早稲田に歴史あり

〜第11回〜
恩賜記念館

大学史資料センター助手
伊東 久智


 大隈銅像の脇、現在7号館が置かれている敷地には、かつて英国風後期ゴシック様式の瀟洒(そうしゃ)な建物が聳(そび)えていた。恩賜記念館である。煉瓦造り3階建て、延310余坪で20室があり、物理学実験室、各科の教員研究室、貴賓室などに充てられていた。設計者は作家・宮本百合子の父として、また慶應義塾大学図書館(重要文化財)を設計したことでも知られる中條精一郎である。

 その名称からも知れるように、同記念館は皇室からの恩賜金を基礎として建造されたものである。1907年、大学は創立25周年を記念して理工科の再建と医科の新設を眼目とする拡張計画を発表したが、それを受けて下された恩賜金であった。当時私立大学に対する恩賜金というのは、市島謙吉の言葉を借りれば実に「破天荒」な、つまり極めて珍しいことであったという。その後、理工科は1909年に開設の運びとなったが、医科の新設にまでは至らなかった。その代わり、1910年に至って恩賜記念館の建設が決定されたというわけである。

 同記念館は翌年5月に竣工し、正面玄関壁面には坪内逍遙の案になる銘文が刻まれた。そこにある「コレヨリ本校ノ事功洽(あまね)ク世ノ認知スル所トナリヌ」との文字からは、大学関係者の誇りや喜びをありありと見て取ることができる。なお、写真では初めから左右対称の構造を備えていたように見えるが、実はその左翼部分は1918年に増築されたものである。また、館内の研究室に配された新進気鋭の若手教員たち(一室に二人あてがわれた)は「恩賜館組」とも呼ばれ、新思想を求める学生たちの信望を集めていたという。

 残存していたならば、間違いなく大学の象徴的建造物の一つに数えられたであろうこの恩賜記念館も、1945年5月25日、空襲により外郭を残して焼尽し、その後外郭もまた取り壊されることとなった。同室教員たちの小難しい議論、階段を駆け上る学生たちの荒い息づかい、重厚な扉窓から覗く学園の風景、夕日に映える赤い煉瓦の色……。我々は建物がオーラのように纏(まと)っていたであろうそうした種々の記憶を、今はただ夢想するほかないのである。

 

 

『紺碧の空』歌碑(大隈会館手前)
▲大隈・高田銅像と恩寵記念館全景

『早稲田の栄光』歌碑(大隈小講堂脇)
▲恩寵記念館貴賓室

『早稲田の栄光』歌碑(大隈小講堂脇)
▲取り壊される恩寵記念館の外郭

 


1257号 2011年10月13日掲載