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占領期のメディア統制と戦後日本

山本武利(談)

■一九八〇年代後半からの資料公開
  私は元々は明治期のメディア研究者で、新聞の読者層などを研究していましたから、占領期の研究を始めたのは一九九〇年ごろです。
  一九八〇年代初頭から、国立国会図書館はアメリカの国立公文書館にあるGHQ/SCAP関係の資料のマイクロ化の仕事を地道にやっていた。八〇年代末から、国会図書館の憲政資料室でマイクロ・フィッシュとして公開されて見やすくなり、私自身もそういうものに対する関心を高めたということです。
  私の関心から見れば、占領期のメディア関係の機関、一つはCCD(Civil Censorship Detachment)という検閲機関、もう一つはCIE(Civil Information and Education 民間情報教育局)という、メディアを指導しながら国民を啓蒙する機関、それらの機関の占領期の活動を示す大量の内部資料つまり英文の公文書が日本でも見られるようになったんです。
  もう一つは、メリーランド大学のプランゲ文庫といって、実際に検閲されたメディア―もちろん日本語です――の資料の現物が、これも国会図書館とメリーランド大学の共同作業で、マイクロフィルム化が進み始めたことも刺激になりました。まず雑誌から始まって新聞、そして今では書籍に作業が移ろうとしているところです。日本からワシントンまではかなり遠いけれども、その現物を見るためにそういうところにときどき行くようになりました。
  1993年に、メリーランド大学に隣接して巨大なアメリカ国立文書館分館(アーカイブスU)が新しくできた。本館やスートランドなどにあった公文書がアーカイブスUに集められました。要するに、ワシントン郊外に行けば、メリーランド大学にプランゲ文庫があり、すぐ近くでは、第二次世界大戦中のアメリカ側の対日戦略や、占領期の方針を示す資料が公開されていて、使いやすくなった。そういう二つの資料群があるために、いま日本の研究者の「メリーランド詣で」が非常に盛んで、いろいろな方面の研究者が双方の資料を活用するようになってきました。
  しかも最近は、そのアーカイブスUにはその他に、OSS(Office of Strategic Service,戦略諜報局)というCIAの前身の諜報機関の、インテリジェンス(諜報、謀略)関係の資料が整理、公開されてきたり、あるいはOWI(戦時情報局)というプロパガンダ機関の資料も使いやすくなってきています。
 最近でも加藤哲郎君(一橋大学)なんか、「これからはOSSをやるんだ」といって、まずOSSの天皇関係資料の分析を行っています。彼は今までは西海岸とか、あるいはモスクワとかベルリンとかでインテリジェンス資料収集をやっていた。私も1996年から2年間当地に滞在したのがきっかけに「OSS資料群にはまってしまった」のですよ。

■資料の公開状況
  アメリカでのGHQやOSS資料は、原則的には公開されるべきものはほぼ全部されている状態です。ただ、国家安全保障やプライバシーにかかわるものは、―概念としては非常に広いので、その公開はアメリカの恣意的な判断によることが多いのですが―例外的に未公開です。しかしトップシークレットと押印されていて、閲覧が非常に限定されていた資料群でも、戦時中のものは出てきています。
  ところが、占領期のCIA資料はまだ完全には出ていません。OSSの後身がCIAなのです。国家安全保障にかかわる機密指定されたドキュメント(Classified Document)でも、前は三〇年だったけれども今は二五年で公開するのが原則になってきたんです。だけど、もう戦後六〇年だから、CIA資料も占領期の途中でも、終了後のものもとっくに公開してもいいはずだけれども、これはいまだに出ていない。私自身が関連資料の公開請求をしたことがありますが、CIAの反応は鈍いですね。他の機関に比べ、アメリカ政府内ではCIAは別扱いで、その所蔵資料の公開が遅れています。
