早稲田びと


豊かな人間性と進取の精神で、自らの“みち”を切り開く「早稲田びと」を紹介します。

標高3,190mの山頂で、都市と自然を繋ぐ――百年の継承と社会への貢献を胸に

有限会社 穂高岳山荘 代表取締役

MEGUMI IMADA

今田恵 氏

2008年政治経済学部経済学科卒
北アルプス最高峰・奥穂高岳の稜線上に立つ「穂高岳山荘」の三代目代表。美しくも険しい登山者憧れの地で、大正14年創業の山荘を祖父、父から受け継ぎ、山の営みと登山者の安全を支えている。

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1925年から続く、穂高岳山荘の代表取締役に27歳の時、就任。早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、すぐに家業を継ぐことを決意した今田恵さん。現在は、早稲田大学社会科学部卒業の夫・公基さんとともに山荘の運営に尽力。山荘を拠点に、山と麓、都会を結ぶ役割を担っています。それぞれの暮らしがより豊かに発展していくため、地域経済の循環や、都市生活者が自然と向き合う接点づくりに取り組んでいます。

祖父の挑戦から始まった、私の物語

今田恵さんの人生は、幼少期から現在までつねに山と不可分の関係にありました。岐阜と長野の県境、標高日本第3位の奥穂高岳(3,190m)と涸沢岳(3,110m)の間に位置する穂高岳山荘は、今田さんの祖父・今田重太郎氏が1945年(大正14年)に建てたものです。山の案内人だった重太郎氏が、穂高で嵐に見舞われ岩小屋で一夜を過ごしたつらい経験を踏まえて、安全な登山の拠点として「穂高小屋」を設立。その後、今田さんの父・今田英雄氏が二代目となり、太陽光発電システムの開発など斬新なアイディアで山荘やその周辺を整備しながら、多くの登山客を迎えてきました。今田さんも、幼い頃から父と一緒に山を登って山荘へ行き、売店での接客などを通じて、山の魅力を身近に感じてきたと言います。

しかし、過酷な自然環境は、時に人命を奪う厳しさも秘めています。「遭難も起きる場所なので、命の危険にさらされる登山者の方を目の当たりにしたこともありました」と話す今田さん。山の魅力と自然の厳しさを同時に体感したことが、後の彼女の判断基準を形づくっていくのです。

東京での学びを求めて、早稲田へ

高校卒業を控えた頃、今田さんは岐阜を出る決断をしていました。
「父から山荘を継いでほしいと言われたことは一度もなかったのですが、私は一人娘なので、いずれ山荘を継ぐのかなと漠然と思っていました。地方に居続けるだけでは分からないこともあります。視野を広げるためにも、東京の大学で学んでみたいと考えたのです」。そして、選んだのが早稲田大学でした。高校時代に早稲田祭を訪問し、男女問わずいきいきとした雰囲気が自身の志向に合っていると感じたからです。

大学入学後は勉強にも励みながら、登山、スキーのサークル活動や早稲田祭の運営スタッフとしても精力的に活動しました。「早稲田の学生数は当時約5万人で、私が生まれ育った高山市の人口とほぼ同じ。多様なバックグラウンドを持っている個性豊かな仲間たちと関われたことは、人生においても、後の山荘運営においても、重要な経験となりました」

充実した大学時代を過ごしていた今田さんに、大きな転機が訪れたのは大学3年の時。就職活動の真っ最中に予期せぬ連絡があったのです。

人生の選択を迫る、一本の電話

小さい頃からMacに慣れ親しんでいたこともあり、アップルジャパン株式会社(現在のApple Japan)への就職を志望し、採用プロセスを順調に進んでいた今田さん。3次面接に臨むタイミングで父・英雄氏から電話がありました。
「大学卒業後はできれば山荘を継いでほしい」。

東京の企業で社会経験を積むことが、将来の山荘経営にきっと役立つと考えていた今田さんは迷ったと言います。しかし、父の健康不安が背景にあることを知らされ、考え抜いた挙句、大きく方向転換することを決断しました。

