日本のカルチャーを担うクリエイターを数多く輩出している早稲田大学。今年誕生30周年を迎える国民的RPG(ロールプレイングゲーム)、『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親であり、ゲームデザイナーとして今も第一線で活躍される堀井雄二さんもその一人です。堀井さんは、60年の歴史を刻む公認サークル「漫画研究会」(以下、漫研)のOB。そこで出会った仲間たちとの日々は、堀井さんのその後の人生に大きな影響を与えました。今回はそんな堀井雄二さんに、漫研の後輩と、堀井さんに憧れて公認サークルでゲーム制作をしている「早稲田コンピュータエンタテインメント」(以下、WCE)の学生がインタビューを敢行。第1回は、堀井さんの大学時代と漫研の思い出、『ドラゴンクエスト』を創るまでのプロローグをたっぷり語っていただきました。
※アレフガルド
『ドラゴンクエスト』シリーズに登場する冒険の舞台
- 堀井雄二
(以下、堀井) - お二人は漫研ですか、僕の後輩ですね!
- 向山
- はい、今日は大先輩にお会いできるということで、すごく緊張しています!
- 石原景太
(以下、石原) - 僕らは、ゲーム制作をしているサークルから来ました。
- 堀井
- なるほど、こちらはゲーム研究会ですか。それぞれ部員は何人くらいいるの?
- 石原
- WCEは40人弱くらいです。
- 堀井
- 結構いるね。漫研の方は?
- 向山
- 今は80人くらいです。
- 堀井
- あ、すごく多いんだね。僕の在学中は、30~40人くらいだったと思いますよ。
- 向山
- 漫研の後輩を代表して、堀井さんの学生時代のお話を伺いたいのですが、今、僕らは公式の活動として、年に2冊、機関誌『早稲田漫』を発行してコミケ(コミックマーケット)や早稲田祭で配布しています。あとは早稲田祭で似顔絵描きして部費を捻出しているんですが…。
- 堀井
- あ、似顔絵描きはね、僕もやっていましたよ。
- 内野
- 伝統なんですね!
- 堀井
- そうそう、早稲田祭はずっとね。僕らの時は1枚50円くらいで描いていたかな。今はいくらですか?
- 向山
- 200円です。
- 堀井
- ああ、さすがに値上がりしてますね(笑)。あの頃でも20~30万円くらい売り上げがあったから、僕も相当な枚数を描いていたと思います。もしかしたら、当時僕が描いた似顔絵をいまだに持っている人がいるかもしれませんね。それと、お金の稼ぎ方は今と同じですね、そのお金で『早稲田漫』を作って売っていたのも。ただ僕らの頃はまだコミケがなかった。コミケは、僕がまだ学生時代に『月刊OUT』というアニメのパロディー投稿で有名だった雑誌でライターをやっていた頃、仲間の米澤嘉博(故人)くんが始めたんです。
- 内野
- コミケを始めた方とお知り合いだったんですか!
- 堀井
- そうそう(笑)。
- 堀井
- なぜ漫研に入っていたかというと、僕はもともと漫画家になりたかったんですよ、高校時代から。そこで高3の夏休みに、自分が描いた漫画を持って上京し、先に東京に来ていた兄の家に泊まり込んで、永井豪先生(代表作『マジンガーZ』など)の仕事場に押し掛けたんですよ。「アシスタントにしてくれ!」と言って。
- 一同
- えーっ!
- 堀井
- 僕はすぐに「よし、雇いましょう!」という返事がもらえると思い込んでいたけど、当然、体よく断られてね(笑)。「じゃあどうしようかな?」と。働きながら漫画を描くのはきつそうだし、とりあえず大学に入って、漫研で好きなだけ漫画を描こうと思い、早稲田に入ったんです。
- 石原
- 漫画家を目指していたのに、堀井さんはゲームクリエイターになられましたが、どちらが合っていたと思いますか?
- 堀井
- ゲームでよかったと思います。こっちの方が、むしろ合っていたなと。
- 石原
- どういうところが合っていたのですか?
- 堀井
- インタラクティブ性があることかな。もともと僕、人にいたずらを仕掛けるのが大好きだから、一方的に与える漫画より、プレーヤーとのやり取りを想像しながら作るゲームの方が、作っていて僕的には楽しいんです。シナリオもそこを意識して書きますし、自分には合っていると。それと、そもそも僕、頭が理工系なんです。漫画家を目指していたから文学部を選びましたけど、子どものころから得意なのは数学。得意だった数学で受験できる文学部を探したら、ちょうど引っかかったのが早稲田だった。結構いい加減な受験動機でしたよね(笑)。そんなだからコンピューターにも抵抗がなかった。
学生運動で入学と同時にロックアウト
「みんな、好きなことをやっていた」
- 内野
- 堀井さんが通っていた頃の早稲田は、どんな雰囲気でしたか?
- 堀井
- 僕が入学したのは1972年なので、まだ学生運動が残っていましたね。ちょうど、入った年に大きな事件(※第一文学部の学生だった川口大三郎さんが殺害された事件)がありまして、大学が約1年間、ロックアウト(構内立入禁止)されたんですよ。
- 石原
- これから頑張ろうという時にですか?