  この春休みにもアーカイブスUへちょっと行ってきて、最近公開のOSSの資料を見てきました。OSSは戦争の終わりとともに一応解散した形になったのですが、SSUという機関として残っていたんです。これが、その後一九四七年にCIAに変わる。CIAに変わるまでのSSUの資料がかなり出始めたんです。ここがなかなかおもしろい。たとえば戦後の初期にアメリカ本土からSSUが、マッカーサーに見つからないように日本にひそかに浸入し、工作を始めたあたりのものの一端が、つかめるようになってきた。けれどもCIAが動き始めた一九四七年から四九年は、占領期のなぞの事件がある時期ですが、そのあたりとCIAの動きの関係を示すものは未公開状態ですね。しかし、松本清張が言っているCIAと「黒い事件」と関係はなかったのではないかと思います。

■江藤淳の先駆的業績
  占領期の情報統制と戦後社会の関係について最も初期に着目した人物というと、やはり江藤淳を評価しなければならないと私は考えています。竹前栄治さんなどの占領期研究会の人たちは江藤の業績を無視するという形をとっているし、江藤の方も竹前さんたちの仕事を評価していない感じがして、お互いにあまりそれぞれの成果を有効に利用するという態勢はなかったようです・・・。
  江藤淳は、一九七九年から八〇年にかけてワシントン郊外のスートランドに行って、まだほとんど整理されていなかったボックスを探り当てて、CCDの資料を見ているんですよ。その時点では、公開はされていたけれども整理なんかされていなかった。彼は、そことメリーランド大学のプランゲ文庫の両方に通って、占領期の日本の言語空間がアメリカによって強制的につくられたことを論証しようとしたんです。
  彼の『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』などの著作は、私はかなり成功していると思うんです。私はその後、スートランドからアーカイブスUに移されて整理されたものや、国会図書館でマイクロ化されたもの、つまり江藤さんが見たような資料を時間をかけて見たんだけれども、彼は資料環境劣悪な時期に、短期間でいいところを随分つかんでいる。CCDのボックスは一九〇箱ぐらいあって、一〇箱ぐらいしか見なかったと書いてある。スートランドでアシスタントがいたことは彼も認めている。プランゲ文庫でも奥泉栄三郎さんという、今シカゴ大学にいる資料の専門家なんかが当時メリーランド大学にいて、いろいろ資料を提供したり、サポートしたらしいですけれども。そういうサポーターがいるにしても、彼自身の力量がしからしめた分析だと思います。その仕事が、一九八〇年代初頭の雑誌『諸君!』に連載されていくわけですが、アメリカの狙いを掌握して分析したと私は思っています。
  その後、メリーランド大学でどんどん資料が公開され始めて、あそこに行けば現物の資料が手にとって見られるという状態になり、さらにマイクロ化が進んで、日本の国会図書館でも見られる形になってきたわけです。

■あまり理解されていない占領期の情報統制の仕組み
  占領軍による情報統制の大枠は、一つは表の機関としてCIEというのがあります。これの機能は、長期的、戦略的に日本人の思想を民主化、非軍国主義化させる。もっと言えばアメリカナイズさせるということで、日本人の頭の切りかえと言っていますが、長い意味では洗脳なんだけれども、そういうものを行う機関です。
  もう一つは非公然の機関であったCCD、これは民間検閲局、あるいは軍隊的に「民間検閲支隊」という言い方で訳されてします。どちらの訳でもよいのですが、メディアの非常に精細な検閲をやっていたんです。マス・メディアと、電話とか電報、郵便――手紙が一番多かったのですが――の検閲をやっていた。最盛期には、全国で八七〇〇人ぐらいの検閲者を使っていました。そのほとんどが日本人です。
  アメリカの方では当時検閲をやっているとは言っていない。日本人に対しては、検閲行為を隠しているわけです。プレスコードに照らして、それに違反するものは公開禁止にしたり、削除させたり、いろいろな形で、その内容によって検閲の度合いが違いましたが、そういうことを大規模にやっていたわけです。これは本質的にはアメリカのインテリジェンス活動で、日本の反米的な動きや、ソ連あたりから入ってくる情報をチェックするような、要するに秘密的な情報入手が狙いだったと思います。
