CASE1

ロールモデルがいないからこそ
ワクワクする

本髙 克樹(もとだか・かつき) イメージ写真

博士後期課程に進もうと思ったきっかけは、何だったんでしょうか?

本髙

一番の理由は、「学びを止める理由があまりなかった」からです。これまで学業と芸能活動を両立してきた事実と、博士課程は指導教員による研究指導が中心で、決まった時間割での授業の制約を受けないこともあって、まずは「いったんやってみて考えよう」という気持ちで進学しました。途中、「本当にできるだろうか?」と悩んだ時期もあったのですが、両親や教授、事務所の先輩であるSnow Manの阿部くんの言葉に後押しされて続けていると結果が出始めて、そこから気持ちに火がついたんです。

大学院ではどのような研究をされていましたか?

本髙

「オペレーションズ・リサーチ」(※1)という、エンターテインメント(以下、エンタメ)業界の課題解決にも使える分野です。僕の博士論文のテーマでもある「ライブ・エンターテインメント市場における超過需要下でのチケット販売戦略に関する社会シミュレーション研究」もその一つです。

※1 数学モデル、統計、アルゴリズムを用いた科学分野。ビジネスや組織における意思決定の問題を分析し、解決を支援する

当時、蓮池隆先生の研究室で学んでいたのですが、蓮池先生がいなかったら今の自分はなかったと思います。先生は教材に自分のマスコットキャラクターを使うなど、「教育を面白く届ける」ことを大事にされているんです。僕自身、エンタメと教育の現場に身を置いていて、その融合性は重要だと感じていたので、すごく共感しました。

教育とエンタメの融合性、ですか?

本髙

はい、教育とエンタメって、本質的に似ていると思うんです。実際、ライブの演出やセットリストの構成もよく自分で考えるんですが、「どうやったら心に響くか」をお客さんの立場になってめちゃくちゃ考えるんですよ。教職課程も取っていたので、教育実習で授業内容を組み立てて教壇に立った時も、「これ、ライブと全く同じだな」と感じていました。

大学での研究と、エンタメ業界での経験を持つ本髙さんならではの、「強みの掛け算」ですね。

本髙

昔から「何か社会に役立つことがしたい」と思っていたので、その両方を知る自分だからこそ、架け橋として何かできることがあればいいですね。

博士課程の中で、苦しい時期はありましたか?

本髙

学位論文にもなった最後の論文の掲載が決まったのは、博士課程に進んで3年目に入ってからで、本当にギリギリのタイミングでしたし、最初の頃はまったく箸にも棒にも掛からなかったので、苦しい時期はありましたね。ただ、蓮池先生も「私も最初の1年半は1本も通らなかった」っておっしゃっていて、「蓮池先生でも無理なら、そりゃ無理だ!」と思えました。おかげで、落ち込みすぎなかったです(笑)。

とはいえ、「アイドル兼ドクター(博士)」は他に類を見ません。そこに進む怖さはありませんでしたか?

本髙

「ロールモデルがいない」という不安はありましたが、むしろ「(博士学位が)取れたらすごいよな」という、ワクワクの方が勝りました。誰もやっていないからこそ面白いし、その先にどんなことが待っているか楽しみじゃないですか。ロールモデルがない不安よりも、博士課程までやり切るという挑戦のしがいや面白みの方が、僕の中では大きかったです。

本髙 克樹(もとだか・かつき) イメージ写真

得意なことが一つ見つかれば、
それが軸になる

アイドルと学業、どちらも本気で取り組まれてきたと思いますが、一方でご自身のアイデンティティーに思い悩むこともありましたか?

本髙

芸能活動を一時休止して学業に専念した中学2年生、必修科目が多くてあまり仕事ができなかった大学1年生の時は、やはり葛藤がありました。勉強を続けながら芸能活動ができるって、ある意味恵まれていると思うんです。周りから、「学業よりも芸能活動を頑張りなよ」と言われた時も、僕は「学業」をずっと軸に置いてきたし、その両立に後悔や不満はなかったんですよね。逆に、自分のアイデンティティーがずっと「学業」とひも付いて形成されてきていたので、それを手放すことに対する怖さは、節目節目で感じていました。

どんな怖さだったんでしょうか?

本髙

「学歴の看板」があるだけのアイドルと見られてしまうんじゃないかって…。そうではなく、ちゃんと学業に向き合っていること、実が伴っていることを大事にしたかったんです。今思えば、学業に専念し始めた中学2年生の頃からそういう生き方を選んできましたし、大学院に進んだことも、過去の自分と今の自分を一貫させるためでした。

学業に対して真摯(しんし)に向き合ってこられたことが伝わってきました。その原点のようなものはあったのでしょうか?

