早稲田大学は2025年11月6日、創立150周年記念事業の一環として、「日本被団協 ノーベル平和賞受賞 記念講演会」を開催。ノーベル賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(以下、「日本被団協」)の田中聰司氏(1967年第一政治経済学部卒業)、濱住治郎氏(1969年第一政治経済学部/1971年教育学部卒業)を招致し、大隈記念講堂大講堂にて、「原爆投下から80年~早稲田から紡がれたノーベル平和賞への軌跡とメッセージ~」と題した基調講演を実施しました。
本記事では、両氏の講演内容をお届けいたします。
※各登壇者の発言は、抜粋や要約によるものです
日本被団協のノーベル平和賞受賞と、本学校友の尽力
2024年にノーベル平和賞を受賞した、日本被団協。創設において中心的役割を担った故・藤居平一氏をはじめ、現在代表理事を務める田中聰司氏、事務局長の濱住治郎氏は、早稲田大学の校友(卒業生)です。日本被団協と本学との強いつながりから、今回のノーベル平和賞受賞記念講演会が企画されました。
講演会の前半では、田中氏、濱住氏それぞれによる「原爆投下から80年~早稲田から紡がれたノーベル平和賞への軌跡とメッセージ~」と題した講演を実施。日本被団協のこれまでの歩みや、平和な人類社会に貢献するためのビジョンが、幅広い来場者に共有されました。
田中氏は冒頭にて、原爆投下から80年を経た現代への眼差しとともに、日本被団協と早稲田大学の関係性を語りました。
田中氏「広島・長崎への原爆投下から80年。私たちは核兵器に運命を握られる時代へと突入しつつあります。本日は、諸悪の根源とも言うべき核に対し、運動を牽引してきた人物が、早稲田大学から輩出されたこと、それがノーベル平和賞につながったことを、私の個人的体験を重ね合わせながらお話しします」

田中聰司氏(1967年第一政治経済学部卒業)
核なき世界に向け運動した、藤居平一氏が遺す意志
田中氏が被爆したのは、1歳5カ月の時です。原爆投下後に被爆地を訪れて被爆する、「入市被爆」によるものでした。
「両親は広島出身でしたが、父は山口県にある陸軍の基地に勤めており、私も山口で生まれました。広島に入市したのは、原爆投下の2日後です。母に連れられ、親族が暮らす母方の実家へ向かいました。死体や瓦礫の中、母は私を背負って道なき道を歩いたといいます。8月末までに4人の親族が亡くなり、私の親族は全部で15名が被爆しました。原爆直後の死没者は広島で約14万人、長崎で約7万人といわれますが、実は現在までの死者は、広島・長崎合わせ60万人と推定されます。さまざまな影響が身体に及ぶからです。原爆被害は、現在、未来へとつづく問題です」
田中氏はその後、早稲田大学の第一政治経済学部に入学。卒業後は、広島の新聞社に就職し、記者として活動しました。過去に六つの癌を発症し、国から放射線の影響が認定されたといいます。日本被団協と出会ったのは、記者としての活動中でした。
「人類の危機を救おうとする日本被団協の姿勢に感銘を受け、被爆者であることを隠して生きていた自分を、『なんと心の狭い人間なのだろう』と反省しました。なかでも大きかったのは、藤居平一さんの存在です。日本被団協の初代の代表委員の1人であり事務局長も兼任した藤居さんは、早稲田大学を卒業後、街頭運動などを重ね、広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会の旗振り役として、被爆者運動に貢献しました。その後も原水爆禁止運動は前進していきますが、第4回大会は会場探しが困難を極めます。藤居さんは、当時の早稲田大学の大濱総長に対し、原水爆禁止はヒューマニズムの運動であることを訴え、記念会堂が貸し出されたこともありました。生涯をかけて運動に取り組んだ藤居さんは、1996年にこの世を去りましたが、『世界史を人類の歴史に塗り替えるんだ』『人間は木と同じだ。磨いて銘木のようになれ』という言葉を遺しました。反骨精神を貫くワセダ人であったことを、皆さんにお伝えしたいのです」

