早稲田大学歴史館 講師(任期付) 袁 甲幸(えん・じゃあしん)
1943(昭和18)年10月1日、第二早稲田高等学院(現早稲田キャンパス14号館辺りにあった)を卒業した佐川一元(当時20歳)は政治経済学部の新入生として、「嬉々として大隈記念大講堂」の「最前列中央に着席し…一生忘れぬ」入学式に参列した。新調した日記帳の冒頭に「明日にもペンを銃に代へて戦場に立たねばならぬやも知れぬ今日」と書いた彼は、まさにその「今日」において、在学生の徴兵猶予を停止する勅令第755号が発令されたことを予想できなかっただろう。同勅令により、理工科など一部の学生・生徒を除いて、満20歳の在学生が徴兵の対象となり、戦場に赴くこととなった。世にいう「学徒出陣」である。
翌日の朝刊で自らの運命を知った彼は、動揺しながらも勉学に励むことを決意した。12月1日の陸軍入営までの60日間、彼は可能な限り登校し、教室の最前列で授業を聞いていた。筆まめな彼が残した日記には出陣までの学園や在学生の様子が鮮明につづられ、171ページにも及んでいる。

1943年10月1日からの「佐川日記」(早稲田大学歴史館蔵)
教員たちは2カ月で何を講義するか悩んでいた。突然の休講も多く、出席者は少なかった。最初の授業で「教科書を買ふ意志がありますか」と冗談めかして聞かれた。実際、大学門前の本屋で最も売られていたのが陸軍幹部候補生試験の問題集だった。戦局の悪化に伴い、将校と下士官が著しく不足し、高学歴の学徒兵が幹部候補生として期待されていたためである。
10月6日に「軍人援護ニ関スル勅語」の奉読式があり、8日にも似たような講演会や映画会があって授業がさらに休講となった。同じく6日、かつて雄弁会で自由と正義を高唱した永井柳太郎の講演会があり、大隈大講堂が立すいの余地もないほどの人気ぶりをみせたが、内容がやはり戦争擁護のもので、「氏の熱弁に多くの早稲田学徒は安んじて戦場に趨く覚悟を得たであらう」と佐川青年は感じ取った。

軍人援護に関する勅語奉読式のために恩賜記念館(現早稲田キャンパス7号館)前の「報国」碑前に集まった教職員や学生(1941年、早稲田大学写真データベースより)
壮行会は何度も行われた。10月15日の早稲田大学壮行会、21日の文部省主催の壮行会を記した日記は既に『早稲田大学百五十年史・第一巻』(1304~1306頁)で紹介されている。それらに先立ち、13日に第二高等学院のクラス壮行会があり、旧大隈邸の「ガランとした立派な」広間に入ることができた。「これが最後かも知れず」と彼はいたく感激したが、同建物は後の大空襲で全焼し、彼の予想と異なる「最後」となった。19日に中学校の在早稲田校友の壮行会が高田牧舎支店(現在の高田牧舎の支店で、リーガロイヤルホテル東京の向かい側にあった)で行われた。戦時の配給体制の中、会費5円の他、外食券あるいは米一合の持参も求められた。お酒もなく、「座が白けてお通夜みたい」で「皆しんみり」していた。
壮行会後、徴兵検査のための帰郷や思い出づくりの旅行などで授業の出席状況はさらに悪化した。「万を以て数へる日本一の学園も、寥々(りょうりょう)として秋風が吹いている」(11月5日)といったようなありさまだった。その中で、彼は教員の家を訪れるようになり、学問や学校、世間のことなどを語り合い、詩や歌を贈られた。
10月31日の徴兵検査に合格し、その後の日々は慌ただしかった。休学願を提出し、学費の返戻金を受け取った。机の整理、学友と写真撮影、アルバム作りなどの「身辺整理」がつつがなく行われた。11月20日に最後の授業に出席し、22日に在学証明書や教練検定合格証明書を受け取るために登校した。たまたま会った学友との会話で『軍隊内務令』(兵営内の秩序維持、服従関係、各職の職務権限や業務手順などに関する規程集)が話題に上がり、入営直前もあってその本が飛ぶように売られていたという。「学生がこのやうな本を買ひ漁るやうにならうとは世の中は正に転変のものだ。…我々には未だ運命が達観出来ない…しかし僕はこの入営に関してだけはいさゝかも心動じない」と書いた彼は、30日、再び大学に戻った。大隈銅像や報国碑に礼拝し、さらに護国寺まで足を伸ばして大隈の墓参りをした。こうして、出陣への覚悟ができたのである。
佐川一元はその後、陸軍東部第19部隊、輜重(しちょう)兵学校幹部候補生隊などを経て、1945年1月に中国内地に派遣され、そこで終戦を迎えた。戦後は政治経済学部に復学し、1948年に卒業した。