Waseda Weekly早稲田ウィークリー

特集

大隈講堂の正面はなぜ少しずれているの? 早稲田建築散歩

普段何気なく過ごしているキャンパス周辺は、実はユニークな建築の宝庫であることをご存じですか? 先人たちの思いが込められた、「早稲田らしさ」の結晶ともいうべきそれらの建物の見どころを、建築史がご専門の小岩正樹理工学術院准教授に伺ってきました。涼しくなってきて外歩きが楽しいこの季節、早稲田の街の建築をじっくり味わってみませんか?

DSC_0163_小岩先生顔写真

小岩正樹(こいわ・まさき)早稲田大学理工学術院准教授。早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。工学博士。専門は建築史。著書に、『日本近代建築大全<東日本篇>』(共著・講談社)など。

早稲田大学のキャンパス内とその周辺にある建築物について、建学の精神や理念などを象徴、継承し、早稲田らしさを感じさせるものとして、まず大隈記念講堂(1927年完成)、今は會津八一記念博物館となっている旧早稲田大学図書館(1925年完成)、そして坪内博士記念演劇博物館(1928年完成)の三つが挙げられます。いずれも大学として、これからも保存、活用していく方針がとられています。

大隈記念講堂

大隈記念講堂(1927年完成)

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大隈記念講堂設計のコンペティションで1等になりつつ採用されなかった案

大隈記念講堂は、大隈重信(1836~1922年)が亡くなってから建てられました。大隈の遺志を受け、大隈をよく知る人たちが受け継いだ建学の精神、理想を何とか建物として実現したいと考えたようです。

講堂の設計はコンペティションにかけられ、日本全国から参加を募りました。クローズなものとせず、建築に関わっている人に広くチャンスが開かれていました。しかし、応募案に十分なものはなく、早稲田大学の建築科開設に尽力し、コンペの審査員をしていた佐藤功一(1878~1941年、日比谷公会堂などを設計)が手掛けることになり、建築学科の佐藤武夫(1899~1972年:設計)や内藤多仲(1886~1970年:構造)が参画しました。「講堂」という名前ですが、天井は音の反射を生かし、舞台の見え方も考えられ、劇場としても使えるように設計されています。

大隈記念講堂が早稲田の建築に与えた影響は、形ばかりでなく、理念や雰囲気などにも現れています。早稲田的とでも言うべき要素は、大隈記念講堂によく結実しており、広まっていったともいえるでしょう。

大隈講堂(夜)入口

夜の大隈記念講堂。独特の意匠が早稲田らしさを醸し出す

大隈記念講堂は、コンクリート造のビルがすでに建てられていた時代に、わざと中世ヨーロッパのようなクラシカルな見た目にしています。しかし、れんが造りのように見えながら、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造で、当時の先端技術が使われています。意匠はロマネスク様式をそのまま使うのではなく、創意工夫がなされています。そういった、進取の精神やチャレンジ精神、○○様式といえないオリジナリティーも早稲田らしさを醸し出し、後世の建築家に影響を与えています。

また、建物は建っている方向でも印象が変わります。大隈記念講堂がもし正門の真正面にあったら、見る人が威圧感を覚えるでしょう。少しずらされていることで、多面的、立体的に見え、自然にその場所にあるように感じられます。「早稲田の杜」で学ぶ学生に寄り添い、応援してくれるような優しさにあふれています。

會津八一記念博物館

會津八一記念博物館(1925年完成)

會津八一記念博物館(1925年完成)

完成当時の柱

完成直後の柱

大隈記念講堂に並んで重要な會津八一記念博物館は、大正時代に図書館として建てられました。マンサード(※屋根の形態の一種)と呼ばれる17世紀風の屋根があり、大きな窓を持つ閲覧室が今は展示スペースとなっています。この美しい空間で、かつての学生は本を読み、学んでいたということを伝えたいです。当時貴重だったであろう美術品のような原語の本を読み、考える。それが学問だという考えが恐らくあったのではないでしょうか。そのような理念が込められているように思います。