  表の機関、半公然の機関であるCIEは、大まかに言ってメディアの方向を指示したり、メディアを使った啓蒙活動をやっていたんだけれども、日本人の多くはCIEについてさえよく知らなかった。メディアにいた人は検閲に直面していました。したがってCCDに日頃接触していた。しかしメディア関係者ですらも、CCDとCIEを混乱してしまっているんです。GHQではCCDないしその上部機関のCIS(Civil Intelligence Section、民間諜報局)の存在を知らしめないために、意図的に混乱させていたとも言えましょうが・・・。
 アメリカの方ではきちんと分けていて、CCDは実際の言説のチェックをもっぱら行う。もちろんそれはある程度、長期的には思想操作や日本人の頭の切りかえという狙いはあるにはあるけれども、どちらかというと戦術的というか、当面の問題を扱う。CIEの方は、戦略的、長期的に日本人工作を考えているということです。
  私は、さすがの江藤さんもこの点は混乱していたと思うんです。彼が見たのはCCDの資料なのでね。GHQはこれを使ってすべての言語空間を規制し、戦前の天皇的国家主義的イデオロギーを殲滅させる行為をやったのだというけれども、いくらなんでも検閲でそこまではやれない。もちろん補助的なものとして検閲もあったけれども、基本的には、彼がいう言語空間の操作はCIEがやったことなんです。
  言いかえれば、検閲の方はいま存在しているものを削除することはできるけれども、新しく何か別のものを生み出すことはできない。新しくものを生み出そうとするのはCIEの仕事だったということです。

■検閲の影響力
  CCDは、初めは全てのメディアを検閲しようとしていたらしいですけれども、とてもできないということがわかる。事前検閲と事後検閲という形で、次第に分けていくんですよ。東京、大阪という主要都市のメディアは原則として事前検閲を行い、その他の地域の小規模なメディアは初めから事後検閲にする。実際やってみて、主要な都市の事前検閲も大変な負担ですから、だんだん事後の方に移していって、結局一九四八(昭和二十三)年七月二十五日、『アカハタ』など共産党系五紙を最後に、全部事後検閲に移ったんです。全国紙の場合は、その直前の七月十五日ですね。
  事後検閲とはいっても、結構メディアを威圧する点で意味があったと思うんです。これもマイクロフィルムの資料に出てきたんだけれども、CCDの資料で、嘉治隆一という『朝日新聞』の当時の出版局長が、この事後検閲になった直後に朝日新聞社内に出した文書が残っている。そこで、これからは我々記者の責任は非常に重要で、「各自の心に検閲制度を設けることを忘れるならば、人災は忽ちにして至るであろう。事後検閲は考えようによれば、自己検閲に他ならぬわけである」と部下に呼びかけた。自己がそれぞれプレスコードをしっかり頭に入れて自己検閲をせよと言っているんですよ。「自己検閲」という言葉を使っている。これはまさに、プレスコードを体の中の血とし肉とせよということだと思うんですよ。それに従って編集しないと、とんでもない被害を受ける、つまり新聞だったら全部回収させられる、出版物もそうです。事後検閲になると、検閲を受けずに一応ぱっと発行できるけれども、それで引っかかったら、場合によったら発行禁止ということさえ懸念される。軍事裁判にかけられる可能性もあった。
  事後検閲に移る直前の五月に、見せしめみたいなものとして『日刊スポーツ』が、東京の事前検閲紙として初めて軍事裁判にかけられたんですよ。それで、一審では六カ月発行停止とされた。二審では勝ったというか、処分はずっと軽減されて、編集長に罰金を与えるということになったんですが。一審では、編集長を一年間の重労働に課していた。
  記事の内容は大したことではなくて、浅草のアメリカ式裸体ショーをCIEの課長が指導するというような記事で、事前検閲でパスしていたのものだったんですが、これがやられた。ここに表れたように、メディアは検閲に引っかかって軍事裁判にかけられるのが何よりも怖いわけですね。だから、一層びびりだした。事前検閲のときだったら検閲官に責任をかぶせればいいわけだから、基本的に気楽な面もあるわけですね。だけど今度は自己責任になるから、嘉治隆一の言葉にあるように新聞社側が一層緊張感を持って動かざるを得ないということになったんでしょう。
