Waseda Weekly早稲田ウィークリー

早稲田の学問

ヨーガで考える心と体

 

IMGP0002

文学学術院 教授 岩田 孝(いわた・たかし)

早稲田大学理工学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。ハンブルク大学大学院(インド哲学・仏教学博士課程)卒業。Dr. Phil.(ハンブルク大学)。専門はインド思想、チベット仏教。

古代インドで生まれたヨーガの世界観。苦悩を除き、心を安定させるための知恵があふれている。

この世には、苦もあれば楽もある。苦楽に一喜一憂する心は揺れ動く。「心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い」と『法句経』に説かれるごとくである。古代のインド人がこの世界を捉える視点は厳しい。過去の善行により楽があり、悪行により苦がある、と知られているが、それは世間の人にとってのことである。道理を達観する智者にとっては、全ては苦である、というのである。

苦とは、思い通りにならないことである。思い通りにならないのは、貪り( 貪・とん)や怒り(瞋・しん)などの煩悩を有するからである。この貪や瞋などにはさらに深い煩悩が潜んでいる。それが無明(むみょう)である。無明とは、ものごとを如実に知らないことである。如実に知ることなく貪り怒る人の心は、揺れ動き、顛倒妄想(てんどうもうそう)に陥る。そのために苦が生じる。つまり、苦の原因とは、外的な要因ではなく、自己の内なる煩悩である、とインドの諸学匠は分析する。

人は誰でも苦しみを厭(いと)う。その苦は煩悩に由来する。この道理を知れば、その苦を除くために煩悩を抑制する、という考え方に向かうであろう。かくして煩悩の滅却のための方法が考究された。その方法がヨーガ(yoga)である。「ヨーガ」という語は、√yui(つなぐ)という動詞に由来する。荒馬に軛(くびき)をつけて車と結び付け、勝手な方向に行こうとする荒馬を手綱で制御する。そのように跳びまわる感官を制御することがヨーガである、という解釈もなされている。

ヨーガ学派の経典である『ヨーガ・スートラ』(5世紀頃編纂)では、「ヨーガとは心の作用を制止することである」と定義されている。「心の作用の制止」という語からは、妄想の断滅を思い浮かべるであろう。しかし、ヨーガでは、それのみならず、推論などの妥当な認識、言葉による表象なども制止の対象となる。たとい常識的なものであろうと、そうした作用がある限り、心の安定は得られない、と考えたのである。

心の安定は、「三昧(さんまい)」や「禅定(ぜんじょう)」といわれる。ヨーガ学派の三昧は、仏教の四禅定に影響を受けている。ここでは仏教の禅定の世界を見ることにしよう。四禅定では、心は次の作用のいずれかを伴っている。尋(じん)(粗雑な思考)・伺(し)(繊細な思考)・喜(憂の逆)・楽(苦の逆)・心一境性(一つの対象に心が定まること)という心的作用である。心がどの作用を伴うかに基づいて、禅定の段階が区別される。初禅にはこれら全てがある。第二禅になると尋伺なる思考がなくなる。第三禅では喜もなくなる。第四禅では、楽さえもなく心が一定の対象に定まるのみである。つまり、禅定の境地が高まるにつれ、順次に思考や快さが離脱する。この四禅定は、深い瞑想の境地ではあるが、身体的要素がまだ残っている境地である。その上には、物質的な要素のない(無色)境地がある。それは、何も存在しない境地や、思うこと(想)も思わないこと(非想)もない境地などであり、日常的経験とは異質の世界である。ただし、これらの境地も依然として輪廻の世界に含まれている。輪廻という有為の奥山を越えると、無為の世界(真の寂静の世界)が具現する。ここに到達するのは容易ではない。その彼岸を目指して、インドの諸学匠は瞑想を実践したのである。

 

(『新鐘』No.81掲載記事より)

※記事の内容、教員の職位などは取材当時(2014年)のものです。

Tags

早大生のための学生部公式Webマガジン『早稲田ウィークリー』。授業期間中の平日はほぼ毎日更新!活躍している早大生・卒業生の紹介やサークル・ワセメシ情報などを発信しています。

Page Top
WASEDA University

早稲田大学オフィシャルサイト(https://www.waseda.jp/inst/weekly/)は、以下のWebブラウザでご覧いただくことを推奨いたします。

推奨環境以外でのご利用や、推奨環境であっても設定によっては、ご利用できない場合や正しく表示されない場合がございます。より快適にご利用いただくため、お使いのブラウザを最新版に更新してご覧ください。

このままご覧いただく方は、「このまま進む」ボタンをクリックし、次ページに進んでください。

このまま進む

対応ブラウザについて

閉じる