Waseda Weekly早稲田ウィークリー

早稲田の学問

【特別講義】現代を生きる私たちとライフサイエンス

世界は国を挙げてライフサイエンスの分野に取り組んでいます。なぜ今、ライフサイエンスなのか。梅津光生理工学術院教授による特別講義を通じて考察します。

未来への鍵はレギュラトリー・サイエンス

理工学術院 教授 梅津 光生(うめづ・みつお)

早稲田大学理工学部卒業、79年同大学院理工学研究科博士課程満期退学。工学博士、医学博士。2008年より早稲田大学先端生命医科学センター(TWIns) センター長。専門は生体医工学、機械工学。

20世紀、急速な進歩を遂げた科学技術は、私たちの生活を大きく変えました。中でも、遺伝子の塩基配列を解読するDNAシークエンス、遺伝子組み換え技術、DNAの一部を増幅するPCR法(注1)が確立された1970〜80年代からは、生命現象の解明が本格的にスタートします。

※注1 ポリメラーゼ連鎖反応。DNAの断片のコピーをつくる技術

そして、「生命の世紀」といわれる21世紀。生物学や医学、薬学、工学、物理学、農学など、異なる学術分野の融合や境界領域の探索が進み、新しい医療技術や医薬品の開発といった成果が次々と報告されています。

今日は、早稲田大学における最先端の研究を紹介しながら、日本のライフサイエンスに関する取り組みの現状と今後の課題を概観してみます。そのうえで、ライフサイエンス分野の技術は社会や人間の在り方にどう関わっていくべきか、皆さんに問いたいと思います。

今後の医療や経済の発展に必要とされる研究

いつの時代も、健康的に年を重ねられる環境が望まれることはいうまでもありません。しかし今、少子高齢化が進み、医療費の増加が財政の大きな負担となっています。高齢者本人の幸せはもとより、社会全体のさまざまな負担を軽減するためにも、予防・早期診断による健康寿命(注2)の引き上げや、高齢化に伴う認知症・パーキンソン病といった疾患の発症機構の解明が待たれます。

※注2 介護を必要とせず、自立した生活を送ることができる期間

そうした中、次世代シークエンサーを用いた網羅的なゲノム解析により、新たながんの原因遺伝子が明らかになるなど、先端医療分野の研究は確実に進んでいます。

他方、日本経済が低迷している中で、科学技術による新規産業の振興への期待が高まっています。例えば、ここ数年の技術革新で、ゲノム解析の技術は高速化するとともに、コストを抑えることにも成功しました。さらに新世代のさまざまなバイオ医薬品や再生医療技術の実用化、微生物や植物機能を活用したモノづくり技術の開発、廃棄物処理の効率化など、ライフサイエンス分野の研究成果を産業化しようという取り組みが、各業界で始まっています。

ライフサイエンス研究の実用化に向けた課題

ライフサイエンス分野の研究成果を産業へと展開するには、医療分野における先端研究をいち早く臨床応用と結びつける体制が不可欠です。しかしながら、日本ではこの体制の確立が先進各国と比べて著しく遅れているといわざるを得ません。あるデータによれば、基礎および臨床分野における世界の主要な3つの専門誌に掲載された日本の基礎医学研究の論文数は、アメリカ、ドイツに次ぐ世界3位です。これに対して、臨床研究の論文数は20位前後とたいへん少ない。

こうした背景には、ライフサイエンス部分に多額の研究費が投入されているものの、目に見える成果が早く求められるために、長時間の臨床応用の観察などの論文は、どうしても多くは掲載されにくい、という面があると思われます。また、ライフサイエンスは国民の健康や環境問題と深く関わっているため、一つの失敗がその分野全体の信用を失わせることになります。

さかのぼれば、水俣病や四日市ぜんそくなどの公害、遺伝子組み換え農作物の是非も大きな論争になりました。また、医学の分野では薬害肝炎と薬害エイズ、医療機器の分野では内視鏡手術や人工心肺装置の不具合などが問題化したことを覚えている人もいるでしょう。

一ついえるのは、新規の科学技術に対しては、誰も100%の安全を保証することなどできないということ。たとえ問題が発生したとしても、それだけで関連技術全てを否定的に見るのではなく、各人がどのような社会や生き方を望むか考え、冷静に判断することが大切です。こうすることで、ライフサイエンスに限らず科学技術の実用化を妨げる社会の偏見を解消し、産官学の協力を阻む壁を一つ越えることができると思います。

〈課題〉生命倫理とは何か?