本髙

これは明確にあります。中学受験でしっかり勉強していなかったこともあり、志望校に落ちてしまって。その時母親に「勉強しなかったから落ちたんだ」と言われたのが悔しくて、初めて家出をしたんです(笑)。同時に「学業って人生において大事なんだ」と初めて身を以て感じました。その悔しさもあってか、中学以降で「見返してやろう」という反骨精神も生まれました。きっと負けず嫌いなんだと思います(笑)。

でも、そこで踏ん張れない人もたくさんいますよね。もし、自分のアイデンティティーに迷う学生がいたら、どんなアドバイスを送りますか?

本髙

「一つでもいいから得意なことを見つけてほしい」と思います。得意なことが一つあると、他がそれほどできなくても、あまり苦にならないんです。自分の軸になるというか。僕にとっては、それが数学でした。

そして、一番得意なことを基準にして他のことも頑張れば、自分の目標が見えやすくなる。勉強って、自分が「何が得意で何が不得意か」を知るための手段でもあると思うので、自分をもっと深く知るために、いったん他人と比較せず、自分のペースでやってみるのが良いと思います。

本髙 克樹(もとだか・かつき) イメージ写真

早稲田大学を使い倒して、
掛け算の素を探す

早稲田大学という場所は、本髙さんにとってどんな存在でしたか?

本髙

将来の選択肢を広げてくれた場所ですね。というのも、学部の必修科目以外にも、面白い授業が本当にたくさんそろっていて、それを受けるのが大好きだったんです。特に、大学1~2年生の時に受けた朝日透先生のアントレプレナーシップの授業は面白かったです。授業の中でサイバーエージェントの藤田晋社長(現・会長)が40〜50人規模の教室に講師として講義してくださり、今じゃ考えられない(笑)。あとは、学部を超えて全学的に展開されているGEC(グローバル・エデュケーション・センター)のカリキュラムもすごく充実しています。

アイドルという職業だけで見れば、ロールモデルはすごく少ない。それでも、早稲田大学に身を置いたことで、授業を通じて社会との接点が増えて、自分自身の選択肢がどんどん広がっていく感覚がありました。

芸能活動もしながら、追加で授業も取っていたんですね。

本髙

正直なところ、大学1年生の頃はちょうど芸能活動を続けるべきかどうか、迷っている時期だったので、相当アグレッシブに授業を取っていたんです。必修科目も多かったんですが、それでも授業が楽しくて必修に関係なく受けていました。興味のある授業はできるだけ学部生のうちに受講して、後悔しないようにしておくのがお勧めです。

最後に、学生に向けたメッセージをお願いします。

本髙

大学生活は、自分が好きなことに向き合える時間が確保できる、人生の数少ない貴重な期間です。それを早稲田大学で過ごすことは、本当に多くの選択肢が与えられている状態。授業の充実ぶりもそうだし、サークル活動もそう。しかも、社会に出れば早稲田卒の先輩たちがたくさんいて、そういうつながりも自然とできていきます。

それだけ恵まれた環境の中、自分の知っている世界だけに閉じこもっているのはすごくもったいないと思うんです。いつもの自分よりも少しアンテナを伸ばして広げてみたら、興味ないと思っていたことでも面白いことや、好きなことが見つかるはず。自分だけの掛け算って、案外そういうところから生まれてくるんじゃないかなと思います。

CASE2

自分の強みを「意識して掘り出す」
大切なのは考え行動し続けること

大学時代はご自身の将来について、どのように考えていましたか?

伊藤

「卒業したらメディアの編集者になりたい」と夢見ていましたね。中でも料理書籍の編集者に憧れていました。小さい頃からお菓子作りが好きで、私の先生は何冊かの料理書でした。ページにバターやシロップの染みが付いてボロボロになるまで使い込んで、いつか私も提供する側になれたらと。でも、それ以外はキャリアについて深く考えることはありませんでした。就職することが大変な時代だったので、正直なところ、とにかくどこか働き口を見つけなくちゃ、という気持ちでしたね。