赤い屋根の山荘が、今田さんの本拠地【本人提供】

山荘を任されることになったとはいえ、すぐに山に籠もる日々が始まったわけではありません。麓にある事務所を拠点に、旅行会社への営業活動や広報活動などを行いながら、登山シーズンは山荘での業務にも従事します。この時期に、東京で働いていた公基さんと結婚し、生活は山荘と麓、首都圏を行き来するかたちになっていました。

「登山客の多くは都市で生活している方が多く、都市生活者のニーズを理解することは、実は山荘の運営にもとても重要です。この数年間は、都市の思考様式を深く学ぶ良い機会でした」

やがて第一子が生まれるタイミングで、公基さんも山荘経営に参加することとなり、家族揃って岐阜に移住します。今では力を合わせて山荘の運営に尽力する二人ですが、公基さんは結婚するまで本格的な登山はしたことがなかったのだそう。初めて穂高岳山荘を訪れた時のことをこう回想します。

「妻の実家が山荘を経営していることは、学生時代からなんとなく知っていました。ただ、結婚の挨拶をするために実際に山に登ってみて、想像していた『山荘』とはまったく違う世界だと実感しました。これまで山に登ったこともなく、登山道のどこに足を置けばいいのかも分からない状態で、ほぼ垂直とも思える岩場を登ることになった時には、本当に驚きましたね(笑)。ようやく辿り着いた山荘は、登山客で賑わっていて、気づけばそのまま手伝うことに。もう結婚の挨拶なんて頭の中から吹き飛ぶような感じでしたが、やっぱり山の上から見る風景はとても素晴らしかったです」

夫の公基さんと二人三脚の毎日

100年の歴史を胸に、継承と革新を見極めていきたい

幼少期からの経験、そして父・英雄氏からの直接指導を受けながら、今田さんは山荘の主人として運営に携わってきました。そして、祖父の代から築き上げてきた理念を受け継ぎながら、今の時代に合った山荘のあり方を追求し、継いでいくべきもの、改善すべきものを選別し変革していきます。

例えば、予約制の導入です。かつては一日で最大700人もの登山客が宿泊したというこの山荘では、「今日は何人が宿泊するのか」を知るために、登山道を行き交う人の数を山荘から双眼鏡で数えていました。客室からあふれて廊下で眠る登山客もいる光景を目の当たりにした公基さんは、これでは登山客の疲れを癒やすことは難しいのではないかと感じ、より質の高い滞在につながる形へ改善していくことを、恵さんに提案をしたと言います。

「山小屋には、登山客の安全を守るという考えから、宿泊を希望する登山客はすべて受け入れるという文化があるのですが、私には当たり前のことも、夫は普通じゃないと感じたのでしょう。良いアドバイスになりました。コロナ禍も転機となり、今では定員を210名程度に制限し、予約制としています。客室にはロールカーテンで間仕切りをして快適性を高めたり、クレジットカードを使えるようにしたりもしました。麓の事務所とリアルタイムに通信できるようにし、ウェブベースでの予約システム構築やレジシステムの整備など、時代に合わせた改善をして少しでも登山客の方に利便性を感じていただける努力を続けています」

また、各地でのイベント企画や広報活動などを通じた山の魅力、山荘の紹介とともに、登山中のリスクの発信にも力を入れています。

「どんなにサービスを充実させても、山は優しくなりようがありません。父は登山客に対して時に厳しく接していました。それは、命の危険があるからです。その精神は私も大切にしていきたい。しかし、メッセージを届けるには現代に合った手法が必要です。山の楽しさだけでなく、リスクについてもきちんと情報発信していきたいと日頃から考えています」

