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朝日新聞の中国侵略


一、 朝日新聞社の「汚点」
 朝日新聞社は創刊111周年の1990年に浩瀚な4巻本の『朝日新聞社史』(以下『社史』)を公刊した。中江利忠社長(当時)はその「序」のなかで、「公平無私」や「不偏不党」の編集方針で言論の自由を貫き、真実の報道と進歩的な評論を展開して来たが、この長い111年の歴史の中には「残念ながら、太平洋戦争の一時期などのように、この創刊以来の伝統が守り切れなかったり、逸脱して大きな汚点を残したりした事実も、消すことができません」と述べている。
 たしかにこの期に日本は有史以来、はじめての敗戦を喫したのであるから、『社史』のなかで「大正・昭和戦前編」の巻が近現代史の中での同紙の評価を自ら問うものとなっている。最有力紙として日本の開戦に賛成し、国民を戦争に駆り立て、国内外の多くの人命や財産をなくし、外国による占領という不名誉な事態を導いた責任は厳しく自己評価しなければならない。
 自らの戦争責任については、すでに同紙は従来の社史でかなり率直に分析し、反省の姿勢を示している。今回の社史においても、その姿勢は貫かれている。各時点の同社の行動について、今まで以上に新しい資料が公開され、分析にも踏み込みが見られる。
 しかし社長が「序」で言っている「汚点」を抉り出し、「過ちは過ちとして包み隠さず記述」しているだろうか。この小論ではこの700ページになんなんとする「大正・昭和戦前編」を論じ尽くすことは出来ない。そこで、この巻の「昭和戦前編」の第9章「総力戦に協力」にある第5節「南方と大陸の新聞経営」の末尾の実質1ページの箇所のみを取り上げてみたい。1942年秋から占領地で『ジャワ新聞』、『香港日報』などを軍当局の委託を受けて経営していたことは、同社のどの社史でも触れているが、小論が対象とする「大陸新報と新申報」については今回の『社史』で初登場したものである。そこでまずその全文を引用してお(1)く。
 
 昭和十四年元日創刊の「大陸新報」は、華中における日本の国策新聞で、陸軍、海軍、外務三省と興亜院の後援で設立、本社を上海においた。朝日から相当の人員が大陸新報に転じた。これは朝日が軍から委託されて経営したのではなく、朝日が新聞経営に協力したのであった。その点で、ジャワ新聞などとは発足のときから性格を異にしていた。朝日はアール・ホー高速輪転機二台とオートプレート一台を貸与した。また、大陸新報社は、現地軍報道部が発行していた華字紙「新申報」を合併して姉妹紙とした。
 「大陸新報」設立時の事情について、美土路昌一(当時、朝日新聞常務取締役・東京本社編輯局長)の話は要旨つぎのとおりである。
 昭和十二年末の南京占領の後と思う。陸軍の影佐軍務課長が朝日新聞社に来て、「軍の考えで上海で新聞を出したいが、朝日でやってくれんか」といったが、断った。その後福家俊一が甘粕正彦の使いで来て「海軍も一緒で宣撫工作として新聞を出したい」という。「それでは、朝日は関係はしないが、新聞を出す手伝いをしよう」といった。私が「そもそも新聞は自主的なものでなくてはいかん。御用新聞は現に上海でも北京でも役に立っておらぬではないか。軍の悪いことは悪いと書かなければ本当の役には立たない」といったら、影佐も海軍の岡軍務局第一課長も「それで結構だ」といった。そうして、朝日が手伝いをすることになったわけだ。福家を社長にしたら飛上って喜んだ。……そんな風で“自主民営”を創立方針として出発したわけだが、あのような時勢でもあり、必ずしもその通りにはゆかなかった。そのうち福家をやめさせて副社長の尾坂与市(朝日出身)を社長にした。尾坂君は立派な男だった。上海でも大分軍にたてついたそうだ。終戦後もみんなを帰して一番あとまで残った。
 終戦の八月十五日の午後、武漢の「大陸新報」は徹底抗戦の社説を書き、軍報道部へゲラを提出した。報道部はやめるよう説得につとめたが、支社長(朝日出身ではない)は「命がけで書いたのだ」と応ぜず、けっきょく軍としては「検閲不許可」にしてしまった。十六日の社説は空白のままであった。
 以上が南方および中国での朝日関係の新聞であったが、戦後、美土路は、「私は戦時中の御用新聞発行には反対だった。しかし当時、私にはそのことで相談もなかった。相談しても賛成すまいということだったろう。村山、緒方、石井君らで決定していたようだ。それは日本が勝ち、南方地域が日本の勢力範囲に入れば、ますます朝日新聞が発展することになる、部数がふえるという感覚であったのだろう。大陸新報は私が関係したが、これは別で意味が違うと思う」と語っている。

二、 華中の『大陸新報』
『大陸新報』は1939年(昭和14)1月1日に上海で創刊された。創刊号の第1面を見ると、内閣総理大臣近衛文麿、陸軍大臣板垣征四郎、海軍大臣米内光政、外務大臣有田八郎の「発刊を祝す」が写真入りで大きく掲載されている。第2面トップには天皇・皇后の「御近影」がある。『社史』がいうように、陸海軍、外務省肝いりの日本の「国策新聞」であることが、この紙面構成から見て取れる。
 また第1面の「創刊の辞」によれば、「容共抗日政権」つまり蒋介石の国民党政権の運命は「防共戦線」への日本帝国の参戦によってもはや崩壊寸前にある。「日・満・支三国の真の融和提携」という日本の大陸政策こそが「亜細亜の全域に永遠の平和と繁栄」をもたらす。この大陸政策の成否がまさに帝国百年の運命を決する。そこでこの国策に沿って『大陸新報』が創刊された。そもそも上海の地は支那の心臓部に位置する要衝である。過去一世紀、白人諸国は全てこの地を拠点として支那を搾取してきた、という。
 
 故に久しい以前から、この国際的要地である上海に権威ある言論機関を創設して、広く国民各層の対支認識を深め、外に向つては、多年蒋蒋軍閥の誤れる指導下に、頑愚なる排日の迷妄に堕した支那民衆の覚醒を促し、同時に一般外人に対しても、帝国国策の真意と実相とを諒解せしむることの必要が各方面において痛感されてゐたが、これ等の要望に応へ更に時局の重大性に鑑みて、真に国策推進の一翼たる強い信念を以て創刊された『大陸新報』が、特にこの地を選んで本拠とした所以も実にそこにあるのである。
 
