江戸から現代にかけての墓と家族の関わり
人間科学学術院 教授 谷川 章雄(たにがわ・あきお)
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。同大学院文学研究科史学(考古学)専攻博士後期課程満期退学。同教育学部助手、同所沢校地文化財調査室助手、同人間科学部専任講師、助教授を経て現職。博士(人間科学)。専門は近世考古学。1980年代から近世都市江戸の遺跡の発掘調査に従事する。
家意識と墓には大きな関連性があり、歴史の流れとともに大きく変化していった。過去・現在の墓と家族の関係から、社会の在り方を探る。
江戸時代の墓の様相
江戸時代の墓は、中世社会から近世社会への移行に伴う宗教的、社会的、政治的変化を背景に成立し、さらに近世社会の中で発展した。この時期は、わが国の墓制史上、大きな画期に当たっていた。
江戸時代の墓の様相の概略は次のようである。葬法は基本的に火葬から土葬へ転換し、遺体を座った姿勢で葬る座棺が普及した。すなわち、早桶・方形木棺など座棺の土葬の墓が広がっていったのである。
16世紀後半から17世紀前半は、多くの近世寺院が成立した時期でもあった。こうした近世寺院がその後の檀家制度につながっていく。また、17世紀には近世墓標すなわち墓石が出現し、18世紀になると普及した。死者の戒名や没年月日を刻んだ近世墓標の造立の背景には、仏教の土着化があったと考えられている。近世寺院は近世墓標の普及と密接に関係していたのである。
江戸時代の墓には、被葬者の身分や階層が反映していた。18世紀ごろから、江戸では将軍から庶民まで墓標や埋葬施設の構造が差別化され、村落では墓標に階層性が見られるようになる。
18世紀に墓の副葬品に個人の持ち物が含まれるのも、江戸時代の墓の様相の一つであった。これは個人意識の反映であり、江戸などの都市において顕著であったと考えられる。
江戸時代の墓と家族、家意識
墓と家族の関係は、江戸時代の墓の様相の中でも重要なものであった。ここでは、千葉県市原市高滝・養老地区の近世墓標の調査成果を通して、家意識の中にあった墓と家族の関係を見てみよう。
18世紀ごろから家を強く意識し始めたことを背景として、各家で墓標を造立することが広がり、「板碑形」「舟形」墓標に代わって「?形」墓標が盛行するようになった。この時期に院号居士・大姉など上位の戒名を持てない家では夫婦、兄弟姉妹、親子など家族をまとめて1基の墓標にまつることが多くなる。これは単なる経済的な理由にとどまらず、むしろ強い家意識の現れと考えられる。
一方、院号居士・大姉などの戒名を持つ家では、18世紀初頭ごろから家族が個人の墓標を造立することの方が一般的であった。言い換えれば、こうした墓標のあり方が家の格式の表徴であって、墓標の高さや形態の上での「笠塔婆」墓標も同様に認識されていた。「?形」「角柱形」墓標が盛行する中で墓標が大型化していくことも、上述のような家意識を背景としていたのである。
「?形」墓標が主流となる享保年間(1716 ~ 1735年)以降は、戒名の格式が確立し、定着していく時期でもあった。新たに院号居士・大姉、居士・大姉、信士・信女、禅定門・禅定尼などの戒名の格式が生まれ、家の格式の一方の表徴となっていく。そして、同じ頃、童子・童女などの子どもの戒名が広がるのは、家の維持、永続の願いから家族の中で子どもへの関心が高まっていったことの現れであるように思われる。すなわち、家に対する意識の高揚が墓標や戒名の格式を受容する上での観念的母胎となり、家を単位とする死者供養はそうした家意識と深く結び付いていた。
このような家意識の中に包摂された江戸時代の墓と家族の関係は、18世紀代に広がったのである。
現代の墓と家族
現在私たちがよく目にする「〇〇家之墓」という墓標は、近代になって創出されたものであるが、その原型になったのは先に述べたような江戸時代の家意識を背景にした墓であった。
しかしながら、現代の墓をめぐる問題は、孤独死などの「無縁化」、樹木葬・散骨などの「個人化」「流動化」といわれる状況に直面しており、葬儀の在り方も家族葬や葬儀を行わない直葬が多く見られるようになっている。このことは、端的に言えば、墓を支えてきた江戸時代以来の家の「崩壊」に起因するものであるが、換言すれば、現代が墓と家族やそれを取り巻く社会の在り方を考える段階にあることを示しているのである。
(『新鐘』No.84掲載記事より)
※本書の記事の内容、登場する教員の職位などは取材当時(2017年度)のものです。