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さよなら記念会堂 文キャンいまむかし

1957年に竣工し、式典の場や体育館としてその役目を全うした記念会堂(戸山キャンパス37号館)が、今年8月、建て替えのために取り壊しとなります。この機会に、“文キャン”の愛称で知られる戸山キャンパスの歴史に思いをはせてみませんか。

写真で見る文キャンの変遷

監修:文学学術院准教授 真辺 将之(まなべ まさゆき)

早稲田大学大学院文学研究科史学専攻修士課程修了。専門は日本近現代史・早稲田大学史。

▲【~1957】戦前高等学院の校庭には野鳥、周辺の戸山ヶ原には猿の群れが見られました

【~1957】文キャン前史

現在戸山キャンパスがある土地は、江戸時代には「戸山ヶ原」と呼ばれる一帯で、尾張徳川家の下屋敷がありました。1908年に大学が銀行を通じて個人からその一部を購入。1920年に旧制早稲田大学第一高等学院の木造校舎が建てられ、陸軍省より借り受けた南側の隣接地には、広大な運動場が設置されました。沢ガニがいる川が流れ、キジや山バトが住む自然豊かな場所でした。

▲【1957】建設中の記念会堂。アーチ状の構造が見て取れます

【1957】記念会堂竣工

創立当初、大学の集会は敷地内の校庭に大テントを張って行われていました。1927年には大隈講堂が落成。式典の場として利用されましたが、学生が一堂に会するには広さが不十分なため、入学式や卒業式が分割で行われるようになってしまいました。大濱 信泉(おおはま のぶもと)第7代総長が一大施設建設に踏み切り、1957年、創立75周年記念事業として1万人収容可能な記念会堂が誕生したのです。

▲【1962】「国連ビル」と呼ばれた当時の33号館

【1962】文学部キャンパス完成

かつて文学部は現在の8号館の場所にありましたが、戦後に急増した学生を収容するには狭く、1962年、創立80周年記念事業の一環として、高等学院を移転させた跡地に文学部校舎が新築されました。設計者の村野藤吾(1918年理工学部卒業)はその建築について、「学校は永久に残ります、だから長くあきられないような建物というのが私の念願だった」と語っています。

【2015~】進化を続ける文キャン

創立当時の校地全体は、記念会堂程度の広さだったといいますが、時代の変遷とともに、早稲田大学は大きな発展を遂げてきました。歴史ある記念会堂が、屋上庭園や学習スペースなども併設した多機能型スポーツアリーナとして新たな姿を見せるのは2019年3月(予定)。これからも早稲田大学は、教育・研究の飛躍の場として進化を続けていきます。

▼記念会堂名シーン

1958年第3回アジア競技大会では卓球の会場に、また1964年の東京オリンピックではフェンシングの公式会場として使用されました。また、大学スポーツの主要会場として、これまで多くの熱戦の舞台となりました。

▼記念会堂を訪れた有名人

1962年5月に、人類史上初めて宇宙空間へ出て「地球は青かった」の名言を残した人物、ユーリイ・ガガーリン(当時28歳)が「宇宙旅行の準備を!」と題した講演を行い、記念会堂は約1万4,000人の学生の熱気に包まれました。

早稲田に暮らして60年 校友・櫻井 一郎(さくらい いちろう)氏に聞く

▲櫻井 一郎 1971年、政治経済学部卒業。NPO法人団塊のノーブレス・オブリージュ理事長・早稲田大学周辺商店連合会特別顧問・早稲田大学校友会代議員。小学3年生から現在に至るまで早稲田在住。