 ここでも『大陸新報』は華中の要衝の上海に創刊された日本帝国の「国策新聞」であることが再び強調される。1937年7月に支那事変を起こし、上海、南京、武漢を占領した日本軍が中国本土の支配に向けて前進しようとして意気盛んだったのが、創刊された時期であった。
 陸軍省情報部は中支派遣軍参謀長に1938年11月3日付けで暗号電(2)報を送り、その中で上海に新たに日本語新聞を設立するとし、
 一、 本新聞設立後適当ノ時機迄、概ネ月額二万五千円以内ノ補助ヲ与フ
 二、 前号ノ補助ハ之ヲ対支院ノ予算ニテ支弁スル如ク措置スルモノトシ、対支院設立迄ハ暫定措置トシテ陸海外三省ニ於テ之ヲ支出ス。三省ノ支出ニ関シテハ別ニ定ム
 と、費用は対支院(興亜院の前身)が支払うが、それが発足するまでは、陸軍、海軍、外務省が分担することになったと伝えた。三省間での設立決定から創刊までは二ケ月の短期間であった。
 板垣陸相はその祝辞のなかで、「貴社の使命を達成するには、日本の新聞であると同時に中国民衆の新聞であるとの自覚と雄大なる意図」をもって、新支那を建設し、日満支の関係を強化する気運を醸成せよとの檄を飛ばしている。『大陸新報』が日本人だけでなく中国人の読者に支持され、愛読される新聞になることを板垣は希望していることに注意したい。
 従来の中小の商人、旅館・遊興飲食店経営者、従業員などに加え、会社銀行員、商社員、役人などの日本人がこの国際都市に渡ってきた。共同租界を中心に日本人居住地域は上海事変以降膨張した。同紙創刊当時、上海、南京、武漢など華中、揚子江流域の日本人居留民は5万4千人いたが、1942年には15万6千人と三倍弱の増加となった。1942年の上海は9万7千人であった。(3)無視できないのは軍人、軍属の数で、それは居留民の数に匹敵したと思われる。中国語のリテラシーの低いかれら居留民、軍人は中国よりも日本の情報を日本語新聞に求めていた。そのため大小の日本語新聞が上海に育っていた。
 しかし上海事変の頃には『上海毎日新聞』、『上海日報』、『上海日日新聞』の三大紙が市内で鼎立していた。『大陸新報』は『上海日報』を買収し、改題したものである。先の「創刊の辞」は、上海の日本語新聞の中で最古の歴史をもち、広く各方面に信用を博していた『上海日報』が社長波多博の「没我的犠牲心」によって譲渡されたことに感謝の気持ちを表している。波多は後述の梅機関における民間側顧問の一人である。なお、この『大陸新報』創刊時に『上海日日』は廃刊した。また『上海毎日』は上海の地方紙になった。
 『社史』の記述に関し、次に注目したいのは、同紙と朝日新聞社との関係である。太平洋戦争時、朝日新聞社は『ジャワ新聞』と『ボルネオ新聞』の経営を担当したが、経営担当の専務取締役であった石井光次郎は、1943年の「社内報」で「この南方新聞は二つとも経営の上から見ますると金を食ふばかりの仕事であります。しかしはじめからその覚悟の上で引受けたことでありまして、特殊経営をやりまして、なほ且つ生ずる不足については軍の援助を受けつつ、朝日新聞社が責任をもつてこの仕事をつづけて行くつもりでありま(4)す」と述べている。占領地の軍政を行う陸海軍から委託されて経営を行う「南方新聞」の場合には、いずれも発行部数は僅少であったが、赤字の多くは軍が補填してくれた。しかも『毎日新聞』はフィリピン、『読売新聞』はビルマを中心に新聞発行を軍から受託していた。ライバル紙との関係で、ある程度の持ち出しは覚悟せざるを得なかった。
 美土路のいう「御用新聞」である「南方新聞」とは違って、朝日新聞社が『大陸新報』の「経営に協力」したという『社史』の記述はどういう意味であろうか。『大陸新報』創刊号の第3面には、大阪毎日新聞社長奥村信太郎、読売新聞社長正力松太郎、同盟通信社長岩永裕吉の祝電と並んで、朝日新聞社長上野精一の祝電が出ているが、上野の分量は他社の3倍もある。また同日の第18面には『週刊朝日』、『アサヒグラフ』など朝日新聞社の雑誌、書籍の全面広告が掲載されている。ところが、他紙の出版広告はない。『朝日新聞出版局史』によれば、大陸新報社から委嘱され、同紙出版局が華文の『大陸画刊』を1940年11月号から1945年4月号まで編集、発行した。同誌は中国占領地域の宣撫のためのグラフ雑誌で、『アサヒグラフ』編集部の二〜三人がかかわってい(5)た。
 『社史』には『大陸新報』に「相当の人員」を出したとあるのに、当時の「社報」や「社員名簿」あるいは「写真帖」のどこにも転出先としての『大陸新報』の名前が出てこない。一方「南方新聞」や南方支局の活動や出向人事については、頻出する。また1944年に軍から同社に経営を委託された『香港日報』の関係者もかなり出てくる。こうなると、同社から『大陸新報』への出向ないし転社は社内でも秘匿されたものではないかとの疑問が湧いてくる。
 ところが冒頭引用の『社史』には同社出身の『大陸新報』関係者がただ一人登場する。その人物の名は尾坂与市であるが、彼と『大陸新報』の関係を示すのは『社史』ではその一回だけである。彼は1934年に東京本社社会部長として登場しているし、1939年1月の「写真帖」でも同職にあることが記載されている。若くして要職に五年間も就いていた彼は『大陸新報』に転出したとたん、筆者の持っている同社資料の中では、1944年9月1日現在の「社員名簿」に社友の肩書で一行あらわれるだけだ。『大陸新報』社長としての肩書きは出ていない。しかしながら当時の社友は下村宏(海南、のち鈴木貫太郎内閣国務相兼内閣情報局総裁)、緒方竹虎(当時、小磯内閣国務相兼内閣情報局総裁、戦後、吉田内閣副総理)ら六人しかいなく、彼がその中の一人である。元副社長と並んで最高幹部OBとして処遇されていることがわかる。
 『社史』収録の美土路談話によると、朝日新聞社幹部あるいは美土路自身が相談を受けたとき、「福家を社長にしたら飛上って喜んだ」とあり、そして彼を辞めさせて尾坂を社長にしたのも彼らであったという。つまりこの談話は『大陸新報』の社長を指名したり、交代させたりする人事権を朝日新聞社が持っていたことを示唆している。だが、先の陸軍省情報部の暗号電報では、「新聞発行ノ許可ハ福家俊一ヲ当事者トシ、経営並ニ編輯言論機関ノ代表ハ木下猛トス」と指示している。木下は朝日上海支局(6)長であったが、退社し、『大陸新報』の社長に就任した。
 ここに「当事者」として登場する福家は伝記風回顧録で、25歳のとき『大陸新報』の社長として招かれ、満州から上海に赴任したが、彼はその赴任前に東京の朝日新聞社を訪ね、緒方主筆、美土路、石井の三人に会った。そして彼の協力要請に対し、村山長挙社長も加わって緊急会議が開かれ、朝日新聞の全面的協力の回答が伝えられたという。さらに福家はこう述べている。
 
 編集面は東京本社、印刷、営業面は大阪本社が協力するという具体案まですぐに示され、緒方主筆がさっそく題字の筆をとった。初代の大陸新報編集局長に、朝日新聞南京支局長の森山喬(のち電通副社長)が迎えられた。また朝日の上海総ママ局次長をしていた橋本登美三郎(現在自民党幹事長)が相談役を兼任し、政治部長のポストには戸叶武(現在参議院議員)が就いた。この顔ぶれを見ただけでも、朝日新聞の絶大な協力ぶりがうかがわれる。以来、彼は東京に帰る度に朝日新聞社を訪れてはなにかと相談をしてい(7)た。
 
 橋本は自伝で上海時代を振り返る際、『大陸新報』やその関係者について何も語っていな(8)い。しかし戸叶は1940年4月に同社に移り、政治部長を勤めたと福家の回想を裏付けている。さらに論説委員を兼任し、妻里子も記者であったとも言ってい(9)る。また戸叶の追悼集で、元『朝日新聞』の同僚帷子勝雄は戸叶、猿山儀三郎、帷子の三人が同紙に移ったが、「戸叶を大陸新報の当時の社長福家俊一に紹介したのは橋本登美三郎(上海支局次長)であった。私と猿山は斎藤寅郎が紹介」と述べてい(10)る。斎藤は社会部員であった。こうして見ると、戸叶ら三人は社の正式の人事異動でなく、同僚社員のコネで転出したらしい。社の幹部がその転出を直接勧誘しなかったかもしれないが、好意的に受けとめる暗黙の雰囲気が社内にあったと推測される。しかし人事上では彼らは同社の退職扱いだったのであろう。だからこそ1939年の社員名簿にあった彼らの名前が、それ以降の名簿から消えたわけである。「暗号電報」に出る木下、『社史』に出る尾坂と福家回想にある南京支局長森山を加えれば、『朝日新聞』から『大陸新報』に移った記者は全部で六人ということになる。『大阪朝日』から転出したと思われる営業・印刷関係者の名前、人数はわからない。その人数は『社史』の言うように「相当の人員」で、とくに中堅記者が『大陸新報』に移り、同紙の要職に就いたことはたしかである。現役の上海、南京支局長の横すべりは、両紙の関係が創刊当初から緊密であったことを如実に示している。なお当時の『大陸新報』の社員数はわからない。
 ところで先の『社史』の美土路談話には、福家が甘粕正彦(大杉栄殺害の憲兵大尉、満洲に渡り満洲映画協会理事長)の使いで来て、「海軍も一緒で宣撫工作として新聞を出したい」といったとある。しかし福家は甘粕や海軍については何も語っていない。ともかく彼が緒方、美土路ら朝日幹部に編集上での協力方を依頼したことはたしかである。そして1939年9月に同紙の海外特電が本紙と系列三紙に掲載されることになった。また初代社長の木下猛が病気で引退し、同年10月に取締役会長の福家が社長となった。翌1940年1月、朝日新聞社編集局参与の尾坂が将来の社長含みで副社長として入社し(11)た。尾坂は社会部長から参与に格上げされて朝日新聞社を退社したことがわかる。なお彼の直属の上司が美土路東京朝日編集局長であった。
 『大陸新報』は1943年2月1日に『上海毎日新聞』と合併し、「中支那における唯一の邦字新聞として新発足」したことを社告した。これは本土や満洲などでの軍部による新聞統合の一環で、先の暗号電報が示唆していたものである。また1939年5月27日に漢口支社から『漢口日日新聞』を買収、改題した『武漢大陸新報』、さらに同年8月26日に南京支社から『南京大陸新報』をそれぞれ創刊(12)した。また両紙に遅れて『徐州大陸新報』を創刊している。このうち『徐州大陸新報』は1944年8月末までの発行を確認しているが、徐州の軍事的緊張下で他紙ほど長続きしなかったようだ。他の三紙は終戦時まで続いた。ともかく最盛期には揚子江流域とその近くの日本軍支配都市四拠点で「大陸新報」という題字の入った四紙が刊行された。
 『大陸新報』は上海では1944年までは1週に2〜3日が4ページ、その他の日は2ページ体制であった。創刊時には夕刊を週数回出している。上海の同紙は記事、広告ともに多様、豊富で、本土の県紙レベルのまとまった紙面構成を取っている。同時期最も近代化されている海外日本語新聞と思われるロス・アンジェルスの『羅府新報』に比べて、あらゆる点で移民新聞の色彩がない。『朝日新聞』などのベテラン記者の主導で日本的スタイルの編集を行ったことがうかがえる。「東京支社発」「東京電話」といった記事がたまに出るが、「朝日特電」といったものはない。同盟電が本土、海外記事のほぼ全てである。リスボンやストックホルム、東京などからの同盟電は四紙第1面に共通して掲載されたことが多い。いずれも事件が起きてから掲載されるまでの時間が短い。朝日新聞社貸与の輪転機による印刷は鮮明である。広告は売薬、食品など本土の大手が登場する他、地元の商店、旅館、飲食店、病院など居留民にとって生活上不可欠なものが目立つ。
 ページ数は『大陸新報』、『南京大陸新報』、『武漢大陸新報』、『徐州大陸新報』の順に少なくなっている。そしてこの順番で記事、広告が少なく、逆に戦況記事の比率が高くなる。つまり一般紙の色合いが弱まり、逆に陣中新聞のそれが強まっている。たとえば1944年8月下旬の紙面を4紙で比較すると、17日と22日の南京と上海の社説は同じである。少なくとも南京は上海から電送で第1面記事を毎日受信していた。一方19日の上海の社説が22日に徐州で掲載されている。上海と徐州間では記事は電送でなく、郵送されていたのかもしれない。しかし各紙が独自に社説やコラムをつくることも少なくなかった。また第2面からは地域に密着した戦況記事や文化ニュースが出ている。南京、武漢ばかりか徐州でも専任の記者を雇って独自取材を行い、地元読者のニーズに応えようとしていたことがわかる。その際、軍の報道部の協力があったことは確かである。
 福家によれば、同紙は日本人だけでなく、中国人の一部にも読まれ、南京、漢口での印刷部数は多いときで十万部に達(13)した。