  ただ、事後検閲も一九四九年の十月末に終わります。つまり検閲そのものが終わるわけですが、それはどうしてかというと、ちょうど当時日本の財政が逼迫して、ドッジ・ラインの財政緊縮によって財政建て直しを行う必要性をGHQ自身が認識し出した。GHQの費用は全部日本政府のお金を使っているわけですから――一種の賠償みたいなものです―、また、GHQもアメリカの方も、メディアも事後検閲以降一層従順になってきたと認識していたから、もはや反米的にはならない、検閲は費用ばかりかかって、それから得られるインテリジェンスも大したものではなくなった、もうこれでいいじゃないかと。実際、検閲のデータを見ますと、『アカハタ』なんかを除けばほとんど削除されるところはなくなるわけです。実際『朝日新聞』なんかは、三大紙の中でも一番処分件数が少ない新聞になってしまう。
  私はその当時のGHQ内部の会議録を入手しているんですけれども、そこに「CIA」という言葉が出ています。CCDの検閲のトップにいて、CCDの廃止を渋るウィロビーに対して、アメリカから派遣された財務関係の専門家が、最近CIAができたじゃないか、CCDの仕事はCIAに任せられるんじゃないかというようなことを言っているんです。これはまさにCIAが入ってきている証拠です。ウィロビーは「そんなことをやっている連中は若干はいるけれども」と言っている。だけど、彼はCIAの評価は全然しないんです。ウィロビーはそういうライバル機関は大嫌いだし、第一、親分のマッカーサーがCIAは毛嫌いしている。だけど彼らが無視していることから、CCDはやはりインテリジェンス的な活動をやっていたという推測ができます。

■マッカーサーとメディア
  マッカーサーがCIAを嫌ったのは、これはもう、戦争中からそうなんです。先ほど言ったように、CIAは戦争中はOSSといっていたんですが、マッカーサーが指令を出していた西南太平洋地域、オーストラリアから北のあたりに関しては、一切OSSの資料が出てこないんです。太平洋艦隊司令官のニミッツもOSSは嫌いだったんだけれども、それでも少しは彼の戦域に入れたので、OSSの活動の資料が若干出てくるんです。しかしマッカーサーの戦域に関しては、一切出てこない。
  一つには、マッカーサーは、自分で諜報機関を持っているから、そういうのはOSSのごとき素人がやるべきことではないという考え方があったと思うんです。もう一つは、ドノバンというOSSの長官が嫌いだったらしいですね。共和党寄りで彼と考えが近い人だったようですが、どうもマッカーサーは個人的に嫌いだったということらしい。それに、自分の力量は大きく、統合参謀本部とかワシントンから指示されるものではないという、将軍としての唯我独尊的なプライドも非常に強かったようです。統合参謀本部長とか国務長官とか、そういうものは全部自分の後輩ですからね。だから基本的には全部、あいつらの言うことは無視してもいいと。彼らもまた、命令は出せないんです。トルーマン大統領だって、なかなかね。  
いずれにしろ、私はOSSの資料もずいぶん見ているんだけれども、それは出てこない。これだけは、はっきりしているんです。マッカーサーはOSSを排除したと。だから、彼が戦後日本を支配し始めてからも、その連続だと思うんですね。戦後マッカーサーがCIAを排除していたという資料は、直接的には出ませんが・・。
  ただ、現実としてワシントンに再建された諜報機関が黙っているわけないですよ。SSUという形で既にCIA誕生の前の段階から来ているという資料があります。しかしCIAもマッカーサー支配下の地域では公然と活動できなかった。こっそりと、小規模でしか動けなかった。アメリカ本国でも彼の機関の能力をある程度認めていた。だからCIAよりもマッカーサーの諜報機関が占領期に暗躍していたし、なんらか「黒い霧」に関係していたらしい・・・。
  ともかく、日本の占領下においては、マッカーサーの意向はいろいろな形で実現している。ただ、天皇制については、これはアメリカの方でも早いうちから維持するという形になっているようですがね。マッカーサーもその点には異論はなかったと思うんですが。ただ、私らのようなメディア研究者から見れば、日本のメディア統治には特色があった。ドイツなどでは戦争中発行されたものは全部廃刊ですね。フランスでさえもヴィシー政権の下で発行されていたものは全て復刊が許されていない。ドイツにも、連合国にも中立の立場を貫いていたといってもだめですね。全部題字などブランドも使用禁止になったし、資本も没収、そしてジャーナリストも働けなくなった。永久追放です。ところが日本は結局、全部生かすんですね。戦争責任追及はきわめて甘く、同盟通信社が共同と時事に分割された程度です。
