早稲田に歴史あり

〜第12回〜
安部球場の85年―「ここにかつて野球場があった」―

大学史資料センター非常勤嘱託
教育・総合科学学術院非常勤講師 望月 雅士


 総合学術情報センター内の一角に、二つの胸像と碑がたたずんでいる。胸像は正面が早大野球部初代部長の安部磯雄、その脇に立つのが早大野球部を長きにわたって指導した飛田穂洲(とびたすいしゅう)である。安部の胸像の横にある碑は、次の書き出しで始まる。

「ここにかつて野球場があった」。
昭和が終わりを告げようとする1987年11月まで、ここは野球場だったのである。

 戦前は戸塚球場の名で知られ、戦後は安部球場と名を変え愛されてきたこの球場は、1902年10月、創立20周年記念式および早稲田大学開校式にともない新設された。以後85年、日本野球史とともに歩んだその軌跡は、数々の歴史的一戦に彩られている。

 1925年10月19日、応援問題で中止されて以来、実に19年ぶりの早慶戦がこの球場で開催された。いわゆる「復活早慶戦」である。完成したばかりの25,000人を収容できるスタンドは超満員、周囲の道々まで見物客で埋め尽くされた。この試合を機に、早慶戦は日本国中を熱狂の坩堝(るつぼ)と化していく。

 日本最初のプロ野球リーグの第一戦も、ここで開催された。1936年7月1日の巨人軍対名古屋金鯱(きんこ)軍戦。巨人の先発は「速球王」沢村栄治。だが名古屋軍の猛打の前に、沢村は3回でノックアウト。ラジオがプロ野球の試合を実況放送したのも、この日が初めてだった。

 しかしこの球場は、こうした「明るい」軌跡ばかりを辿ったのではない。太平洋戦争中、学徒出陣壮行試合として開催された「最後の早慶戦」では、集った学生たちの未来には「戦死」しかなかった。歓声が渦巻いたスタンドも、日本初のナイター試合を照した照明塔も、すでに軍艦や戦闘機、弾丸へと生まれ変わるべく供出されていた。それから2年、戦地から早稲田に帰ってきた学生たちは、この球場で鳴り響くノックの快音に平和の時代の到来を実感した。

 そして1987年11月22日、この球場最後の日。全早慶戦が催され、野球場としての歴史に幕が下りた後、グラウンドにはかつての選手たちの土を集める姿があった。それは85年間、日本野球の発展を見つめ続け、野球に青春を捧げた選手たちをやさしく育んだ土だった。

 

 

安部磯雄(中央)・飛田穂洲(左)の胸像と碑(右)
▲安部磯雄(中央)・飛田穂洲(左)の胸像と碑(右)


安部球場 1987年
▲安部球場 1987年

 


1258号 2011年10月20日掲載