三、 華字紙『新申報』
 『社史』にある『新申報』に関する記述は「大陸新報社は、現地軍報道部が発行していた華字紙『新申報』を合併して姉妹紙とした」とたった1行である。先の『大陸新報』創刊号での板垣陸相の祝辞に「貴社は更に近く漢字英字の両紙を発刊し、中南支各地に配給せんと企画して居る」とある。英字紙はすぐには創刊されなかった(パールハーバー直後、アメリカ籍のShanghai Evening Post&Mercuryが接収され、Shanghai Evening Postと改題され、陸軍の御用紙となる−−『新聞総覧』昭和18年版)が、4ヵ月後の1939年4月29日に予告通り華字紙『新申報』は『大陸新報』に合併された。その日の社告は「新申報併合宣言!興亜の大理想へ躍進、本社の威力漢字紙並行発刊」との大見出しで次の文章を掲げた。
 
 大陸新報社は四月二十九日天長の佳節を期し、茲に新申報の併合を内外に宣言する。大陸新報社は大陸に於ける邦人の先駆的言論機関たると共に、支那民衆の指導的啓蒙機関たることを創立の使命とし、大陸新報と並行して有力なる漢字新聞発行を重要任務の一つとして標榜し来つたが、新申報の併合によりこの抱負を理想的な形に於て実現し得ることを衷心より喜びとするものである。新申報は事変勃発後、軍報道部直轄の漢字新聞として砲弾下凡ゆる困難を排し、中支方面に於ける対支宣伝機関たるの重要役割を果し来つたが、大陸新報社との併合により、向後は更に恒久的基礎の上に立つて従来の伝統を発展せしめつつ、支那民心建設と日支提携の精神的楔子たる比類なき任務を愈よ有効に遂行し得るであらう。思ふに東亜新秩序といひ、東亜協同体の建設といふも、日支両民族が共同の精神的基礎の上に立つて、積極的に協力するに非ずんば、之が達成は不可能である。大陸新報社は新たに来り参ずる新申報同志と相携えて、各自の分野に於て公正なる輿論と誠実なる主張を代表して、日支民衆の精神的理解融合に全力を傾注し、興亜の大理想建設の文化的一翼を担任せんことを改めてこの機会に誓ふものである。
     昭和十四年四月二十九日大陸新報社 
 
 『大陸新報』が日本人向けの言論機関であるのに対し、『新申報』は「支那民衆の指導的啓蒙機関」として位置づけていることがわかる。そしてこの併合は日本人と中国人の「精神的理解融合」をめざし、「興亜の大理想建設の文化的一翼を担任」すると締めくくっている。
 この社告の横に支那派遣軍報道部長をしていた馬淵逸雄中佐の写真入り談話が大きく掲げてある。そこには創刊時に、同紙を販売する中国人に対する脅迫がひどかったとある。この馬淵が二年後、陸軍報道部長に栄転したときに刊行した『報道戦線』には、同紙創刊の事情がより詳しく記述されている。それによると、上海事変勃発当時、上海には大小三十に近い華字紙があって、猛烈な抗日的態度を示していた。「口では日本帝国の真意を支那人に闡明すると云つても、日本の考へを支那人に知らせる手段なく、戦闘には勝ちながら敵側の戦勝デマを拱手しきようしゆ て見て居なければならないといふ有様で、華字によつて支那人に呼びかけるべく、日本側の手によつて華字紙を発行するといふ事が絶対に必要であつ(14)た」。
 そこで『上海日日』が発行していた華字紙の工場と人員を買収し、軍直営とし(15)た。一流の華字紙である『新聞報』と『申報』の文字を併せ持った『新申報』という名で1937年10月1日に軍報道部自身が刊行することになった。南京、蘇州、上海等の中国人要人に宣伝用に郵送したが、このような「非愛国の文字を見るに忍びず」と朱書して返送してきた者があった。そこで飛行機によって中国の戦線に撒布し、抗日将兵に日本のニュースを読ませようとしたという。
 東亜同文書院の久重福三郎教授が副社長格で入り、半年間で百回の論説を書いた。また久重教授の教え子の『上海日報』記者日高清磨瑳が1938年6月から編集局長となって、紙面を変革し、中国人社員を統率した。もちろん軍は補助金を出して『新申報』の育成に努力していた。さらに馬淵はつづける。
 
 「新申報」の経営一年半、その販路は上海のみならず蘇州、杭州、南京等江蘇、浙江各地に及び、購読者も一万以上に達し、社業の基礎は固まつたのであるが、更に之を本格的に一大華字紙として発展させる為には、軍直営の形より民営のしかも専門家に委託する方が適当であると云ふので、「新申報」の持つ使命はそのまま存続し、その経営を『大陸新報』に委託することに決したのであ(16)る。
 
 馬淵によれば、『新申報』は汪精衛政権が確立するとともに、「和平親日」の中国人に愛読され、その発行部数は約8万を数えるほどに発展したという。なお『大陸新報』とは違い、同紙は上海以外では発行されなかった。
 しかし漢口占領の二日後、日本軍は『武漢報』を創刊した。新聞に必要な機材をもって進軍していたらし(17)い。『大陸新報』の論説や記事は上海の外字紙や華字紙に翻訳され、影響力があったが、中国民衆への直接的な浸透力では華字紙に優るものはなかった。また華字紙の印刷所は新聞発行以外にも、宣撫用のビラやポスターの随時発行に重宝であった。

四、 緒方竹虎と影佐禎昭
 『大陸新報』創刊当時の緒方竹虎は朝日新聞社の専務取締役で、東京、大阪本社の主筆を兼任していた。彼は1911年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業と同時に、大阪朝日新聞社に入社した。1920年イギリスに自費留学。帰国後、東京朝日整理部長、政治部長、支那部長を歴任し、1925年に数えで38歳の若さで東京朝日編集局長となった彼は、1936年に東西の一人制主筆として「社論ヲ定メ筆政ヲ掌ル」(朝日新聞主筆規定)こととなった。つまり同紙東西の編集部門を「筆政」で統括する全権を握っていた。経営面でも1928年取締役、1934年東京朝日新聞主筆、常務取締役、1936年主筆、専務取締役、代表取締役となり、大株主(村山家、上野家)以外の最初の社長との呼び声が高かった。軍の新聞統制の流れに乗って彼と石井は大株主の議決権行使を制限し、資本と経営を分離する定款改正を図ったところ、筆頭株主の村山長挙社長の逆鱗にふれ、1943年に副社長に棚上げされた。
 1944年に辞任して、小磯内閣国務相兼情報局総裁になったことは意外と思われるが、陸軍の小磯国昭、杉山元や海軍の米内光政、山本五十六といった軍部の要人と長く、深い交流があったためであるし、また1937年に内閣情報部参与、1943年情報局参与といった情報関係やその他の政府委員を歴任して、実績があったことも与っていた。各種の和平工作を『朝日新聞』時代や情報局時代から行ったことから推測されるように、国士的風貌の中に国際的な情報あるいは戦略に関心を抱き、実行に移す日本のジャーナリストとしては珍しい人物であった。
 緒方は中国とくに日中戦争の処理について深い関心を寄せていた。1934年に社内で東亜問題調査会を設置し、その二代目会長になった。その調査会内の常任幹事は東京本社論説委員の大西斎、幹事は大阪本社東亜部長の神尾茂であった。尾崎秀実、嘉治隆一、武内文彬、太田宇之助、益田豊彦がその下に配置され(18)た。その会への外部からの参加者が多彩であった。外務省情報部長河相達夫、大本営陸軍部課長陸軍大佐渡左近、陸軍省課長陸軍大佐影佐禎昭、大本営海軍部海軍大佐山田定義など情報、諜報、戦略を扱う外務、陸・海軍の若いリーダーと同紙ならびに緒方との交流の場となっていた。筆禍が多く、軍部ににらまれる朝日を守るために緒方は将来のエリートに接近する場を演出したが、軍人側でも情報入手や世論操作のため同紙や彼を利用しようとした。実際にこの調査会設置は同紙が「国策」の策定という現実路線に積極的に関与し、それに協力して行く最初の転換点となっ(19)た。
 ここに出る影佐禎昭は調査会参加を契機に緒方との親交を深めたのであろう。彼は、『社史』によれば、南京陥落直後から『大陸新報』への朝日側の経営参加を呼びかけてきたという。そのときは断ったが、次の甘粕正彦の紹介による福家俊一の緒方らへの接触が同社に参加決断をさせた契機となったらしい。若輩の満洲浪人にすぎない福家の申し出だけだったら、緒方らが真剣に検討し、実行に移したと思われない。それ以前の影佐の打診があったからこそ実現したのであろう。
 影佐は陸軍の中国関係の情報、謀略部門の中堅リーダーとして台頭していた。1920年に陸軍大学校を恩賜の軍刀を受けて卒業後、参謀本部に入る。帝国大学法学部政治学科で三ヵ年学ぶ。その後中国研究員、参謀本部、上海の中国大使館付武官補佐官を経て1937年参謀本部支那課長、1938年陸軍省軍務課長となっ(20)た。
 影佐の中国とくに上海での人脈、専門知識を軍上層部は評価していた。それが上海事変後の最大の懸案であった汪精衛政権樹立工作に軍と彼を動かした。その際の彼の指揮する工作機関は梅機関と呼ばれていた。彼が戦中ラバウルでまとめた「曾走路我記(そぞろがき)」という回想記の中に「梅機関に就て」という以下の記述があ(21)る。
 
