙沼稲門会の校友との昼食会を開催しました。涙あり笑いあり、被災した我々にとって『母校の学生が気仙沼に来てくれた』ということが何よりの『ボランティア』でありました。帰る学生を見送る際に、校友と学生が一緒に涙を流しながら歌った校歌は、我々のその後の復興の大きな原動力となりました」

震災を機に生まれた地産地消のエネルギー、気仙沼発・木質バイオマス発電

震災から3ヶ月が経った2011年6月、気仙沼市長の呼びかけにより、気仙沼市震災復興市民委員会が発足。髙橋さんは委員会の座長として、気仙沼の復興計画に携わることになった。復興計画の柱のひとつとなったのは「エネルギー」。震災でエネルギー供給が途絶した気仙沼では、地産地消の再生可能エネルギーの導入が復興目標となっていった。

「震災を経験し、地域で自給自足できる再生可能エネルギーの必要性を肌で感じていました。気仙沼はリアス式海岸のイメージから海のまちだと思われていますが、山が海に迫っている地形であり、地域の大半が山林で占められています。その豊かな山々をエネルギー源として活用することは、エネルギーの地産地消を目指す気仙沼にとって、大きな意味を持ちます。

周囲の後押しもあって、2012年に気仙沼地域エネルギー開発株式会社を設立。これまで活用されていなかった森の間伐材を木製チップに加工し、これをガス化して発電する木質バイオマスプラント建設まで漕ぎ着けました。太陽光や風力と違って、木質バイオマスによる小規模発電は国内で前例のない取り組みでしたが、震災の時に全国から頂いた支援に対して、日本初の取り組みで、何か気仙沼の復興の姿を恩返しとして発信したいという思いがあったからこそ、挑戦し実現出来たものと思います」

あの日から10年経った今改めて気づく、震災で得たものの大きさ

2021年3月で東日本震災から10年。現在、復興計画は終盤へと差し掛かり、気仙沼の街並みも本来の美しさを取り戻しつつある。

「復興への道のりは平坦ではなく、今日に至るまで数々の困難がありました。時折『東日本大震災が発生していなかったら……』と考えることもあります。もちろん、発生しない方が良かったし、もう一度同じ苦しみを味わいたくはありません。

この10年で失ったものは数多くありますが、それと同時に得たものも沢山あります。壊滅的な被害を受けた中で、創業100年に向けて会社を支えてくれた社員たち。バイオマス発電を稼働する中で、挑戦を後押ししてくれた地元の関係者。気仙沼の復興のために汗を流し、学習支援やスポーツ支援など、様々な支援をしてくれた早稲田大学の学生たち。厳しい状況を乗り越えて来れたのは、震災以降に生まれた幅広い分野・世代・立場の人との繋がりがあったからこそ。

その中でも、早稲田大学は心の支えとして、復興に向けて大きな力となりました。私が『早稲田』出身というだけで、支援してくださった方も多く、改めて『早稲田』という存在の大きさを実感しました。震災から10年の節目を迎えるにあたり、これまでに早稲田大学から頂いた支援に対する感謝の気持ちと、復興に向けた10年の歩みを何らかの形で報告する機会を作りたいと思っています。これからも、早稲田大学には沢山の人に勇気と希望を与える存在であり続けて頂きたいです」