  私は、マッカーサーの考え方が特に出ていると思うのは、メディアの直接統治です。行政にしろ、全て古い省庁を残した間接統治なんですね。日本では役人を温存して、その役人を通じて国を動かす、そういう占領の仕方なんだけれども、メディアだけはCCD、CIEを通じて直接行う。メディアを所管する官庁は、戦前は内務省、逓信省、あるいは情報局があったわけですが、それらのメディアを統制する部局は完全になくなったんです。
 なぜメディアだけは直接統治だったのか。それはやはり、マッカーサーのメディア好き、メディア利用のプロパガンダあるいは世論操作の志向からきていた。基本的に戦争中からそうです。写真写りもすべて計算したというのは有名な話だけれども、ニューギニアやフィリッピン上陸など戦果を上げた発表のときには、自らの名前や写真を必ず出すように報道官に命じて、「マッカーサーの戦域では」という形で発表させる。必ず「マッカーサー」と入れさせていたわけですね。戦後の大統領をすでに戦中からねらっていたともいわれていますが、メディアの力を認識し、それを自分の手駒のように使う戦略に長けている将軍であったと思います。

■ラジオや映画の検閲
  先に言ったように、検閲は一九四九年十月末に終わりました。ただ、ラジオだけは検閲が最後まで残ったんですね。CIEが実質的には担ったんだと思いますが、その研究はまだ不十分なんです。ラジオの検閲に関してはね。というのは、NHKの放送文化研究所が一応やっているけれども、そのあたりの精密なことは実証していませんからね。私のいろいろ調べたところでは、最後まで放送台本、ニュースの検閲だけは残っていた。スポーツ放送みたいなものはストレートの現場中継でいいんです。検閲のあった時代も、早い時期から事後になっている。ところが、時事的なニュースだけは占領終了まで検閲が残った。だから、それだけ放送の力は大きいという評価ですね。
  当時、ラジオの普及率はかなり高かった。普及率は戦争とともに40パーセントから50パーセントに達し、そのピークの1945年3月には747万件の聴取契約があった。戦争が終わったころには真空管など部品の不足で音質が悪くなったり、聞けなくなったりして、普及率は40パーセントを切ったと言われているけれども、国民型受信機の開発であっという間に元の五〇%に返っています。日本人はラジオ好きだ。朝鮮戦争始まる頃には、もう普及率は戦前を越えていた。
  映画もラジオと似ていて、CCDとCIEと一緒に検閲、指導をやっている。CIEが指導し、最終的にCCDがチェックして、許可を与えていた。やはりそういう内容は、一回出てしまったら直せないものですからね。一回見たり、聞いたりしてしまったらそれで終わりですから。だから、事前検閲という方針は貫かれた。このあたりは谷川建司君(茨城大学)なんかがよく知っていますが、映画と活字メディアとはまた違っているんです。紙芝居などビジュアルなものも映画に近い検閲形態ですね。

■CIEの活動は終わらない
  CCDによる検閲は一定の段階で終了するわけですが、CIEの方は、これはずっと続いているんです。占領終了も関係なく、アメリカ文化センターなど今も存続している機関ですよ。地方にCIE図書館をつくったり、あるいはアメリカの生活様式を宣伝するような映画――「ナトコ映画」を製作した。子供のころ学校に簡単な映写機があって、そういうCIEのつくった、アメリカの繁栄の現況を伝えたり、アメリカの文化を賛美するドキュメンタリーのようなものを見せられたんですが、そういうものをつくった。
  新聞だったら、例えばCIEは表向きには記者クラブなど廃止せよと言いながら、実際には既存のクラブをうまく利用したり、新しい時代に対応させるような日本新聞協会なんかをつくったり、新聞をうまく制御していた。あるいは、新聞労働組合は強かったんですけれども、それを弱体化させるために「編集権」は経営者にあるとの主張を貫き、資本家側をバックアップしてストを弾圧した。インボデンという有名な新聞課長がその先頭に立っていた。基本的には、マッカーサーの、GHQの大きな方針は、初めは民主化を進め、後からそういう行き過ぎを是正して、どちらかと言えば反ソ的な方向に変え、冷戦に対応させるという方針ですが、これがCIEを通じてメディアにどんどん入っていく。メディア側は、インボデンは嫌なやつだと言いながらも、それにすり寄って協力したりして、それでしたたかに生きようとしたということですね。