 汪氏が上海に落ちついた後も、自分達は引続き汪氏の運動の援助並に日本側との連絡の任務を与へられたので、事務所を北四川路に設置してこれを梅華堂と命名した。開館当時の梅華堂同人は陸軍側からは自分及一田中佐(後日谷萩大佐と交代す)、岡田陸軍主計中佐、晴気中佐、塚本少佐、大村主計少佐等、海軍側からは須賀少将及扇少佐、外務省からは矢野書記官及清水書記官、その他民間側より犬養健君等であつたが、爾後各省より逐次人員を増派せられた外、我々の運動に自発的に協力を申込んで来た真面目なる人もあり、又自分等より参加を要望した人もあり、多い時には三十名を越したことがある。その主なるものは民間側からは台北大学教授北山富久次郎氏、経済研究者末広幸次郎氏、朝日新聞社客員神尾茂氏、前上海日報社長波多博氏等、外務省からは太田書記官、杉原書記官、中根領事、興亜院の岡田陸軍主計中佐、小地筧氏等である。右人員の中晴気中佐及塚本少佐は従来の人的関係もあり、引続き丁黙邨氏等の工作に協力した。其他各新聞社の上海特派員中有力なる者が自分等の外廓団体として自発的に自分達の仕事に協力して呉れ、異論を有する幾多日本言論界の人々を説得するに努めて呉れた事は、自分の忘却し難い所である。加之幾多自分の知己、未知の人々が陰に陽に自分の事業を援助し激励してくれたことは寔 まことに感激に堪へざる所である。
 参謀本部では後に我々の工作を梅工作と名づけ、我々の組織を梅機関と命名したが、梅機関を単に陸軍のみの機関なるかの如く解する者のあるのは誤りである。抑々我々の工作は五相会議の指示に依つて開始したものであること曩さきに述べた通りであり、単に陸軍長官の命令に依りてのみ始められたのではない。又梅機関人員中陸軍に属する者に対しては自分が指揮権を有するが、海軍、外務両省より派遣された者に至りては、自分の指揮下に入れられたのではなく、唯自分の業務に協力を命ぜられて居るものである。又民間人は単に個人の資格を以て、自分の業務に自発的に又は自分の懇請に依り協力して呉れた人々である。従つて自分も法的には海軍、外務省派遣者及民間から参加して呉れた人々を指揮する権限を有しては居ないのは勿論、陸軍長官と雖是等の人々に対し直接命令を与ふる事は出来ないのである。事実上爾後梅機関に対する命令は陸軍長官より自分に与へられたが、時として同時に海軍、外務大臣等より当該省派遣者に直接命令せられ、或は某省限りの特別の命令を当該省派遣者に命令せられた事がないではなく、又内約の原案の如く興亜院より指示せられたこともある。梅機関の経費にしても事務室費は陸軍が負担したが、人件費、自動車費等総て各々其出身の各官庁之を負担し、民間人は多く自ら其の経費を負担していたのである。これを以て見ても梅機関なるものは、陸軍のみの機関とは解し難い。実に本来の指揮系統の儘各省等より派遣せられたる者及民間人の協力合義ママ体であり、同志の集合体である。
 又自分は梅機関長ではなく、梅機関の人員が法的ではなく、自発的に克く自分の統制に服して呉れたに過ぎない。さればこそ十四年十二月三十日汪精衛氏側の人々と内約を取り結んだ節、日本側の署名者は各省派遣者及民間側の人の各代表者を以て連名署名したのであること後に述ぶる通りである。
 尚陸軍の中には梅機関を目して陸軍特務機関と看做す者があるが、前述の理由により陸軍のみの機関ではない。加之梅機関を特務機関と指示されたことはなく、上海には上海特務機関があり、南京には南京特務機関があり、一定の管掌区域を有して特務機関の任務に服してゐる。従て梅機関は特務機関ではない。
 
 梅機関は陸軍直属の一般の特務機関と変りがないか、あるいは影佐がいっているような「協力合議体」とか「同志の集合体」であったか。また『大陸新報』に似て陸海軍、外務省が合意で作った「国策機関」を装いながら、汪政権樹立工作のために陸軍が実質的に設立した機関であったかどうか。そうした疑問は後回しにして、ここではその機関の幹部あるいは顧問には、ジャーナリストが多かったことに注目しておきたい。
 この回想記には『朝日新聞』の関係では神尾茂の名が見られる。神尾は1906年早稲田大学政治経済科を卒業後、上海東亜同文書院に入学。『大陸新報』に『上海日報』を譲渡した波多博は彼の同文書院の同期生であ(22)る。『朝日新聞』南京通信員を経て、1913年に同紙正社員となる。支那部長などで中国報道にかかわる。先に出た東亜問題調査会では幹事であった。1938年に緒方らの依頼で、香港で国民政府側の『大公報』張季鸞社長を媒介に和平工作を行ったが、失敗。1939年に停年、客員となったが、今度は影佐から梅機関工作への協力要請があった。次は白川威海上海支局長からの神尾への1939年10月23日付けの手紙であ(23)る。
 
 拝啓、先日上京の節には失礼しました。扨て本日電報で一寸御知らせ申上げました通り、本日影佐少将(禎昭)当支局へ来訪「神尾さんに一肌助けてもらひたいことがあるんだが」と前提され、大要次の如く申されてをります。
 即ち、御承知の如く目下汪精衛氏の中央政府樹立工作については、御承知の如く我方としては影佐機関(表面的名称は梅華堂)が専ら之に当つてをられるのでありますが、右中央政府は今年中にはどうしても樹立させたい由にて、貴下にも梅華堂の一員として今年中だけでも御援助、御協力を願ひたいのださうであります。
 而して貴下の御仕事としては、主として汪派の?民誼氏と連絡をとり、貴下旧知の中国人と接触し、出来るだけそれらの人々を獲得して頂きたい。又之等の人を獲得する上においての、御智慧を拝借したいといふのが主旨であります。
 而してそのためには、貴下は上海又は香港の間を往来されることになると思ひます。尚貴下としては既に支那に於て著名でありますから、偽名を用ゐても駄目ですし、又梅華堂の一員たることを、支那側に知られては却つて効果がありませんから、此前と同様、やはり「朝日新聞特派員」の名儀で、こちらへ御越し願ひたい由であります。貴下と同様の任務を以て働かれるのは、犬養健氏及び波多博氏の三氏ださうであります。影佐氏の言明では、旧い型の所謂支那浪人は、今後も一切依頼せず、支那の現代人に十分信用ある貴下、犬養、波多の三氏の信用を利用して、極力よき支那人を説得したい由で、以上大体影佐氏の願ひの大要でありまして、しかも可成り急いでをるやうであります。
 そして一応上海へ御出で下されば、詳しき打合せなどを致したいと申し添へられてをります。
 尚蛇足でありますが、小生の愚考では貴下の御仕事として最適と存じますし、影佐氏の熱心な懇願でもありますから、此際是非御奮発の上、二、三ヶ月こちらへ御出勤のほど、小生よりも呉々も願ひ上げます。
 尚影佐氏の御希望もありましたので、緒方、美土路御両所の御諒解を得るために、この手紙と同時に簡単乍ら、影佐氏の要望だけを御知らせ致しておきましたから、右御諒承下さい。
 