これまでを振り返って、「キャリアの転換点」だったと感じた瞬間を教えてください。

伊藤

『ゼクシィ』という結婚に関するメディアの編集者から、医療の領域に入ったことです。ゼクシィ在籍時、カップルたちの価値観や結婚観、家族観が時代とともに変化するのを目の当たりにしていました。「家と家の結婚」から「個人と個人の選択としての結婚」へ、そして2010年代ごろからは「個人や家族にとどまらず、周囲にいる人たちとのつながりをより大切にする」欲求の強まりを感じるようになりました。不確実性が高い時代に、私たちにとって「共に生きる」とはどういうことなのか? と考えて媒体を作っていたんですね。

そのうち、結婚というライフイベントに限定されない視点で、このテーマに関わりたいと考えるようになりました。医療、特に私が携わっている在宅医療では、患者の皆さんのご自宅のドアが開かれて地域と強固につながり、医療職をはじめとした多くの人々がその生活を支えます。そして患者さんの生き方、自己決定の尊重に心を砕く。医療は、恐らくほぼ全ての人にとって「いつか当事者となる」経験だと思います。私の転換点は、一つのテーマをもっと追求したいと考えた末の「業界越境」でした。

やりたいことの軸が徐々に定まっていったのですね。

伊藤

学生時代の私が今の自分を見たら不思議に思うでしょう。あんなに編集者になりたかったのになぜ医療? しかもなぜ経営を? って。下の写真は岐阜県のある訪問看護ステーションを訪問した時の一枚で、1年の取り組みを聞いているところです。地域医療を一身に担おうという情熱に触れ、ちょっと涙しています…。仕事を続けるうちに「何になりたいか」よりも、自分の人生を誰のために、何のために使うのか、次世代のためにどんな貢献ができるか、と少しずつ考えるようになりました。学生時代の想像とは異なる仕事をしていますが、私にとってキャリアとは、その問いに答え続けて、行動することでできていく自分らしい道、であるように思います。もちろん今も試行錯誤の毎日です。

伊藤綾(いとう・あや) イメージ写真

早大生へアドバイスをお願いします。

伊藤

計画がパーフェクトでなくても、迷いがあっても、したいことが見つからなくても。挑戦や葛藤を経て、いつの間にかできている自分の強みを少しずつ「意識して掘り出して」、自分なりの方法で仕事にあたり前進する。その奮闘の積み重ねで自らの内発的動機が生まれていくのではないかと私は思っています。

CASE3

どんどん失敗すればいい
その先に自分だけの道がある

大学在学時はどのような思いで過ごされていましたか?

ふじき

今は分かりませんが、当時の早稲田には「中退一流、留年二流、卒業三流」という言葉があって、何かをなし得た人間は大学なんかまともに通っていなかったということなんですが、私もとにかく何者かになりたいと思っていたので、「頑張って中退するぞ!」「最低でも留年するぞ!」と意気込んでいました。ただ気持ちが先行するばかりで、どの道で何になりたいという具体的なビジョンは全くなく、将来が不安というより、やりたいことが見つからない今が不安でモヤモヤイライラして、迷走を続けた学生生活でした。

お笑い養成所に入ってコント芸人を目指した時期もありましたが、結局、留年後に就活をして広告代理店に入社します。その時点で将来、脚本家になるとは夢にも思っていませんでした。

ふじきみつ彦(ふじき・みつひこ) イメージ写真
お笑い養成所時代のふじきさん(後列左から2番目)

作家業に進もうと思ったきっかけを教えてください。

ふじき

“笑い”が好きで、広告代理店に入ったのも“笑い”のあるCMが作りたかったからなのですが、勤めていた会社は真面目なCMばかり作っていて…。その頃、舞台にハマり始め、そっちの世界に行きたいなと。特にシティボーイズ(※2)のコントの舞台に衝撃を受け、この人たちの舞台を書く作家になりたいと、舞台台本は書いたこともなければ舞台関係者の知り合いも一人もいないのに、取りあえず会社を辞めてしまったのが29歳の時です。どう考えても無謀でしたが、ようやくやりたいことが見つかったので気持ちがとにかく軽く、それから4年近く会社員時代の貯金でギリギリ暮らしていましたが、この頃が人生で一番前向きだったと思います。

※2 大竹まこと、きたろう、斉木しげる(教育学部出身)の3人によるコントユニット

これまでを振り返って、なぜ今の自分を実現できたと思いますか?

ふじき

周りの人々に恵まれたおかげです。ただ、力になってくれたり認めてくれたりする人に出会う前に自分が諦めてしまったら、当然恵まれることすらないわけなので、周りに反対されようとばかにされようと自分の道を信じ続けたことが良かったんじゃないかと思います。30歳過ぎて仕事もなく、夢だけ見て生きている人間に世間の目はかなり冷たかったですが、負けませんでした!