講演を熱心に聴く聴衆
“今、核保有国を動かさなければ、手遅れになる”
また田中氏は、ノーベル平和賞受賞に対する思いを、現代の国際情勢を踏まえながら語りました。
「ノーベル平和賞の受賞式には、森滝市郎さん(日本被団協初代代表委員)、藤居平一さんの遺影を持参しました。二人こそが、受賞すべきだと思ったからです。そして、私たちのように身体が弱く、経済力も乏しい団体が、今日まで活動をつづけられたのは、支援者の皆様のおかげであることを、改めて痛感した受賞式でした。
今から8年前、国連では核兵器禁止条約が採択されました。しかし現実には約1万2000発の核兵器が世界に存在し、保有国であるロシアやイスラエルは戦争をやめず、核兵器がいつ使われるかはわかりません。そして、日本政府は安全保障や防衛を語る一方で、核兵器禁止条約に対しては慎重な姿勢です。ノーベル平和賞受賞の感想を聞かれるたびに、私は『喜びが半分、悔しさと情けなさ、怒りが半分』と答えてきました。
私たちが現在、一番優先している課題は、核保有国を1ミリでも動かすことです。人類滅亡までの時間を象徴的に表す『世界終末時計』は、戦後最短の89秒になっています。今動かさなければ、もう間に合わなくなってしまいます。今後私は、原爆投下における米国の公式謝罪、日米反核同盟の形成などに向け、草の根の運動をつづけていきます」
“人間が核兵器を否定しなければ、核兵器が人間を否定する”
つづいて、濱住治郎氏による講演が行われました。広島出身の濱住氏は、母親の胎内にいる時に被爆しました。早稲田大学卒業後は、東京都稲城市の被爆者の会「稲友会」の発足に尽力し、2015年に日本被団協の事務局次長に就任。2025年6月からは事務局長を務めています。
「私は爆心地から約4キロの実家で、母親のお腹の中で被爆しました。父親は8月6日早朝に爆心地近くの会社に出かけたまま、帰らぬ人となりました。親族により運ばれてきた大火傷の青年は、塗る薬もなく亡くなり、避難してきた20歳の青年は髪の毛が抜けて亡くなり、全く無傷だった3歳の少年は、約20日後に突然亡くなりました。翌年に私は生まれるわけですが、胎内で被爆した若い細胞にとって、放射線の影響は計り知れないものがあります。胎内被爆者は、生まれる前から被爆者の烙印が押されるのです。原爆は人の未来を奪い、家族を苦しめる、悪魔の兵器です」
濱住氏は現在に至る自身の思いと共に、日本被団協の活動の方針を、改めて参加者に伝えていきます。
「私は今も、父親を思わない日はありません。そして戦後80年といわれますが、私にとっての戦争は終わっていません。なぜなら、未だ世界には約1万2000発の核兵器があり、約4000発の核弾頭は、いつでも発射される状況にあるからです。日本被団協は、『原爆被害は、戦争を遂行した国によって償われなければならない』『非人道的な核兵器は、速やかに廃絶しなければならない』という考えのもと、運動を展開してきました。どちらも道半ばですが、私たちは諦めません。2026年には核不拡散条約(NPT)の再検討会議、核兵器禁止条約(TPNW)の再検討会議が開催されます。核兵器禁止条約は、原爆投下から76年にして初めて実現した、被爆者にとって悲願の条約です。私たちはこの条約を、国民や日本政府、世界各国に理解してもらえるよう、普遍化に努め、署名、批准する国を増やしていくことが必要です」

濱住治郎氏(1969年第一政治経済学部/1971年教育学部卒業)
最後に濱住氏は、核兵器や戦争のない人間社会に向けたメッセージを伝えました。
「人間と核兵器は共存できません。被爆者にとって生きる道はただ一つ。それは生きようとする意志を打ち砕こうとする力に対し、闘い、抵抗し、声を発することです。今生きている原爆被爆者の平均寿命は、86歳を超えています。そして日本被団協は来年、結成70年を迎えます。私たちが取り組んできた運動を、次世代の皆さんが工夫しながら、引き継いでいただくことに期待します。人間が核兵器を否定しなければ、核兵器が人間を否定することになるでしょう。人類が核兵器で自滅することがないように、核兵器も戦争もない人間社会を目指し、一緒に頑張りたいのです」

大隈講堂・回廊での記念写真:左から須賀副総長、田中総長、田中氏、濱住氏、齋藤副総長