  それから、CIEは民間情報教育局ですから、教育の現場でも、例えば初めは右翼教師追放をやっていたんだけれども、だんだんレッドパージに変わる。教科書の内容などももちろんそうですね。基本方針は、大きな枠はマッカーサーや上層部が何かを決めて、それをその現場に伝達するのがCIEの係ですね。

■テレビの登場の意味
  そういうCIEやCCDの機能を、メディアの研究者として見ていると、テレビの開局というのは非常におもしろいことだと思います。これは占領後間もない一九五三年に開局したのですが、準備段階は占領末期になされているわけです。私なんかの子供のころ、大変まだ貧困な時代で、やっと四国の田舎では少しずつラジオのいいものが入ってき始めたというぐらいですから、テレビが営業的に成り立つかどうかというのは、ちょっと考えられない時代だった。それを強引にやったのはなぜか。最近そういう資料や研究が出始めたんだけれども、一つはやはりアメリカが自国の国家安全保障という観点から、マイクロウェーブ設置で動いたことは確かなんですよ。とりわけCIAが防衛のためのマイクロウェーブ回線建設構想で暗躍していたわけです。それにテレビを乗せて、日本にもテレビを入れようとした。つまりテレビの時期尚早と思えた開局は、ソ連との冷戦に日本を引き入れ、日本を冷戦最前線の空母ないし橋頭堡たらしめんとしたアメリカの軍事的戦略があった。それに正力松太郎が乗ったわけです。
  正力自身、自分の仕事がそういうCIAの戦略にかかわっていることは、相当意識していたはずです。テレビの周波数を何メガサイクルにするかどうかということで、NHKと正力との間で六メガ・七メガ論争というのがあって、結局アメリカ方式の六メガに決まったんです。NHKはもう大憤慨ですよね。NHKは七メガで営々と研究していたわけですから、「売国テレビは絶対お断り!」――占領も末期で、もうはっきり言えるような時代になっていました――と言って反対運動を起こしたんだけれども、結局占領終了間際に正力方式に決まるんですよ。NHKは慌ててその方式に合わせて準備して開局する。
  そのときに先ほど言ったOSSのドノバン長官なども、自分の子分をCIAに残すために、開局に関与していたという実証研究が早稲田大学の有馬哲夫教授らによってなされています。ともかくアメリカの長期戦略というのは、基本的には経済を復興させて、日本人を豊かにして、アメリカのような消費文化を楽しませる平和な国民にしようということでしょう。これが見事に高度成長期で成功したけれども、その第一段階として、占領期から高度成長期に行くステップとして、テレビ開局は意味があったと思うんです。
  テレビの開局は、当時の経済レベルから見たら正力のごり押しだったと思います。ごり押しとも言えるけれども、結果的に見ればそれがまた朝鮮動乱以降の経済復興の動きとも絡んでいたと思うし、日本人そのもののイデオロギー環境の変革を促したわけですよね。初めNHKが開始して、受信契約三百台ぐらいしかなかったときに、少し遅れてコマーシャルをどんどん入れた広告収入だけの民放テレビNTVが発足した。正力は街頭テレビという手で不特定多数の都市消費者を獲得し、見事に初期を切り抜けた。
 戦後経済は解放まもない50年代後半から復興し、60年代になると戦前の水準を完全に抜き去ることになります。洗濯機、冷蔵庫に加えて白黒テレビが“3種の神器”といわれ、大衆がその購入に狂奔しました。テレビのアンテナが林立するやまもなく、日本の社会主義は急速に衰退します。要するにテレビの開局というものは、日本人の消費意識を変え、日本を大衆消費社会にした大きなファクターである。これによって脱イデオロギー化が進みますね。それからテレビの普及は広告の力を大きくします。一九七五年にテレビの広告収入が新聞を上回ります。そのあたりから完全に、メディアの世界では広告の多寡がメディアの経営を大きく左右するようになってきている行くわけですが、やはりそういう動きは民放テレビの誕生なくしては不可能だったわけです。