もし、あなたが重症心不全(注3)になったとしたら、『心筋シート』『人工心臓』『心移植』のうち、どの治療法を選択しますか? いずれの治療法も、5年間の安全が保証されていると仮定します。

※注3 重篤な拡張型心筋症や心筋梗塞に代表される、従来の治療法では救命ないし延命に難渋する疾患

A 心筋シート

自己の細胞から培養したシート状の細胞組織を患部に移植し、心臓のポンプ機能の改善を目指す治療。心筋シートの提案者で、TWInsに所属する東京女子医科大学の岡野光夫教授の研究グループが行ったラットへの植え込み実験では、心筋シートの自律的な拍動が確認された。また、大阪大学では、筋芽細胞で作った細胞シートを補助人工心臓でも心機能の回復が見られなかった患者の心筋に貼り付けたところ、その後心筋壁の厚みが増加し、心機能が回復。補助人工心臓も不要となるほど回復し、歩いて退院した例がある。しかし、まだ臨床例が少なく、法整備を進めているところである。

B 人工心臓

著しくポンプ機能の低下した心臓に対して、血液循環の代行または補助を行うための人工のポンプ。患者の心臓と並列に取り付ける補助人工心臓が一般的。早稲田大学と東京女子医科大学とが共同で研究を進めてきた、植込み型補助人工心臓「EVAHEART」は、2005年に患者の体内に埋め込む手術に成功。心臓外科医の山崎健二(現東京女子医科大学教授)氏のアイデアをもとに、ベンチャー企業や梅津教授をはじめとするエンジニアが一体となり、一定の回転数を持ちながらも拍動するポンプの仕組みなど、新たな技術が実用化された。バッテリーとコントローラーを持ち運ぶ必要はあるが、退院、社会復帰を可能として現在120例の臨床例がある。

C 心移植

脳死状態にある提供者から摘出した心臓(ドナー)を、心疾患の患者に移植する治療法。1968年に行われた日本で最初の心移植では、患者が手術の3カ月後に亡くなったこと、提供者の脳死判定に関して、後に大きな問題となった。しかし、免疫抑制剤などの普及で、2012年のデータでは日本国内における心移植の1年生存・生着率は96.6%、5年生存・生着率は94.0%で、世界的にも高い成功率と安定した経過がみられる。一方、人口100万人当たりの年間心臓提供者は、2009年のデータで約0.3人。オーストリアの8.6人や、アメリカの7.3人とは明らかな差があり、それだけ日本では移植までの待ち時間が長くかかっている。

ライフサイエンス研究が広げる生き方の選択肢

上記の課題は、結論からいえば、3つの選択肢全てが正解です。この課題を通じて考えてもらいたかったのは、「あなたが何を望み、それが満たされることは何を意味するのか」ということ。皆さんも治療法を選ぶにあたって、技術に対する期待や懸念を頭の中に列挙しただけではなく、多かれ少なかれ「どう生きたいか」が脳裏に浮かんだと思います。

例えば、あなたが心移植を受けるということは、他の患者さんが脳死状態に陥ったことを意味します。他人の死を待つことに対して自問自答した人や、他人の臓器によって生かされている感覚を持った人もいるのではないでしょうか。また、人工心臓を選択肢から外した人の中には、体の中の異物を想像して抵抗を感じた人がいたかもしれません。

苦しみから解放されたい、それはどの患者さんも同じはずです。しかし、望む生き方は人それぞれであって、そのときの選択肢は多ければ多いほど良いと、私は考えています。

さらなる発展を導くレギュラトリー・サイエンス

国民と社会、行政と産業界、大学と企業の発展的関係においてカギとなるのが、「レギュラトリー・サイエンス」です。その定義は「根拠に基づく的確な予測、評価、判断を行い、科学技術の成果を人と社会との調和の上で最も望ましい姿に調整するための科学」。いい換えれば、ライフサイエンスの研究を進める上での必要なルールをつくる科学ともいえるでしょう。

そのルールづくりには、例えば、科学技術の成果を正確に評価したり、伝えたりするためのジャーナリズムの力が欠かせません。同様に、法整備を進めるには法学、国策として提案するには政治学、コストと利益の算定や判断は経済学といったように、研究分野を超えたさまざまな英知を結集する必要があります。

これを体現しているのが、2010年に開設された日本初の共同大学院「共同先端生命医科学専攻」(注4)です。医学や薬学、工学、理学などの出身者だけでなく、経営学、畜産学、獣医学といったさまざまなバックグラウンドを持つ学生が産官学から集まっています。彼らは医療レギュラトリー・サイエンスを中心に学び、先端医療機器、医薬品や再生医療の各分野の日米欧の認可のプロセス、法律の比較のテーマなどで博士号の取得に挑戦しています。

※注4 東京女子医科大学と早稲田大学により設立された共同大学院で、医療レギュラトリー・サイエンスを扱う専攻。

ライフサイエンスは、人間を中心とする研究領域であるだけに、社会から広く理解を得つつ研究開発を進めることが今後ますます重要になってくるでしょう。研究者・行政側は、リスク・便益両面について分かりやすい言葉で説明する責任があります。一方、受け手の側には意思の疎通を図る姿勢と能力が求められます。

皆さんも、それぞれが今携わっている研究を深めていく中で識見を高め、ライフサイエンスの未来に貢献してください。

〈感想〉講義を聞いて感じたこと

創造理工学部3 年 程塚 悠

現在学んでいるのは機械工学なのですが、レギュラトリー・サイエンスの話を聞いて、この分野においても、法学、経済学など別領域も含めた総合的な開発環境の整備が必要なのではないかと感じました。