早大生へアドバイスをお願いします。

ふじき

どんどん失敗すればいいと思います。私の場合、最初は芸人になろうと思って失敗して、次にCMプランナー、これも失敗でした。舞台でコントを書き始めてしばらくしたら劇作家と言われるようになって、いずれも鳴かず飛ばずだったのが、テレビに呼ばれてドラマを書くようになって。脚本家という肩書がつき始めたのは40歳を過ぎてからです。学生の頃、失敗の果てに50歳の自分が朝ドラを書くなんて思ってもいませんでした。けっこうそんなもんです、思ったようにはいきません、良い意味でも悪い意味でも。

人生、一本道とは限りませんし、早くに成功することが幸せとも限りません。SNSの時代、周りや同世代の見たくもない成功や活躍を目にしてイライラしたり焦ったりすることも多々あるでしょうが、適当にスルーして、どうぞ自分だけの道を進んでください。

CASE4

「思考にとらわれず、直感を信じよう」
自分が一番ワクワクできる選択を

大学在学時はどのような未来を描いていて、どのようなことを学んでいましたか?

植村

正直、学生時代は、将来のビジョンをはっきりと描けていませんでした。高校生の頃に1年間、カナダに留学していたこともあり、頭の片隅に「将来は英語を活用していきたいな〜」くらいの思いはありました。アナウンサーという仕事に対して漠然とした憧れはありましたが、大学在学中は応援部に所属していたので、部活の合間をぬって、アナウンススクールや英会話スクールに通っていました。現在、ロンドンで生活していますが、結果的に、大学時代に英語を学び続けたことが役に立っています。

植村智子(うえむら・ともこ) イメージ写真
応援部チアリーダーズで活動されていた時の様子

ご自身のキャリアの中で、大きな「転換点」となった瞬間はどんなことでしょうか?

植村

2013年頃に趣味で開催していたヨガクラスに参加してくださった方から、「ヨガは幸せを感じさせてくれますね」と言われたことです。この言葉が響きました。その後、ヨガからアーユルヴェーダ(インドの伝統医学)、そして鍼灸へと興味が広がっていき、現在は鍼灸師として活動しています。

迷いが生じたのは、周りの人に「アナウンサーを辞めるのはもったいない」と言われたときです。なので、アナウンサーの仕事もしながら、ヨガや鍼灸師の活動をし、緩やかなキャリアの転換期間を設けました。現在感じていることは、ヨガを伝えることも鍼灸治療も、コミュニケーションがとても大切で、「身体」の世界であっても、アナウンサーという「言葉」の世界で培われたコミュニケーション力が生かされています。

進む道を決める際に、植村さんが大切にしてきたことを教えてください。

植村

一番大切にしていることは、自分がワクワクするかどうかです。在学中の就職活動では、アナウンサー以外の職種も受けようか迷いましたが、ワクワクしたアナウンサー1本に絞りました。安定した収入がないフリーランスの仕事は、私には向いてないと思い込んでいたのですが、環境を変えたいという思いが強くなり、社員とフリーランスをワクワク度のてんびんにかけた際に、フリーランスが勝ちました。

アナウンサーからヨガのインストラクター、そして鍼灸師に転換していく時は、流れに任せました。早稲田大学から、非常勤講師としてヨガの授業を担当する機会をいただけたことはありがたかったです。すごく心地良く授業ができて、「こっちの道でいいんだな〜」と実感しました。現在は、結婚を機にロンドンへ移住し、鍼灸師として働いていますが、意識してキャリアの選択をしたわけではなく、運良く働く機会を得られているという状況です。

自身の進路に悩める後輩たちへ、アドバイスをお願いします。

植村

自分のことは身体がよく知っていると私は感じています。“If you are in head, you are dead”という、世界のトップリーダーのメンターであるTony Robbinsの言葉には、「思考にとらわれず、直感を信じよう」という意味があると理解しています。頭だけで考えると、周りの評価に惑わされやすくなります。やりたいことが分からないときは、いろいろな情報に触れることも良いですが、身体の感覚を観察していくヴィパッサナー(※3)を行うのもお勧めです。停滞しているものがスッと流れるようになり、人生のフローもスムーズになるので試してみてください。

何が正解かは分からないので、一つ一つがプロトタイプと捉え、ピンと来たら動き、違うと思ったら修正していく。大切なのは、自分自身がハッピーであることだと思います。

※3 物事をありのままに観察することで、心と体の開放を目指す瞑想法