 テレビ開局時に推進派が時期尚早派を論破するために主張したテレビは民主化を促すというか、幸せを生み出すという、これはやはりCIE的な考え方だと思うんですね。占領から解放されると同時に、テレビを通じアメリカの生活様式にどっぷり浸された。つまり占領期にはCIEやCCDが日本人の変革を図った。占領末期にはそれらにCIA的な戦略が加わって、独立後の日本のアメリカ離れ防止策が練られた。それがテレビの急速な普及でものの見事に奏功したわけです。
 これが本当に解放だったのか。アメリカ的な思考様式、文化が浸透して、今も残って抜け切れずにいるわけです。いやアメリカニゼーションは日本人の心理の深層や行動の細部に浸透した。一九七〇年代に一挙に進んだ脱イデオロギー化、消費社会、市民社会化を方向づけるものになった。こうした視点からテレビ50年史を振り返ると、NHKよりも、むしろ私は日本テレビという民放の開局の意味の方が大きかったと思うんです。
  その関連で言えばアメリカの映画もそうだし、漫画もそうですね。占領期の『週刊朝日』に載った「ブロンディ」といった、アメリカの生活様式を賛美したもの。賛美というよりも、それがそのままアメリカの姿だったんだけど。アメリカの映画、あるいは先ほど言った子供向けのナトコ映画。よく言われるんだけれども、そこにさりげなく登場する消費生活に飢餓に苦しむ当時の読者はよだれをたらす。冷蔵庫の中身を見てたまげるわけですね。あんな豪華な食品をアメリカではみんな日常的に使っているのか、と。そういう消費社会への夢をいろいろな形で刷り込んで、あるいは写して、メディアは結局日本人をアメリカ好きにさせていくんですね。
 

■戦前からあったアメリカへの憧れ
  ただ、そのアメリカ的なものへの憧れは、占領期に急に生まれたというわけではありません。私は『日本人捕虜は何をしゃべったか』で紹介したのですが、捕虜の尋問の記録などを見ると、やはり「アメリカは元々好きだ」とか言っているんですよね。ハリウッドのあれが好きだったとか、クルマに圧倒されたとか。中国でつかまった捕虜は抵抗するけれども、アメリカ軍にはすぐにペラペラ自供する。当初アメリカは日本兵捕虜がうそを言っていると思っていた。ところが全てに真実とわかると、神風特攻隊に攻撃されて時と同じくらいの驚きようを示した。
アラブでも、今だって基本的にはアメリカが好きなんだ。ソ連だって東欧だって、崩壊したらあっという間に、アメリカ的になっていくでしょう。やはりそういう豊かで開放的な、カウボーイ的世界というか。ああいうものへの憧れは伏流として戦前にも日本ではあるわけですね。
  それが、戦争中の一時期だけ抑圧されていたんだけれども、戦後は一気に解放されますよね。それは、占領初期はせいぜい映画を楽しむぐらいしか余裕はなかったんだけれども、実際自分でテレビを買えるようになったり、クルマに乗れ出したりすると、本当にアメリカ化の流れはどうしようもないですよ。日高六郎さんが盛んに「若者の保守化」を嘆いたって、警告したって、それはもう時代の転換を引き戻されませんよね。そうした転換つまりソ連を離れてアメリカに入っていく、「脱ソ入米」という状況はいつからかと言えば、それがいつからどこから計算されていたのかはともかくとして、戦前から伏流していたものを、占領期にCIEあたりが盛んに動いて顕在化させたのだと思うんです。
  民衆の側にもアメリカ的なものを受け入れたいという思いが、どこかにあった。戦前の貧しい時代をみんな経験して、戦争、敗戦によってもっとひどい状態になった中で、アメリカ文化はみんなの垂涎の的になったわけです。いくら日本共産党が対抗的言説を吐いても無理だったでしょう。共産党側も占領期にソ連がすばらしいと盛んにやったわけですよ。ソ連側も積極的に映画を日本で公開してやった。ソ連は本当に労働者の天国だとか、生活が保障されているとか、失業はないとかといっても。大衆はアメリカ消費文化の背後には、ソ連にない自由があると見抜いていたわけです。
 最初は裏で右翼とか軍国主義者が暗躍しているのではないかと思ったり、後半は、ソ連から工作員が入ってきたり、共産党と連携して進入するんじゃないかと心配した、GHQとくにCCDの心配は杞憂であることが分かった。検閲を通じ、そういう基本的な情報を入手、分析しながら、日本人は面従腹背ではなくて、本当にアメリカが好きだというのをわかってきます。それほど心配しないとわかってきても、やはり占領者としての心配がある。いつ日本人はソ連に寝返るかもしれないと・・・。そこでソ連に対抗しながらアメリカは日本経済の再建に協力するとともに、メディアなどでアメリカに好感を抱く政治的土壌を培養するというやり方に力を入れるわけですね。