 「上海には新聞記者がずいぶんおりましたが、大体、一人残らず影佐さんの協力者になっておりま(24)す」と同盟の松方三郎は戦後語っている。それは影佐が陸軍エリート将校でありながら、高ぶらず、記者に自ら接触したからであろう。国のために工作している真摯な姿勢が記者の心を捉えた面があった。しかも彼は自分に取材のため接近してきた記者を丁寧に扱い、できるだけの誠意を見せた。たとえば『毎日新聞』の田中香苗には汪兆銘の独占会見の便宜を図っ(25)た。『読売新聞』の三浦薫雄にも同様なサービスを行っ(26)た。同盟の松本重治の『上海時代−−ジャーナリストの回想』には全篇に影佐との公私の親密な交流が描かれている。ちなみに松本は国際文化会館理事時代に彼の遺徳をしのび、『人間影佐禎昭』の出版世話人会の代表となっている(小泉内閣の財務大臣谷垣禎一は影佐の外孫で、1945年3月7日生れ。同書所収の娘婿の谷垣専一の文章によれば「奇しくも岳父の誕生日であった」「長男には父の一字をもらって、禎一と名付けた」「ラバウルで死を覚悟した身として、又、男の子のなかった父としては初めての男子出産が余程うれしかった」とある)。
 しかし影佐が『朝日新聞』幹部、記者に対してもつ思い入れと実質的な交流は他のメディアを圧していた。影佐が神尾を梅機関の幹部として誘うのは、彼の中国への見識、そこでの人脈、情報収集・分析力、語学力を評価したのであろう。また香港での和平工作での彼の行動を観察し、その工作経験を買ったのであろう。さらに影佐は以前から東亜問題調査会を通じ、彼と旧知の間柄であったからこそ、白川上海支局長を通じて梅機関への参加を熱心に求めてきたわけである。
 なによりも神尾が日本の代表的新聞社の特派員という隠れ蓑を使えたことが、影佐に安心感を与えた。極東のどの国の諜報機関でも工作員をカモフラージュするために特派員の肩書きを利用し(27)た。早速、神尾は白川を通じて知った影佐の真意を確かめるべく、松井石根大将や陸軍参謀本部樋口季一郎第二部長などにあたり、「表面は特派員、事実上は影佐の私設顧(28)問」という軍のねらいが理解できたし、それが影佐の独断専行でないことに安心した。今回は緒方や美土路など幹部に事前に承諾の手間をとる必要がなかった。白川を通じた神尾スカウトに緒方らから異論が出なかったことは、前後の彼の「上海日記」から判明する。
 冷徹な影佐にとって神尾を通じて緒方など『朝日新聞』の上層部とつながり、同紙を梅機関の味方として活用できる利点があった。リベラルな伝統を持っていた同紙ほど軍部にとって世論工作に好都合なものはなかった。汪工作が世に暴露されたとき、反軍的な世論対策に利用できるからである。『社史』は同紙や緒方が汪工作に反対であったと記してい(29)るが、神尾派遣からしてそれは疑問である。
 さらに『朝日新聞』は高収益の優良企業であるから、いざとなれば神尾の給与や活動費を負担してくれるとの計算が影佐にはあった。汪政権が樹立され、梅機関の工作が完了した影佐は汪政権の特別顧問となった。それと同時に彼は機関員とくに民間からの人物の処遇を考えた。行政上では梅機関が廃止となった以上、機関員に軍から給与は払えなくなった。回想記には民間人はその出身母体が給与を支払っていたとあるが、神尾に関する限り、それまで軍が給与を支払っていた。1940年4月20日付の神尾の日記がそれを証明している。従来軍の出していた彼への給与を、朝日新聞社が肩代りするように影佐が美土路に要請した。それに対し幹部らが決定権をもつ社長への善処要請を承認したというわけ(30)だ。
 したがって神尾を給与支払いに好意的な『朝日新聞』の「特派員」としてとどまらせ、大使館のプロパガンダ活動を波多とともにやらせるというのが影佐の意向であった。支那派遣軍報道部は「梅機関及主任参謀ト緊密ナル連絡」をとって各メディアに情報を提供したり、「謀略秘密ノ事前漏洩ヲ防」いでい(31)た。もともと神尾の梅機関での主任務が報道部との連携であった。南京で新政権の樹立と存続のために働いた神尾はやがて軍によって功績を認められ、1942年に衆議院議員に翼賛会から推薦され、当選した。『大陸新報』社長をやめた福家も同じく影佐の引きと朝日新聞社の支援によって弱冠三十歳で翼賛会の議員になった。
 ところで神尾の日記には、彼が忘年会や緒方ら幹部の来訪の接待などで、『朝日新聞』支局によく立ち寄っていることが記されている。ところが『大陸新報』のことも、そこの社長尾坂与市のことも出ない。神尾が大阪朝日東亜部長だったとき、尾坂は東京朝日社会部長であった。同じ時期、上海にいた元同僚同士にまったく交流がなかったことはありえない。神尾がわざと日記に書かなかったのか、日記の編者が削除したのか、それはわからない。少なくとも緒方、美土路らは神尾、尾坂がそれぞれの役割は違うものの、影佐のラインで上海で活動していることを知悉していた。しかし梅機関の会合で影佐から「秘密取扱事項の決定を示さ(32)る」とあるように、神尾の工作の内容は軍事機密にかかわることなので、神尾も緒方らも尾坂には彼の任務を教えなかったのかもしれない。あるいは尾坂も梅機関に所属し、神尾を補佐する任務を密かに帯びていたことを、朝日関係者は知りつつ隠していたのかもしれない。
 なお影佐のことに触れた『大陸新報』の朝日関係者は神尾以外では戸叶武だけである。「影佐大佐とは二回ほど席を同じくしたが、彼からの意見を拝聴するのみで終わっ(33)た」とある。影佐は彼が朝日関係者であることを知っていたかどうかは分からないが、『大陸新報』の政治部長とはいえ、参謀本部の息のかかった新聞の記者である。本土の有力紙への対応とは異なり、同紙の記者あるいは幹部に対しては軍幹部として上意下達の姿勢で対応していたことがうかがえる。

五、 特務機関としての梅機関
 松本重治は1937年11月に影佐が新設の参謀本部第八課長、別名「謀略課長」に就任したことを友人から耳にしたとき、土肥原賢二の特務機関の謀略とは全然違って、彼の任務として「省部を合せて戦争の拡大傾向に対し、これを克服するという謀略が、参謀本部にも必要なのであろ(34)う」と語ったらしい。つまり松本は彼を和平派と見ていたわけである。松本の著書には上海の地下社会や傀儡新聞、国策新聞記者との交流は出ない。ともかく影佐を知る新聞記者は、彼が担う梅機関は敵、味方を共にあざむく謀略本位の土肥原機関とは異質のものと見ていた。神尾は日記で、その謀略とくに暗殺中心の特務工作(特工)については一言も触れていない。特工を指揮した丁黙邨の名が二度、李士群が一度出るが、いずれも宴会の場を記録したときである。
 土肥原機関が上海で悪名をとどろかせたのは、丁や李を使って、上海に徘徊する中国国民党中央執行委員会調査統計局(C・C団)、国民政府軍事委員会調査統計局(藍衣社)メンバーの強制監禁、殺害、脅迫といった特務工作を行ったためである。とくに藍衣社は戴笠が率いる謀略と暗殺の国民党の軍秘密機関で、上海で汪派の工作員に対して暗殺を図る中心勢力であった。藍衣社と「七十六号」機関とは土肥原機関時代から抗争していたが、その抗争は梅機関となって一層激化した。「七十六号」の背後に梅機関がいることは、すぐにその地下世界では知れ渡った。しかし丁、李両人のチンパン(青幇)らを使った土肥原機関での暗躍ぶりを波多からも神尾は耳にしたはずである。また梅機関でも半年近く行動をともにしたのであるから、彼らのウラの顔を把握していたはずだ。一方、緒方や美土路らの朝日新聞社の幹部は彼らのギャング的行動をあまり知らなかったし、背後からの影佐のコントロールを知らずして彼に接触していたのかもしれない。
 ともかく梅機関も従来の特務機関としての「影」をもっていた。実際、影佐の『曾走路我記』の「梅機関に就て」には、「晴気中佐及塚本少佐は従来の人間関係もあり、引続き丁黙邨氏等の工作に協力した」という記述があることを見逃すわけにはいかない。「影佐はこの梅機関を世間の所謂特務機関と混同されるのをひどく嫌って、彼の仕事場を梅華堂とみずからも名づけ、世間でもそれが通り名になってい(35)た」と側近の犬養健は語っている。犬養は晴気らの工作の実態を神尾よりも熟知していた梅機関の数少ない民間側顧問であった。
 影佐は従来型の特務機関とは異質な機関の長として、外務省役人や民間人との「協力合議体」の形で半ば公然と南京政府樹立に邁進する一方、次のような1939年2月10日付命令を参謀総長名で晴気少佐に秘密裡に出してい(36)る。
 
  晴気少佐ニ与ヘル訓令
 一、大本営ハ上海テロ対策ノ一環トシテ、丁黙邨一派ノ特務工作ヲ援助セントス
 二、貴官ハ上海ニアツテ丁黙邨ト連絡シ、特務工作ヲ援助シ中支軍ノ行フ租界対策ニ協力スル傍ラ土肥原機関ノ残務ヲ整理スベシ、塚本誠憲兵大尉及中島信一少尉ヲ配属ス
 三、特務工作ノ援助ニ当ツテハ左ノ件ヲ適宜丁黙邨ニ連絡スベシ
  1、租界ニ於テ行ハレル反日策動ノ封殺ニ専念シ特ニ工務局トナルベク摩擦ヲ起サザルコト
  2、日本側ニ関係ヲ有スル中国人ヲ逮捕セザルコト
  3、汪兆銘ノ和平運動ニ合流スルコト
  4、三月以降、月額三十万円ヲ、マタ拳銃五百挺、弾薬五万発及ビ弾薬五百屯ヲ貸与ス
 