何度見ても飽きることがない、穂高岳からの絶景【本人提供】

都会と山と麓、三つの世界を知る者の役割

日々の忙しさや経営の難しさなどもありながら、山荘に関わる生活はやっぱり楽しい、と笑顔を見せる今田さん。何度眺めても言葉を失うほどの絶景や、多様な登山客との触れ合いが、自身の生きる意味や価値をあらためて実感させてくれるのだと言います。山登りの本質は「自分の足で歩いた」という体験と、「自分はあんな高い山に登った」と誰かに言える達成感。だからこそ、山荘はそんな目的地への安全な補給地点であるべきだという原点を常に心に留めています。自身が果たすべき役割について、さらにこう話してくれました。

「私ができるのは、山と麓、そして都会を繋げることです。都会にいると、暑さ寒さなどのコントロールはもちろん、交通手段や食事など、身の回りのあらゆることが当たり前のように快適に整っています。一方、険しい山中では、自然の力や人間の弱さなどを痛感することになります。圧倒的な山の美しさに触れられることが登山の醍醐味ですが、日々の都市生活ではつい薄れてしまう自然の厳しさや、人間が生きていくために必要なことを再認識してもらえればと思います」

幼少期から慣れ親しんでいた山荘での業務中【本人提供】

「耕す」精神で描く、次の世紀のストーリー

2023年、祖父・重太郎さんが山小屋づくりを始めてから数えると、創業100周年を迎えた穂高岳山荘。長年積み重ねた歴史を感じさせる象徴とも言えるスポットが「夕焼け劇場」です。ここは山荘のテラス一帯を舞台に、刻一刻と変化する北アルプスの絶景を鑑賞できる場所。日没前後になると、空と雲、岩稜が、オレンジから深紅、紫へとドラマチックに染まり、まるで映画のワンシーンかのような光景を堪能できます。

もともとは畳一畳分程度のスペースに、祖父・重太郎氏、父・英雄氏が石垣を築いて面積を徐々に広げ、長野県と岐阜県を一望しながら絶景の朝陽や夕陽を眺められるスポットへと仕立ててきました。三代にわたって受け継がれた山への愛、登山客への優しい気持ちが感じられる至高の劇場とも言えるでしょう。

恵さんには、今も噛みしめている言葉があります。それは、祖父が遺した「穂高を耕す、穂高に生きる」です。

「『耕す』という言葉には、その場所に敬意を払いながら、その土地の空間や自然を育てていくという意味が込められているのだろうと考えています。山や自然と調和しながら生きていく、穂高にふさわしい美しい山小屋でありたいですね。また、山荘に関わりながら、奥穂高岳をはじめとする北アルプス一帯の地域にも貢献したいと考えています。同じ山で頑張る他の山荘の仲間たちともつながりながら、各方面で奮闘する大学の仲間たちにも誇れる活動を続けていきます」

山荘を中心としたライフスタイルは一見、外界とは切り離されているように見えますが、実はそうではありません。多様な関係性があってこそ山荘は輝きを増し、その存在は、地域社会や都市部、さらには世界へも好影響を及ぼしていくのです。
それぞれの違いを交差させながら、共に生きていく。これから先の100年、穂高岳山荘がさらにどう進化していくのか、期待に胸が高鳴ります。

山荘からの夜景は100年経っても変わらず、美しい【本人提供】

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わたしの



スキーや登山などのサークル活動に勤しんだ学生時代。
同時に、早稲田祭の運営スタッフとして奔走した経験は私にとってかけがえのないものでした。大企業との交渉、社会人のマナー、大人数のプロジェクト運営などは、後に山荘経営で必要になるリーダーシップや経営判断に直結しています。
また、性別を問わず活発に行動できる校風もその後の自己肯定感につながりました。夫と知り合えたことも含め、あらためて早稲田で充実した時間を過ごせたことに満足しています。東京で何かをつかみたいと考えていた私にとって、早稲田大学を選んだ決断は正しいものでした。在学中に学んだ「貢献」の精神は、今、北アルプスの麓で、人と自然を繋ぐ仕事として花開いていると自負しています。

【写真】結婚式当日、早稲田大学生御用達の居酒屋『わっしょい』で行われた二次会の様子

早稲田大学
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