設計は今井兼次(1895~1987年)です。エントランスにある6本の柱は、若い左官職人がしっくいで丹念に装飾したものです。完成の日に盛装した奥さんと息子さんを連れ、傍らに座らせて自分の仕事ぶりと完成を見届けさせ、そして自らも満足して静かに帰って行ったという逸話を今井は紹介しており(『建築とヒューマニティ』早稲田大学出版部)、こういった人々の営みで建物や空間が生まれるのだと伝えています。作り手の気持ちが、建物には如実に反映されているのです。

坪内博士記念演劇博物館

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坪内博士記念演劇博物館(1928年完成)

會津八一記念博物館と同じく、今井兼次が設計に関わった坪内博士記念演劇博物館は、英国にあったグローブ座やフォーチュン座といった、シェークスピアが活動していたエリザベス朝時代の劇場を模して作られていますが、似せながら再解釈をしているところが興味深いですね。ハーフティンバー様式のようにわざと梁(はり)を見せたり、左右の張り出した部分を角形にするなど、さまざまな様式を折衷させているところが見どころです。

特にすごいと思うのは、劇場を模したこの建物自体が、“演じて”いるということです。つまり、キャンパス内に非日常を作り出している。建物の置き方も絶妙で、メインの通りに対しては直角、南門からは真正面に位置し、主張し過ぎないながらも存在感があります。行き交う学生に対して自ら「演劇」という象徴を演出をしているような、素晴らしい効果を見せています。

戸山キャンパス

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戸山キャンパスの象徴ともいえる長いスロープ

佐藤功一や今井兼次らが築いた早稲田建築の精神を受け継ぎ、昭和時代に民間で大きな活躍をしたのが村野藤吾(1891~1984年)です。村野世代から、都市文化の隆盛とともに建築家が建物を設計することが一般的になっていきます。近代の経済成長期もあり、たくさんの人の活気ある様子が、その建築から感じられます。さまざまな意匠が込められ、常にチャレンジング、そしてファッショナブルでありながら軽薄でなく、静謐(せいひつ)でもあるというのが村野建築の特徴です。

村野が設計した戸山キャンパスの校舎は、33号館はなくなりましたが、31号館や、正門から続くスロープ、階段は残っています。極めて機能的でありながら、温かさもある。派手過ぎることはなく、匿名的でありつつ、きちんと主張もある。その絶妙なバランスが早稲田の質実な気風を表しています。33号館のように時代の変化により建て替えられる建物もありますが、その理念は継承されているのです。

西早稲田キャンパス

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西早稲田キャンパス校舎(1967年・写真は56号館)

西早稲田キャンパスの校舎の多く(51~54号館、56・57号館など)は、安東勝男(1917~88年)の作品です。安東は非常に江戸っ子かたぎというか、厳しく真っすぐな方だったようです。建物は無駄が排されているので冷たく見えるかもしれませんが、その奥に人間味のようなものが感じられます。例えば、建物の柱は上に行くに従って徐々に細くなっていて、柱と柱をつなぐ梁も、建物の中心から端に行くに従って先端が細くなっているため、外から見たときに軽やかに見えるんです。無駄を省きつつ、画一的にならない工夫がなされ、それが面白みにつながっています。

早稲田奉仕園スコットホール

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早稲田奉仕園スコットホール(1921年完成)

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早大通りに面して建つドラード和世陀

キャンパスの外にも、早稲田らしさを感じさせる建物があります。その一つが早稲田奉仕園スコットホール(1921年完成)ではないでしょうか。戸山キャンパスのすぐ近くにあるこの建物は、米国出身の著名な建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964年、同志社大学や関西学院大学などを設計)が設計原案を示し、内藤多仲が施工管理を、今井兼次が設計したものです。

礼拝堂として建てられましたが、建物や空間に宿る理念が早稲田大学の建築に継承されているものに似ていると思います。それは、そこに集う人が希望を持ち、成長することを応援しているということ。建物ではなく、人間が主役であるというヒューマニズム。見過ごされがちな個人の目線を尊重する優しさが、濃厚に感じられます。

ここで見てきたように、早稲田大学のキャンパスの内外には、人間味にあふれた建築が数多くあります。この街だからこそ、「ドラード和世陀」のように型にはまらない建築や、異質であることを恐れないユニークな人々が生まれるのかもしれませんね。

【次回特集予告】10月16日(月)公開「創立記念特集」

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