  私は正力と松下幸之助が戦後の政治や社会の立役者だと思っているんです。吉田茂といった政治家とはまた別の次元でね。メディアの世界では、やはり正力が一番だと。そして、財界ではやはり松下幸之助の水道理論とか松下イズムが光ます。安くていいものをたくさんつくって、豊かになろうという、PHP(Peace and Happiness through Prosperity)という発想と実践。これはやはりすごかったと思います。松下は受信機で日本のテレビを普及させたし、スポンサーとして民放テレビを育てたわけです。つまり正力と松下は戦後史が生んだ双子の兄弟であるともいえます。
  
■温存して利用されたメディア
  ですから、結局占領が終わっても、反米的な発言が高まるということはなかった。CIE、CCDの他に、もう一つCCS(Civil Communication Section)、民間通信局と言っていますが、これが電波を管理していたんです。ここでは、NHKを全くファシズムの道具となって、何の見識もなくてただ軍部の放送をやっていたと捉えていた。NHKはジャーナリズムとしての誇りとか見識の感じも何もない、新聞なんかよりもはるかにひどいということで、初めはNHKを廃止し、ラジオを全て民放化しようという動きがあった。けれども、広告がとれるような経済状況でもないし、結局NHKを使った方が日本人をコントロールしやすいということで、結局民放はつくらなかったんです。ただ、経済が復活すればNHK一本ではなくて民放も入れた並存方式にしようと決めていた。それで占領後期の一九五一年に民放のラジオ局をつくるんです。
  占領終了間際になると、アメリカは電波監理委員会なる行政委員会をつくって放送を国家統制から防御しようということになった。昔のような、逓信省(戦後は郵政省)の御用放送局に歯止めをかけるには、そういう官庁から離れた第三者の行政委員会方式にして、その機関が放送のコントロールを行おうと。これはGHQが抵抗する吉田内閣に命じてやったんですよ。それは、やはり解放後の反動が多少は怖かったわけでしょうね。
  ところが、やはりもうアメリカ化の流れは逆流しなかった。確かにその委員会は、独立すると同時に吉田内閣が廃止して、元のように放送は郵政省の管轄にしてしまったんです。そういう動きが一部にあったことは事実です。ところが既にアメリカから見るともう去勢手術が終っていた。日本人は絶対に反米にはならないという、これはもう確信に近いですよ。議会の3分の1は社会党が占めているが、それは共産党とは一線を画している。ソ連に近いような共産党の連中も残るけれども、それは絶対にマジョリティにはならないという計算ですね。だから、安心して占領を終えることができたんじゃないでしょうか。
  結局、メディアは天皇と同じですよ。天皇を温存させるのがよかったのと同じように、メディアそのものも旧体制の仕組みをいじくらずに残している。映画ではアメリカ映画をどんどん入れるとかいろいろな形でアメリカの血を加えた。そして新たな民放メディアも入れて、それはむしろアメリカ側の技術、経営方式でやった。 
 日本人にとって解放、独立ということにそれほどの喜び、感慨はなかったのか、既にそれは連続線上で動いているような感じでした。私もその時の記憶があるんだけれども、それがどれほどだったのか。その一九五二年のときに学校の先生が言いましたよ、「完全に独立したよ」とかいって。が学校でも村でも祝賀イベントがなかった。記憶はあるけれども、子供心でもそれほど強いインパクトがなかったような感じがします。そのあたりはもう、敗戦のときのような断絶というか、虚無感というような不連続的なものもなくて、いわばオートマチックギアみたいなもので、ずっとそのまま現在に至っているのではないでしょうか。


(二〇〇五年五月十三日 於:早稲田大学 山本研究室)





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