時代をさかのぼり、教育行政官にふさわしい専門性をひもとく
大学院文学研究科 博士課程 3年
松谷 昇蔵(まつたに・しょうぞう)
現在、私は文学研究科の日本史学コースで日本近代史を勉強しています。研究対象は、明治中期(1885~1890年代)の文部省(現在の文部科学省)の行政官。「教育行政(※)を担う人物はどのような人物であるべきとされたのか」を考察しています。
※政府が設定した教育に関する目標を実現する活動。教育行政は、国、都道府県、市町村がそれぞれ役割を分担して実施される。
一般的に、組織を形成する上では、「このポストは、このような人が担うべきである」という前提の上で人事がなされます。しかし、実際それを厳密に定義していくのはなかなか難しい。仮に「そのポストに関する専門性が高い人に限る」という意見があるとしても、「そもそも専門性って何?」という話になります。専門の学部を卒業したことなのでしょうか? はたまたその分野での実践経験があることなのでしょうか?
「この人は◯◯の専門性が高い」といった場合でも、それは結局のところ誰かの主観に過ぎません。すなわち、専門性とは“どこからが素人で、どこまでが専門”と、客観的に指標化しにくいものなのです。
この専門性という問題を考えていく上で、教育行政官はとてもいい研究対象となります。なぜならば、教育行政とは“教育”と“行政”の二つの要素があるからです。官僚のリクルート制度が成立して、大学で法学を学んだ官僚が文部省に入ってきた明治中期に、教育行政官の適正は、“教育”のことをよく知っている人(学校長、学校教諭、教育思想家、哲学者など)なのか、それとも中央・地方の官庁のことを熟知した行政官なのか、という議論がありました。この時期は教育問題を取り扱う雑誌を中心に、こうした議論が頻繁に提起されています。もちろん、雑誌の見方は一つの“主観”にすぎませんが、それらを通して当時の教育行政官の専門性についての議論と、性格の実態を考察しています。現在と異なり、官僚のリクルートシステムが完全に固まってしまう前だからこその議論で、そこに物事を歴史的に研究することの意義があると思います。
また、現在の教育行政の制度も、実は明治期以降の教育行政官の性格が関わっています。なぜならば、教育委員会制度の理念などは戦前日本の官僚制や行政官の性格の反省を踏まえて作られ、そこでは教育行政を担うべきは誰か? ということも議論の中心にあったからです(戦後の教育行政制度については、昨今も教育行政学の領域で素晴らしい研究が蓄積されつつあります)。絶えず現状に留意しつつ、近代史の研究を進めていく…。それが私の研究です。
歴史研究をしていてうれしかったのは、貴重な史料を発見したときのこと。写真はある文部官僚が1884(明治17)年に熊本・大分の学校を視察しているときの日誌なのですが、当時の教育現場の様子がリアルに書かれていて、これを偶然見つけたときは、時空を超えたようで、驚きのあまり「おおお!! 」という言葉しか発せませんでした。歴史研究の醍醐味(だいごみ)ですね。
※この日誌についての詳細は『古文書研究』第82号をご覧ください。
【ある日のタイムスケジュール】
- 8:00 起床、朝食(濃いめのコーヒー)
- 9:00 カフェ(コーヒーorカフェラテ)などで授業準備、書類整理、研究、メールチェックなど
- 12:00 勤め先の高校へ登校
- 13:40 授業
- 16:30 高校から下校
- 18:30 大学へ登校、夕食、研究(論文執筆や文献講読など)
- 22:00 下校、カフェへ(夜なので、カフェインの入っていないココア。読み残した論文などをじっくり読んで、1日の「仕上げ」をします)
- 25:00 就寝