- 堀井
- そう。だから学校に行かなくていいし、勉強もやらなくていい。とんでもない状況でね…。で、僕は何をしてたかというと、ひたすらマージャンをしてました(笑)。当時は高田馬場の下宿に住んでいたんですけど、マージャンの声がうるさくて、大家さんに何度も怒られて追い出されたほどで。そのマージャン仲間が、みんな漫研の連中だったんですよ。あのロックアウトが、僕をダメダメな人間にしたのかな(笑)。
- 一同
- (爆笑)
- 向山
- 漫研内はどんな雰囲気だったんですか?
- 堀井
- うーん…漫画の議論もしたことはしたけど、やっぱりマージャンや飲み会の方が多かったね。漫画家の国友やすゆき(代表作『100億の男』)さんなんかは同世代で、大先輩には弘兼憲史(代表作『島耕作』シリーズ)さんがいらっしゃる。でも当時の漫研はとてもユルい感じでね。ふだんはマージャンばかりだし、「早稲田祭だ、早慶戦だ、闇鍋しよう!」と、ばかなことばかりやってました。みんなが好き勝手なことをやっていたから、漫画を一生懸命描いていた記憶はそれほどない。早稲田祭で映画を作って上映したり、「学生漫画連合」といって他大学の漫研と交流しながら、法政や立教の漫研の人とグループを結成したり、仲間同士でわいわい遊んでいましたね。
- 内野
- 堀井さんは、漫研でどんな漫画を描いていらしたんですか?
- 堀井
- 当時の漫研も僕も、好きなのは『ガロ』系(アンダーグラウンドな作風の漫画)でしたね。商業誌っぽくないものにどんどん染まっていって、つげ義春さんの『ねじ式』とか、林静一さんの『赤色エレジー』なんかを読んで、影響された漫画を描いていました。ちなみに今、漫研で人気の作品は何ですか? 『進撃の巨人』とか?
- 内野
- はい、人気ですね。あと『週刊少年ジャンプ』はみんな読んでいます。
- 堀井
- 『ONE PIECE』とかですかね? それとも、当時の僕らのように、メジャー過ぎる作品は避けて、マイナーな作品にいくのかな?
- 向山
- 全体的には、みんな好きなジャンルはばらばらなんですが、マイナー街道を突っ走っている人も多いです。
- 堀井
- そういうところは、変わらないのかもしれないね。僕の漫研時代は、先輩が出版系に進んだ人が多かった。漫画よりも文章を書くアルバイトをよくあっせんしてくれたので、徐々にそっちに一生懸命になっていきましたよ。
- 内野
- そうだったんですね。
- 堀井
- 最初は、『サンケイスポーツ』でルポルタージュを絵と記事にするアルバイトをやっていた先輩から、手伝いを頼まれたんです。そこから僕は、在学中にどんどん物を書く方に。絵を描くより、文章書くほうが楽だなと思って、自分の文章に挿絵を付けたりしていました。
- 向山
- プロとしての仕事は、最初はライターだったんですね。
- 堀井
- そうなんですよ。漫研として単行本を出したこともありました、『いたずら魔』(KKベストセラーズ/ワニの豆本)という、いたずらのアイデア集を。それが結構売れて、さらにいろいろなライター仕事がやってくるようになったんです。当時の桂三枝さんが司会をしていたテレビ番組『いたずらカメラだ! 大成功』のアイデア出しをする、放送作家のようなこともやっていましたね。ところが、4年生の終わりに僕、バイク事故を起こして、転んで激突して内臓破裂を起こし、半年間休学したんです。それで就職活動もできず、『月刊OUT』で原稿書きなどをしているうちに結局6年間大学生として過ごしてしまいました。でもライターとしてそれなりに収入があったため、これは就職しなくてもやっていけそうだと思って、そのままフリーライターになったんです。今思うと、漫研の連中は結構就職しない人が多かったですね。イラストレーターだと、えびなみつるさん、大川清介さんも漫研仲間です。
- 石原
- すごい大学時代を過ごされたんですね。
- 堀井
- いやいや、人に言うとすごいと言われるけど、自分としては流されただけなんですよ(笑)。でもそのおかげで、学生時代からいろいろな経験ができて楽しかったです。
- 石原
- 今は、漫画は一切描かれないんですか?
- 堀井
- そうだね、サインの時にスライムの絵を添えるくらいかな(笑)。
- 内野
- 今も部室に、堀井さんがいらっしゃった時代の『早稲田漫』が残っているので…もしかしたら、堀井さんの漫画が載っているかもしれないですね?
- 堀井
- それは恥ずかしいな。描いていたのは独り善がりの『ガロ』系漫画ばかりなので、あまり探さないでください、黒歴史なので(笑)。
- 堀井 雄二(ほりい・ゆうじ)
- 1954年、兵庫県生まれ。1978年、早稲田大学第一文学部卒業。フリーライターとして活躍中に、ゲームデザイナーの道を歩み始める。アクションゲームが主流だった時代に、独特なゲームを手掛けて成功を収める。その後、ロールプレイングゲーム(RPG)『ドラゴンクエスト』シリーズを世に送り出し、日本のRPGの礎を築くと共に、現在もゲーム業界に多大な影響を与えている。