 また別の資料は、影佐の命令を晴気が忠実に実行していたことを示している。
 
 特務工作拡大強化ノ研究ニ関シテハ、本十四日晴気少佐ヨリ詳細ノ説明アリ。当軍ハ右ヲ基礎トシテ今後更ニ具体的方法ヲ検討ノ上実行ニ移シ度意向ナリ。就テハ近ク右具体案作製ノ上報告スベキモ、取敢ズ晴気少佐ヲシテ当方ノ意向ヲ伝ヘシムルヲ以ツテ了承アリ(37)度
 
 特務工作面では梅機関も土肥原機関の路線の継承だった。いや梅機関は土肥原機関よりもさらに上まわる特工を遂行し、汪政権を守ろうとした。影佐も参謀本部の支援を得て、暗殺工作を指揮した。彼の下にあって晴気とともに暗躍したのは、上海憲兵隊長の塚本誠であった。塚本は戦後、次のように当時の工作内容と主要人物の活動を憲兵隊側から簡潔に説明してい(38)る。
 
 丁黙邨は湖南省の出身、周仏海と同郷で面識がある。CC団系の人物で、国民党中執委調査統計局処長として文化工作に従事していたが、戦争に反対したため職を追われ、昭和十三年夏、香港に亡命、その後李士群に招かれて上海に来たという。一説によれば病身のため南京陥落後上海に来ていたともいう。
 李士群は浙江省の出身、共産党員となり、ウラジオストックの東方大学で地下工作を学ぶ。その後、蒋介石に逮捕されたため、転向して国民党に入党、CC団を経て国民党調査委員会調査統計局に入り、その地下工作を担当していたが、抗日戦争の前途に失望し、重慶を脱出、ささやかな汽船会社を経営しながら、一方では上海憲兵隊滬西憲兵分隊の密偵をやっていたという人物であった。
 特務工作の総指揮部は「特工総部」といわれていた。特工総部は滬西極司非面路(ゼスフィルド)七十六号にあった。ここは元国民政府軍事参議院長陳調元大将の邸宅だった。外見は刑務所を連想させるような構えで、門扉は一面鉄製、小さなのぞき窓が一つある。周囲にはバリケードが置かれており、塀の上には有刺鉄線の柵が設けられている。門外には、人ッ子一人いないが門の両側の塀の上には見張りの眼が光っている。この見張りの合図がなければ門扉は絶対にあけない。門の内側には、大型拳銃で武装した門衛が数名立哨している。四六時中重慶側の奇襲に備えているのである。もちろん、相応の武装人員は常時待機していた。また構内には無線通信の鉄塔もそびえていたし、武器修理工場も持っていた。
 独立した小別館には、上海憲兵隊本部特高課の精鋭四名が常駐していた。そのメンバーは渋谷芳夫准尉、長岡正夫軍曹、坂本誠伍長、佐伯伍長であった。その目的は、特工総部と常時密接な連絡を保持することであったが、この地域がイタリア軍の警備区域であり、租界当局の構築した道路に接していたから、租界警察および外国軍隊の立入捜査を阻止することが大きなねらいであった。
 後日、上海では「泣く子もだまる七十六号」といわれた特工総部は以上のような輪郭だった。
 
 影佐の手足となった晴気と塚本のコンビが動かす梅機関の隠れた工作は、影佐の回避する従来の特務機関を上まわる陰湿、粗暴な特工集団とのイメージを浸透させた。晴気らは丁黙邨、李士群を競合させながら、蒋介石側あるいは共産党側の工作員の暗殺に邁進した。次は晴気の「七十六号」の描写であ(39)る。
 
 一歩租界に踏みこめば、そこには兇暴な血の嵐が吹き荒んでいた。テロにたいする新しいテロが猛然と起って、人々を恐怖のドン底にたたきこんだのである。それはいうまでもなく、藍衣社にたいする『七十六号』の、真っ向からの挑戦だった。租界という便利な隠れみのも、もはや藍衣社には役に立たない。昨日までの藍衣社は、どこかでテロをやって、そうして租界に逃げこめば、もううるさい日本の憲兵隊も、手も足も出なかった。抗日新聞は、租界によって東洋鬼日本の悪名を全上海にまき散らしていたが、日本のいかなる力をもってしても、租界内にあるかぎりその印刷機を、ほんの一秒といえども止めることができなかった。
 だが、いまは違う。租界内に起った『七十六号』の猛々しいテロが、藍衣社をたたき、抗日新聞をぶっ潰していくのである。これは重慶側にとって、いい知れぬ恐怖となった。至るところでピストルが火を吐き、人が倒れた。藍衣社が射ち、『七十六号』が射たれ、『七十六号』が射ち、藍衣社が射たれた。テロ対テロの凄じい死闘であった。
 
 影佐は汪政権が南京に成立した時点で、梅機関は解散されたと見なした。彼は梅機関から足を洗うかのように、汪政府最高軍事顧問に就いた。梅機関での功績を認められ、陸軍少将にもなった。ところがその後に東条ににらまれ、1941年に満洲の第七砲兵司令官、さらには1943年にラバウルの第三八師団長に転任した。なお1942年に陸軍中将に昇進した。
 梅機関はその悪名を蒋介石を支える連合国側の諜報機関にとどろかせていた。連合国側は梅機関を土肥原機関の系譜の特務機関と見なして、その実態把握に躍起となっていた。たまたま1944年に漢口から南京に向う途中に不時着した民間飛行機に乗っていた沖野亦男海軍大佐が国民党側に捕らえられた。さっそく英米の諜報機関が彼を尋問し(40)た。彼は漢口大使館付武官で、影佐や梅機関員の工作を知りうる立場にあったし、影佐が国民政府軍事委員会最高顧問、晴気や塚本が陸軍側顧問となったとき、ちょうど海軍側顧問に就いてい(41)た。連合軍を喜ばせたのは、沖野が梅機関について持つ情報であった。沖野は「1939年の汪精衛政権の樹立にかかわった特務機関で、1940年に解散し(42)た」と語っている。しかしアメリカ側では梅機関は偽装解散したにすぎず、汪政権の存続のために工作を継続していると見ていた。次はアメリカ陸軍参謀本部の「梅機関にかんするリポー(43)ト」である。
 
 梅機関は影佐少将(現在は中将で、陸軍ラバウル師団長として1943年に赴任)によって彼が参謀本部にいたとき反蒋介石の第五列組織として結成された。太平洋戦争勃発前後におけるその機能は以下の通りである。(1)松機関(岡田大佐)(2)桜機関(サカタオ中佐、現在湖南軍監視司令中将)(3)蘭機関(和知中将、現在は南方軍総参謀副長)。これらの機関は参謀本部直轄の特務機関であり、あらゆる形の第五列活動を行うのが主要任務であった。当初、梅機関は南京に本部があって、そこから南京政府軍事委員会調査統計局(李士群主任)と南京政府樹立工作を行う特務機関を指揮していた。上海の支部は七十六号機関(愚園路七十六号)であった。東京では梅華堂という支部があった。1942年6月から江蘇省の村々での清郷工作が開始された。梅機関はこの工作を背後から支える中心勢力であった。軍事顧問の晴気中佐(現参謀本部中国課長)が指揮を執った(中略)。梅機関のこうした工作は秘密裡になされた。第一段階では南京政府樹立のための大規模な特務工作がなされ、第二段階では南京政府の指揮とそれの各省への拡大をおこなった。第三段階の1943年には主として重慶政府の経済破壊工作がなされた。その組織は上海に移り、さらに1944年からは漢口に移り、第三戦闘部門で工作を集中させた。これらの工作は終戦まで続いた。1943年はじめに影佐中将が軍事顧問から更迭されると、梅機関は参謀本部第二部の指揮下に入り、軍事顧問団の活動は停止した。代って梅機関の創立当初からいた中島信一大尉が指揮をとった。
 
 梅華堂の所在地を上海でなく、東京とするなど、この資料は事実の把握に若干の誤りがあるとしても、蛇の道は蛇である。連合軍側の謀略機関はこの日本側謀略機関の成立と活動の概要、とりわけ汪政権樹立後の動きをかなり正確に捉えている。実際、陸軍参謀本部は工作を成功させた梅機関の解散を惜しんだ。影佐が離れた後も、終戦まで梅機関がかなり組織的な活動を行っていたことがわかる。梅機関の名称は公的には消え、組織は小さくなり、工作員は広く分散し、桜機関とか蘭機関とかの名称の組織に分裂していたが、参謀本部による指揮系統には変りがなかった。つまり梅機関の解散は一種の偽装で、実質的には存続していたとの連合軍側の認識は正しかった。
 たしかに上海では日本・南京側と連合軍・重慶側との血で血を洗うテロが続いて止む気配はなかった。『大陸年鑑』1942年版は1940年下半期から1941年上半期の新聞社に向けられた五つのテロの事例を掲げている。この時期は上海租界で蒋介石派の外国籍華字紙が汪精衛派の華字紙と激しく対立している時期であった。
 
