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法・岩志教授 婚姻や家族に関する憲法24条が持つ特別な意義

〈民事法学〉憲法と家族 法学的観点から見る“家族”

法学学術院 教授 岩志 和一郎(いわし・わいちろう)

早稲田大学法学部卒業、同大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は民法、医事法。共著・編著書に『親族法・相続法』(尚学社、2000年)、『家族法実務講義』(有斐閣、2013年)、『家族と法の地平』(尚学社、2009年)、『フォーラム医事法学』(尚学社、1998年)、『高齢者の法律相談』(有斐閣、2004年)など。

近時、最高裁判所で家族に関する民法規定の憲法判断が相次いだことをきっかけに、あらためて憲法と家族の関係が注目されてきている。

憲法の家族条項

憲法は、基本的人権について定める第3章の中で、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」(第24条1項)、また、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」(同条2項)と定めている。この規定は、婚姻および家族の形成ならびに生活展開の自由、さらに婚姻、家族生活における両性の平等を定めるとともに、家族に関する規律を立法者に委ねるものと解される。この規定については、憲法中に、一般的に、個人の尊厳、幸福追求権について定める13条、法の下の平等について定める14条が存在するのだから、あえて婚姻や家族に特化した規定を置く必要はなかったという声もある。また世界的に見ても、婚姻や家族に関する条項は憲法に必須のものというわけではない。しかし、わが国においては、この24条の存在には、特別の意義がある。

わが国で、家族の基本的要素である夫婦や親子という身分関係の変動や効果について定める基本法は、民法典親族編、相続編である。これら両編の規定は1898(明治31)年に制定、施行されたが、そこでは、個人の自由や平等よりも、祖先祭祀(さいし)の共同体と観念される「家」の存続を優先する、いわゆる「家」制度が柱に据えられていた。そのような規定内容は、当時において、必ずしもわが国一般の婚姻や家族の実態に合致していたとは言えなかったといわれるが、その強行的な効力によって次第に国民の間に浸透し、万世一系の天皇制という観念を柱とした大日本帝国憲法(1887年制定)の下での国家体制を支える大きな役割を果たした。家族制度が、国家統治のイデオロギーと結び付き、政治的な意味を有したのである。

第2次世界大戦後、憲法中に24条が置かれるまでの経緯については、従来種々研究されてきているところに譲るが、その経緯いかんにかかわらず、同条が、「家」制度のような家族制度が基本的人権の尊重をうたう現行憲法の理念に反することを示す宣言であることは確かなことであり、立法や行政、そして司法を拘束する基本的な価値判断基準として機能を果たしてきたことは大きく評価されるべきである。しかし、現行憲法が制定され、その下で民法典親族、相続両編が全面改正されてから70年が過ぎた今日、社会の家族観が変化し、また個人のライフスタイルが多様化する中で、この24条の意味を問い直そうとする動きも出てきている。

憲法24条の問い直しの動き

その動きの方向には、二つの異なる流れがあるように思われる。一つは、家族の絆が薄くなってきているという認識の上に、家族の一体性を強化する方向に持っていこうとする流れであり、そこでは家族に助け合い、家庭教育の責任などを求めようとしている。もう一つは、「婚姻」や「家族」という限定的な概念を用いることは、共同生活の形成や展開に限界を生じさせてしまうのではないかと危惧する流れであり、そこでは、同性婚の許容や、代理母関係などを利用した家族形成の自由の幅の拡張が視野に入れられている。

このうち前者については、ある意味すでに解決済みである。民法に、「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」という規定(730条)があるが、この義務については、立法者により、強制力はなく、道徳的な意味しかないとの説明がなされている。これを「家族」という用語を用いて憲法に掲げたとしても、道徳的な要請という異質な義務を憲法に導入するだけであり、さらに「家族」の範囲などという不毛な議論がなされなければならなくなる恐れもある。

後者については、憲法改正うんぬんを言う前に、憲法制定時には予想もできなかった新しい事象を、憲法解釈の中でどこまで取り入れていくことができるかという問題であろう。「家族」という概念はもともと開放的なものであり、解釈の懐は深くなるであろうが、「婚姻」については、24条1項の「両性の合意のみ」という部分をどう解釈するかによるであろう。個人的には、「合意のみ」という部分にこそ自由権としての本質的な意義があるのであり、「合意」の当事者についてはその典型例として「両性の」と記しているにすぎない、と解釈することで解決できるのではないかと思っているが、どうであろうか。

(『新鐘』No.84掲載記事より)
※記事の内容、教員の職位などは取材当時(2017年度)のものです。

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