スポーツ科学部4 年 樋口 貴登

スポーツ科学部でスポーツビジネスを学んでいるので、人工心臓などの技術と日常的には関わりません。しかし、命もビジネスも同じ土俵で考え、融合を図る必要があると思いました。

創造理工学部3 年 隼田 大輝

人間と共生できる・暮らしに役立つモノづくりが必要で、技術が優れているだけでは世に出せないことが、今日の講義で分かりました。これはライフサイエンスだけでなく、科学技術開発全般にいえることですね。

創造理工学部3 年 藤本 篤人

機械工学科でロボットの目の機能を研究しています。ロボットも、さまざまな分野の知識を集めて初めてできあがります。一人ではできないのだと、今日の講義で改めて思い知らされました。社会的に意味のあるものを制作したいです。

法学部4 年 吉田 新

体外受精の場合の親権問題をはじめ、人の命や人生に介入しうる科学技術と法の関係性に関心があり、今日の講義で出てきた内容は興味深かったです。科学技術と法律などのハイブリッドな知識を持つ人材を育成することが必要ではないでしょうか。

文化構想学部3 年 米原 翔馬

文化構想学部で社会メディア論を研究しています。医療と社会との関わりの中で、メディアの果たす役割の大きさを知りました。メディアは双方向で情報を発信することが大切であり、リテラシーの向上に努める必要もあると感じました。

社会科学部4 年 長沼 智

社会科学部で地域研究やまちづくりを学んでいます。面白く感じたのは、医学や工学などが相互に関係していること。まちづくりも同じことで、政治や経済が別々に動いても前に進みません。非常に共感できる講義でした。

文化構想学部3 年 大木 香菜江

文化構想学部で哲学や倫理を学んでいます。学ぶ領域には生命倫理も含まれますが、実際の技術や映像に触れる機会は少ないため、貴重な時間でした。文系の授業でも、こうした実例を目にできたら、私たちもより実感を持って学べると思います。

政治経済学部3 年 広木 裕斗

政治経済学部で経済を学んでいますが、ライフサイエンスという分野に興味があって参加しました。人工心臓などの技術とは縁遠いと思っていましたが、レギュラトリー・サイエンスの考え方では、実はそこにも経済が関係しているかもしれないと知り驚きました。

先進理工学部3 年 千賀 功平

学者だけでは、研究成果を製品にするのは難しい。技術の発展を追い求めるあまり、倫理や法遵守を軽視することは許されない。異なる分野の人材が、推進力やブレーキになりながら協力するTWInsの取り組みは良いことだと感じました。

早稲田大学ライフサイエンスの研究拠点

早稲田大学には、日本のライフサイエンス分野を先導する研究拠点があり、日々研究が続けられています。革新的な取り組みで注目される、二つの施設を紹介しましょう。

TWIns

2008年、早稲田大学と東京女子医科大学が連携し、新たな研究教育拠点が誕生。両校の頭文字「T」「W」と、Institution(施設)の3文字を組み合わせ、双子という意味を持つ「TWIns」と名づけられた。この施設では、早稲田大学の理工学と東京女子医科大学の医学を融合させた研究が行われている。

1棟の中にいくつもの研究室が集まるTWInsでは、充実した研究設備はもちろん、コミュニケーションスペースも重要視されている。館内中央付近に設けられた共用空間や、複数研究室が使用するオープンラボなどでは、異なる大学・研究室に所属する学生同士が自然に交流できるようになっている。

医学と理工学が融合することで、治療困難な病気に対する戦略的アプローチや、病気にならない手法を確立する総合的な取り組みが可能となった。脳、遺伝子、幹細胞、がんなどの基礎研究を進めつつ、人工臓器、臓器移植、再生医療、医療用ロボット開発、遺伝子診断などの最先端の研究・開発が行われている。異なる分野の融合により生み出される研究成果に、社会からも大きな期待が寄せられている。

WABIOS

「WABIOS」は、早稲田バイオサイエンスシンガポール研究所の略称で、2009年、国際的なバイオメディカル分野(生体医療工学)の研究開発拠点であるシンガポールのバイオポリスに設立された。以来、日本の大学初の在外バイオ系研究所として、シンガポール国立大学、南洋理工大学、シンガポール科学技術研究庁などに所属する、世界各国の優秀な研究者と共同研究を行っている。

例えば、生物が生きた状態のまま、遺伝子やタンパク質などの分子の動きを可視化する「分子プローブ」の設計・開発をする研究グループがある。同グループでは、分子プローブを用いて、体内や、細胞の中の状態を詳細に調べ、正常な状態と病気の状態とを比べることで、新しい診断法の確立や治療薬の発見につなげることを目指している。

また、別のグループでは、薬を患部まで効率よく届けるためのナノバイオ材料の研究開発を行っている。目標は、診断と治療を融合させた次世代ナノ医療技術の創出。体内での薬の動きや効き目を確認しながらの治療を可能にするこの技術は、個別化医療に貢献するものとして注目されている。

(『新鐘』No.81掲載記事より)

※記事の内容、学生の所属・学年などは取材当時(2014年)のものです。

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