 ○ 昭和十五年十月三日午後十時五十分頃、上海共同租界福州路所在の汪派華字新聞平報社に数名の支那人が自動車を乗りつけ、突然車内より同社目がけて手榴弾を投入して逃走した。重慶テロ団の悪にくむべき犯行とみられる。
 ○ 昭和十五年十月十日午前六時四十分上海四馬路、河南路角の汪精衛氏派機関紙たる中華日報社分館地下の機関室に爆弾二個を投入した者があり、内一個が炸裂、機械類を破壊したが死傷者無し。双十節当て込みの重慶テロ団の仕業とみられる。
 ○ 重慶側日刊紙として事毎に抗日反汪的なヨタ記事を製造してゐる申報編輯次長金華亭は昭和十六年二月三日午前四時半頃上海共同租界愛多亜路を通行中支那人暴漢に襲はれ、ピストルの乱射を受けて即死した。
 ○ 上海所在の日刊新聞華美晩報は重慶側御用紙として抗日反汪の毒舌をふるつてゐるが、昭和十六年四月三十日同社経理朱作商は共同租界北京路の自宅前にて一名の暴漢からピストルを以て射撃をうけ即死した。
 ○ 昭和十六年八月九日上海共同租界北河南路五九号所在の中華日報社(社長林柏生氏)地階輪転機室で仕掛焼夷弾が爆発、一面火の海となり四階まで延焼、殆んど同社屋を全焼しつくした。あきらかに重慶側のテロ行為とみられる。
 
 『大陸年鑑』は大陸新報社が発行していたので汪派であるが、彼らの「抗日紙」へのテロも二例を「暴漢」のしわざとして挙げざるを得ないほどに、梅機関の支援を得た汪派のテロが激しかった。
 ただ「七十六号」のこうしたテロは無差別になされたものとは必ずしも言えなかった。それは梅機関が「丁黙邨側工作報告」として毎月作成し、参謀本部、陸軍省、中支那派遣軍などに提出していた膨大な報告書を見ればわかる。テロ実行の丁側では「各新聞カ記載スル通訊社ノ原稿、電報通信文及一切ノ記事ハ毎日全部詳細ニ審査シテ本機関工作ノ目標ヲ決定シアリ。即チ抜粋簿ヲ作リテ我党ノ主張ト合致セサル部分ヲ毎日切リ抜キテ貼(44)付」するという地道な作業を行っていた。1940年2月の報告書には次のような調査結果が記載されてい(45)る。
 
     新聞界ノ各項動向情報ヲ蒐集ス
 上海ハ全国ニ於ケル新聞界ノ中心地ナル為、重慶側ヨリ当地新聞界ニ投スル活動費ハ月額数十万元ニ達シ、新聞主持者及記者ニシテ金銭ノ誘惑ヲ受ケ虚偽ノ宣伝ヲナス者甚タ多シ。又共産党側ニ於ケル上海新聞界トノ連絡工作ハ、戦後極メテ積極的活動ヲ為シアリ。依ツテ我方ハ新聞界ノ動向蒐集ニ尽力セリ。本月分調査シテ報告スル情報ハ五一件ニシテ、其ノ内訳左ノ如シ。
 A 中美日報ニ関スルモノ十五件
 B 新聞報ニ関スルモノ六件
 C 大美晩報ニ関スルモノ五件
 D 大晩報ニ関スルモノ三件
 E 華美晩報ニ関スルモノ三件
 F 華報ニ関スルモノ五件
 G 申報ニ関スルモノ三件
 H 神州、総匯、訳報ニ関スルモノ一件
 I 個人ニ関スルモノ六件
 J 科学印刷公司ニ関スルモノ一件
 K 其他ニ関スルモノ一件
 其他系統的専報トシテ完成セルモノ左ノ如シ
 A 申報ノ全職工及通訊処調査一件
 B 上海市内各新聞社職工ノ個別的調査(申報、新聞報、華美晩報、大美報「朝刊、夕刊、周報ヲ含ム」大晩報、中華日報)六件
  C 各新聞読者個別的調査第一編(新聞報、申報、華美晩報、時報)
 
 ともかく両陣営のテロが新聞社あるいはジャーナリストに向けて繰り返されたわけは、メディアがテロを扇動、指揮していたからである。というよりジャーナリスト自身がテロリストかその仲間であったからである。こうしたテロは終戦まで頻発していた。それらを連合軍側機関が無視できなかったのは当然である。
 また連合軍側では江蘇、浙江省などの清郷工作を推進するために、日本軍機関が重慶特工組織や中国共産党の新四軍の掃討に力を入れていることに注目していたし、その力量もあなどれないとして終戦まで警戒を怠らなかった。
 今まで紹介した以外でも、延安にいた日本兵捕虜からの証言をまとめた「梅機関−−日本の超スパイ組(46)織」や1944年末から45年2月にかけて上海、南京の情報をまとめた「梅機関の系統(47)図」などのアメリカ側資料がある。いずれも日本の敗北が濃厚となった時期にまとめられたものである。前者はMIS(陸軍諜報部)、後者はOSS(CIAの前身)のリポートであるが、これらの諜報謀略機関にとって、諜報と破壊活動(サボタージュ)を組み合わせた梅機関の活動は恐怖の対象であるとともに興味深い分析対象であったことがわかる。

六、 挫折した『朝日新聞』の満洲進出計画
 1941年8月、朝日新聞社満洲支局の橋本登美三郎が、満洲国国務院弘報処長の武藤富男を訪ねてきて、原田譲二専務の社専用飛行機での到着予定を告げた。原田は「願いの件があり、原田専務を遣します、宜しく」という緒方編集総長の達筆の手紙を持ってきた。満洲国の新聞を数社に統合する計画が当時、弘報処によって実行に移されようとしていた。その直前に、朝日新聞社が満洲朝日新聞社といった名称で新京(長春)で新聞社を作る計画を持ってきたわけである。同社は王子製紙の満洲新工場竣工に併せて、満洲に本格的な印刷所を建設し、編集局も設置しようとしたのである。
 弘報処長だけでない。その上にいる武部総務長官らもその進出計画に内々賛成した。とかく満洲国誕生時に冷淡な姿勢をとっていた有力紙の進出は満洲国の地位を高めるし、新聞によるプロパガンダを満洲国内だけでなく日本本土でも浸透させることができるとの計算が総務長官側に働いた。ところが関東軍参謀部では、もしこの計画を内々承認すれば、「読売の正力、毎日の高石、それに同盟の古野が加わって陸軍省軍務局に乗り込むのは必定だ」として強く反対した。当時、本土における軍部の全国紙統合案が正力松太郎、高石真五郎らの強烈な反対でつぶされようとしていることを、高級参謀たちは知っていた。かれらは朝日新聞社の抜け駆けの進出を承認することによって、本土の二の舞の騒ぎになることを回避したかった。満洲国で何事でも実権を握っているのは関東軍である。その意向を知った武部長官が進出反対の決定を下した。そして武藤はこの問題を打ち切る旨の丁寧な手紙を原田専務に送っ(48)た。
 『大陸新報』は南京、漢口地区だけで10万部を出していたと、福家は述べている。上海の本社版を加えるとさらに部数は大きくなるわけで、同紙は政府の援助を受けなくても独立採算が維持できるほどに発展していたことはたしかであろう。上海事変以降の華中への日本人居留民の増加は一般新聞として『大陸新報』を求める日本人読者の増加につながった。戦域の拡大による日本兵、軍属の増加は陣中新聞としての同紙への需要を高めた。さらには汪政権樹立以降、日本の政策に関心を持ち、日本語を理解する中国人も漸増し、それが同紙の中国人読者増に寄与した。
 緒方、石井ら朝日新聞社幹部が尾坂社長から経営状態好転の報告を受け、『大陸新報』に相当する新聞を満洲にも進出さそうとの経営判断をしたのもうなずける。『大陸新報』の場合には、『朝日新聞』色を薄めた形での進出であった。行きがかり上の経営協力であったため、当初は腰がすわらなかった。第一、利益があがるとは考えられなかった。ところがなかなかの成績を示している。そこで『満洲朝日新聞』の場合は同紙のブランドを表に出した新聞を着想した。王子製紙の工場新設に便乗できるので、紙不足で苦しむ新聞業界とくにライバル紙の反発は少ないだろうとの計算があった。
 満洲でも『満洲日日新聞』と『満洲新聞』の二大紙に統合が進んでいた。しかも満洲の日本化、五族(満洲族、漢族、蒙古族、朝鮮族、日本人)の協和、皇民化が進捗していると見られていたのが、1941年である。したがって『満洲朝日新聞』の創刊構想も、『大陸新報』のようなメリットが享受できるとの計算から生まれたとしか考えられない。
 しかし関東軍ほどの軍部といえども、本土の全国の新聞社を一つの資本に統合する新聞共同会社構想案に反対し、それを長期審議の末1941年秋につぶした『毎日新聞』や『読売新聞』の力量は無視できなかった。関東軍の高級将校にはいたずらに大新聞との対立関係を深めたくないとの計算があった。またかれらは影佐ほどに『朝日新聞』の利用価値を評価しなかったし、同社幹部とのつながりも弱かった。

