60の声を聴くようになると、退職後の生活を想像するようになる。これまで生かされてきたことに感謝しつつ、今度は私が誰かに何かをする番だと色々のことを考えていた。
縁あって5年ほど前に、ある村に古家を借りることができた。歩いて5分の八幡(はちまん)様には6月になると蛍が飛び交い、カワセミが小魚を枝に打ち付ける音が聞こえてくる。麦秋のころにはイタチがネズミを追って近くの畑にやってくる。借家に来た私を見つけると、畑の持ち主のおじいさんが、笑顔で我家の玄関を開ける。たわいもない話を小一時間ほどすると畑仕事に戻っていく。私はなんだか、ふわっとした心地になり肩が軽くなる。隣の家では80を過ぎたおじいさんがひたすら薪を割っている。「〇〇さん。こんなに薪を割って販売でもするんですか」「俺が死んだら、カーちゃんが冬、寒い思いをするといけねーから、死んだ後のために薪を割ってるんだよ」
ここで流れている時間は確実に、都会の生活で流れている時間と異なっている。物理的な時間と精神的な時間とがこれほど異なるものであることをつくづく思い知らされる。そして、誰かに何かをする番だなどと、偉そうな的外れなことを考えていた自分に気付かされる。
そんな時に、尾畠春夫さんのことを知った。「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」(懸情流水 受恩刻石)。尾畠さんの好きな言葉である。生かされていることに対する恩返し。60を間近にしてようやく今やるべきことが見えてきたような気がした。
(K)
第1051回