記念会堂の名付け親との思い出

私の父は戦前、東京都・市谷にあった陸軍士官学校に通っていました。学校が休みのときには、理工学部の学生だった伯父(父の兄)に会いに、早稲田の街へよく来ていたそうです。その後、“零戦(ぜろせん)”を製造していた「中島飛行機」の技師になった伯父は戦死。戦後私が小学校3年生のときに、父は兄との思い出の地である早稲田のグランド坂下で、学生や教職員向けの定食屋兼居酒屋を開業しました。私はそれ以来、ずっと早稲田で暮らしています。子どものころには、記念会堂を命名した沖縄県石垣島出身の大濱信泉第7代総長が店にいらして、座敷で三線(さんしん)を弾きながら歌っていたのを思い出します。私もよく相手をしていただきました。

早稲田大学に入学したのは、「早大闘争」と呼ばれる学生運動が激しかったころ。1年間大学の授業がなかったので、雀荘に行ったり、友人と遊んだりしていました。そのころ、高田牧舎の裏に「茶房早稲田文庫」という店があり、熱い情熱を持った学生が集まっていました。作家の寺山修司さんや「早稲田小劇場」の演劇人、鈴木忠志さん、女優の吉永小百合さんなども常連でした。授業はなかったけれど、周囲で繰り広げられる学生たちのいっぱしの議論を聞きながら、さまざまな知識や教養を身に付けたのです。毎日が楽しくて仕方なかったですね。

▲「早大闘争」で学生と機動隊が衝突。占拠され、学内に入れなかった1966年ごろの大隈講堂周辺

記念会堂に染み込む青春の汗と涙

学生運動が落ち着いた後は、授業が再開されました。体育が必修だったので、文キャンには週1回は必ず訪れていました。高石記念プールが、まだ屋外にあったんですよ。また、高校からバスケットボールをしていたので、大学4年次にはバスケットボール部女子部のコーチを頼まれ、記念会堂には毎日のように行っていました。当時の記念会堂はいつも臭かったような気がします(笑)。青春の臭いですね。記念会堂には、学生のたくさんの汗と涙が染み込んでいるのでしょう。

▲大学3年次の櫻井さん(右端)、家族旅行で撮影。バスケットボールに夢中だった

当時は都電が都内各所へ通じていました。都電を使い、大隈通りを通って東門から入ってくる学生が圧倒的に多く、大隈通り商店街が大変にぎわっていました。時代に合わせて、街の様子も変わりますね。

そのころの授業は2限が午前11時半に終わり、3限が午後1時からで昼休みが90分。昼時、大学周辺の商店はどこも学生であふれていました。昼休みの長さは、学生生活に大きく影響すると思います。今の学生は昼食もコンビニなどで買ったものが多く、街に出ないので店の人との会話も減りましたね。私たちの時代と比べると、今の学生はたくさん勉強をしないといけないし、加えて課外活動やアルバイトなどもあり、自由な時間が少ない印象です。忙し過ぎて、幅広い教養を得るための時間が足りていないように思います。大学生の間はぜひ、自分の専門だけでなく幅広い領域を大いに学んで、視野の広い人間になってほしいですね。

「さよなら記念会堂イベント」に行こう!

現在の記念会堂解体前に、「さよなら記念会堂イベント」と銘打った、スポーツ・学生団体によるイベントが開催されます。入学式や「早稲田祭」などたくさんの思い出が残る記念会堂を惜しみつつ、このスペシャルな催しを楽しみましょう。イベント詳細は、次号・第1373号「Information」をご覧ください。

7月19日(日)バドミントン部メモリアルゲーム
8月2日(日)学生部学生生活課、放送研究会、広告研究会によるイベント
記念会堂
予約不要
無料
学生生活課
http://www.waseda.jp/student/circle/sayonara37

参考図書:『早稲田大学百年史』(早稲田大学百年史編集所編)・『早稲田大学小史』(島善高著)・『エピソード早稲田大学125話』(奥島孝康/木村時夫監修)(全て早稲田大学出版部発行)・『早稲田小辞典』(落合東朗著・論創社発行)・『早稲田百年』(早稲田大学印刷所発行)
写真:毎日新聞社/アフロ
写真提供:MURANO design

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