早稲田大学大学院修了直後に仲間とデザイン会社「nendo(ネンド)」を立ち上げ、デザイナーとして活躍する佐藤オオキさん。常時、約400もの案件を同時進行させておりその半分以上が海外からの依頼だという。世界から注目される理由はどこにあるのか。仕事観や人生観について語ってもらった。
デザインオフィスnendo代表/チーフデザイナー 佐藤 オオキ(さとう・おおき)
1977年カナダ生まれ。早稲田大学高等学院、理工学部建築学科卒業、2002年早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修了。同年、デザイン事務所「nendo」立ち上げ。クライアントに、エルメスやタグ・ホイヤー、スターバックスほか。プロダクトからファッション、空間、グラフィックまで幅広い分野で活躍。最近では、NHKのドラマ『運命に、似た恋』の監修や、早稲田ラグビー蹴球部のユニフォームのデザインを行っている。英デザインウェブマガジン「dezeen」の2016年プロダクトデザイナー部門で1位に選出されるなど、受賞歴多数。
早稲田の放任主義がマッチした。
――早稲田大学ではどのような学生時代を送っていましたか?
僕はとにかくふわふわした学生でした。2年生の時点で必要な単位はほとんど取れていたので、学生ながら個人で商社を経営したり、似顔絵を描くのが好きで『笑っていいとも』(『森田一義アワー 笑っていいとも』フジテレビ系列1982年10月~2014年3月放送)に出たり(笑)、好き勝手やっていましたね。
かといって怒られるわけでもない。早稲田は、一貫して放任主義でした。例えるなら、囲いのない牧場のよう。大量の羊を放って、一匹くらい森に行ってしまっても「いずれ帰ってくればいいか」という寛容さがありました。その分、自分で道を切り開かないといけません。ぼーっとしていたら何も得られない。予定調和じゃないからこそ、突発的にユニークな人材が生まれるのだと思います。
僕にはこの環境がすごくマッチしました。ちなみに今でも、「こうなりたい」とか「こうすべき」といった具合に、思考を固定化することはあまりしません。常にグレーゾーンという感覚でしょうか。そういうフラットな生き方は、大学の頃に下地が出来上がった気がします。
――デザイナーになったきっかけは何だったのですか?
友達(今も一緒にnendoをやっている後輩)に誘われて卒業旅行でイタリアに行った時、開催されていた国際家具見本市の「ミラノサローネ」をふらっと訪れて、デザインの魅力に一気に引き込まれました。プロダクトデザイナーがアパレルを手がけたり、グラフィックデザイナーが車のインテリアをつくったり、すごく自由な空気を感じたんです。「型にはまらないものづくりができそう」。そんな話で仲間たちと盛り上がり、みんなでnendoを立ち上げることにしました。
本当は日本から出たくない。
――最初から、グローバルに仕事をしたいと考えていたのでしょうか?
今も昔も「グローバル」を意識したことはないですね。僕は11歳までカナダで暮らしていたのですが、その頃に読んでいたマンガの影響で日本に対して強い憧れがありました。実際、帰国して「『ドラえもん』に登場する学習机やブロック塀って、本当にあるんだ!」と、見るもの、聞くものすべてが新鮮で、わくわくしながら毎日を過ごしていました。大人になってからも、あまりに日本の居心地がいいので、積極的に海外に出たいとは考えていませんでした。
でも、nendoを立ち上げた直後に出品したデザインコンペで賞をとり、憧れだった「ミラノサローネ」に出展するチャンスをもらう中で、自然と日本からも海外からも仕事が舞い込むようになりました。それに応じていくうちに、気付いたら、1年間で世界を4周以上するくらいの生活を送っていたという感じです。
「プロテカ 360 スリーシックスティ」 上下左右、どこからでも開けられるスーツケース。「2015年度グッドデザイン賞」受賞(写真:吉田 明広)
――海外で仕事をするときと日本で仕事をするときで、何か違いはありますか?
仕事をする上でこの国はやりやすい、やりづらいといった意識はないですね。もちろん、地域ごとに文化や経済状況は違うので、それらを頭に置くことはあっても、「相手の期待に応えたい」という思いは、いつどんなときも変わりません。
「日本人としてここは譲れない」とか、「あの国はこういう文化・習慣だから、それに合わせないといけない」とか、型にはまると余計なストレスを抱えることになります。
現に、雑なドイツ人や真面目なイタリア人、背の低いオランダ人というような、ステレオタイプとは正反対の人々ってたくさんいます(笑)。そんな世界で仕事をするなら、肩の力を抜くことが大切だと思っています。
>> 後編へ続く(4月14日掲載予定)
(『新鐘』No.83掲載記事より)
※記事の内容は取材当時(2016年)のものです。