七、 中国新聞協会設立と『朝日新聞』
 日本の新聞が日本語の使用範囲でしか読者を開拓できないことは当然である。日本語の拡大は日本企業や日本文化の世界進出に依存するが、戦前ではそれは不可能であった。日本の軍事的、植民地的侵略のみがそれを可能にした。朝鮮でも台湾、満洲でも日本人移民者の増加に日本新聞読者数が比例していた。たとえば日露戦直後の1905年10月に839部にすぎなかった朝鮮、台湾、満洲の『大阪朝日』の読者は、1909年3月には6787部に増加し(49)た。1938年あたりでは、上海の「朝日新聞も沢山売れるようになってい(50)る」。しかし本土からの輸送では読者の増加はタカが知れていた。とても本土から多くの資本を投下し、利益をだすほどの基盤は出来ていなかった。
 だが上海で『大陸新報』がある程度成功したのは、軍の全面的支援と新聞統合による市場独占が背景にあった。たとえば上海日本近代科学図書館は中国人などに日本文化を浸透させるための外務省助成の施設であり、そこには上海や日本の雑誌が閲覧に供せられていた。1941年度には延べで中国人3・3万人、日本人2・1万人が閲覧したが、年末の1ヶ月間での1日平均閲覧回数は日本語新聞では『大陸新報』56・4回、『上海毎日新聞』32・4回、『朝日新聞』5・4回、『毎日新聞』4・6回、華字紙では『中国日報』50・1回、『新中国報』40・0回、『新申報』36・6回がそれぞれ上位を占めてい(51)る。日本系図書館の調査という点を割り引いても、日本側新聞への中国人の関心が日本語紙、華字紙双方で太平洋戦争開始とともに高まっていることはたしかである。
 尾坂の行動は『朝日新聞』の中国での秘かな野望を担っていた。彼は同紙の幹部候補として秘密の出向となった。なるほど出向時点の『新聞総覧』、『日本新聞年鑑』、『広告年鑑』や業界紙を丹念に見れば、内外紙紹介欄中の『大陸新報』の箇所で朝日関係の事項が数行記載されているので、完全な秘密ではなかった。だがこうした年鑑類も戦争末期には廃刊となった。一方、『大陸新報』紙上では創刊時に見られた同社の幹部の挨拶や特約記事、あるいは出版広告などでの朝日色は消されていた。尾坂はじめ朝日関係者は紙上でも上海新聞界でも表面に出なかった。同紙は日本語の商業新聞としての装いを凝らしていた。
 しかし尾坂は強く同紙を掌握するとともに、上海だけでなく中国新聞界に深く浸透していた。その事実は今までだれも把握していなかった。ところがアメリカ国立公文書館の所蔵資(52)料が彼の足跡を示す動かぬ証拠を示してくれる。その華文資料によると、彼は1944年9月に結成された華中、華南の邦字、華字紙の連合体である中国新聞協会の組織化の先頭に立ち、その筆頭理事として活躍していた。その準備委員会から彼は日本人の新聞業界人としては唯一の委員であった。残りの委員はみな中国の新聞業界人であった。そして協会結成後は筆頭の常任理事になっている。
 この中国新聞協会結成は本土や満洲に見られた新聞の統廃合と政府、軍の情報統制の動きと連動していたため、汪政権宣伝部長が「指導長官」となり、日本大使館情報部長、中国方面艦隊報道部長、南京陸軍報道部長が結成集会で挨拶をしている。しかし実際の運営は理事会が行い、その実権は尾坂が握っていた。その資料には彼の名が七回も出る。ところが監事候補者の一覧表の最後になんと森山喬の名が現れる。彼は『大陸新報』の朝日関係者として先に引用した福家俊一の回想記に出ていたが、尾坂の下で『新申報』代表の肩書きで協会結成に動いていたわけである。また同じく猿山儀三郎が『武漢報』という華字紙の代表の理事となっている。また尾坂は上海の『大陸新報』の代表の理事である。彼ら三人以外には日本の新聞人はいない。これすなわち朝日関係者の中国新聞協会の完全支配である。
 この協会の設立は日本軍の意向と威光を受けた『朝日新聞』の中国侵略の意図を示すものに他ならない。協会は華字紙を含む全中国の新聞の一元的支配をねらうファッショ的統制機関であった。三人の朝日関係者は協会を牛耳り、それを橋頭堡にして中国市場を独占的に支配する夢を抱いていた。もちろん彼らの背後には本社幹部がいた。協会は『朝日新聞』が陰で操作、支配するブラック組織といって過言でなかった。
 協会の勢力版図を示す「第一次理事監事候補者の所属メディア一覧」のみをここに掲載しておきたい(中国人名は省く)。上海、南京、漢口といった『大陸新報』発行地域はむろんのこと、杭州、蘇州など華中をさらに深く組織化しようとしている。広州など華南にも広がっているが、北京など華北では影響力は弱い。しかし華字紙と日本語新聞、通信社を合わせた大陸全土への進出計画であったことがわかる。
 
 甲   理事(15人から21人)
 総支部代表8人
 華北総支部1人(華北地区からの推薦待ち)
 各地区支部7人
 上海支部―中華日報、南京支部―民国日報、広州支部―中山日報、漢口支部―大楚報蘇州支部―江蘇日報、杭州支部―浙江日報、揚州支部―揚州新報
 新聞社代表10人
 中国籍新聞社6人
  上海2人―新報、中華日報
  南京2人―申報、安徽日報
  華北2人(華北地区からの推薦待ち)
 日本籍在華新聞社3人から4人
 上海1人―大陸新報尾坂与市、漢口1人―武漢報猿山儀三郎、広州1人―南支日報
 国家通信機関1人―中央電迅社
 宣伝部推薦2人
 
 乙    監事(2人から4人)
 中国籍新聞社3人
  新聞報、新中国報、国民新聞
 日本籍在華新聞社1人
  新申報―森山喬
 
 終戦で『大陸新報』は暫時休刊となったが、8月末には再刊された。8月27日の社告を見ると、同紙の総務局は従来の社屋で仕事を行うが、編集局、工務局は大陸印刷所、業務局は大陸新報虹口直配所に移転した。紙面はタブロイド2ページと小さくなっているものの、戦後も発行は同一題字と号数継承の形で続いている。8月27日の紙面では陸海軍人の「整斉迅速」な復員を命じた勅諭がトップに掲載されている。こうしてみると、同紙は日本人と日本軍のスムースな引揚完遂を行うプロパガンダ新聞であり、居留民からみれば安全な内地引揚のための情報満載の復員新聞に転換していることがわかる。そしてこの限りにおいて、国策新聞の続刊が蒋介石の国民政府から認められていたわけである。
 『社史』にあるように、尾坂は終戦後も上海にとどまっていた。彼は1946年5月に社員では最後に内地に引揚げた。しかし翌年2月12日に東京豊島区の自宅で死去。53歳。2月14日に告別式が自宅でなされた。同日の『朝日新聞』の死亡記事には「本社社友、前大陸新報理事長」とある。早い死去、若い年齢だ。いったん退社していたので、若い社友とはいえ同紙への復帰は不可能であった。第一、同紙は民主化に動いていて、戦時中の幹部の多くは退陣していた。中国で国策新聞の責任者であった彼が受け入れられる状況ではなかった。彼はおそらく公職追放の処分を受けたか、その運命にあった。それでも無事帰国できただけ僥倖であった。彼とともに常任理事であった『中華日報』社長代理の許力求は懲役七年、公権剥奪(53)七年、同じく『平報』社長の金雄白は懲役二年六カ月、公権剥奪二年、家族の必需生活費を除く全財産没収の判決が1946年に上海高等法院によって出さ(54)れた。多分中国新聞協会の中国人理事の全員が漢奸(売国奴)として、国民政府の裁判によって同レベルの判決が下されていた。が、戦犯として彼の責任を追及する動きが日本でも中国でもいつ起きても不思議でなかった。日本も安住の地でなかった。彼は身を縮めて生活せざるを得なかった。それが早い死を招いたと思われる。
 『大陸新報』での六年余の活動は彼の社会的生命ばかりか寿命をも短くした。同紙は経営的には順調であったろうが、いつも緊張感の中で行動せねばならなかった。1940年3月20日、『新申報』の中国人記者が通勤途中狙撃され腹部貫通の重傷を負ったことも(55)ある。国民党側から敵対視される『新申報』の責任者を兼ねていたので、いつもテロの恐怖下で生活していた。国策新聞社長、理事長(財団法人改組後社長から理事長へ名称変更)、中国新聞協会筆頭理事としての南京政府、軍部、新聞業界との折衝などでの重圧、気苦労が絶えなかった。結局、朝日新聞社を退社、社友にさせられたことが、彼を消尽させた。彼は同社の野望に潰された犠牲者であった。
 なお森山は引揚げ後電通に入社し、専務、電通恒産社長となった。彼は通信社としての電通が満洲事変をスクープしたときの回顧談で、「あのときは大阪の朝日にいた」と朝日関係者であったことを裏書して(56)いる。

八、 求む、中国関係資料の情報公開
 1923年の虎ノ門事件の報道に怒った右翼が村山長挙専務を襲った際、緒方は村山をかばって重傷を負った。二・二六事件のとき、朝日新聞社は陸軍青年将校の襲撃を受けた。そのときも緒方が銃剣をもつ部隊責任者と落ち着いた応対をして男をあげた。ともかく同紙には右翼、軍部からの攻撃が絶えなかった。『国賊東京及大阪朝日新聞膺懲論』(野依秀一、1928年)、『大阪朝日新聞は正に国賊だ!』(藤吉男、1932年)、『軍部を罵倒する国賊大阪朝日新聞ヲ葬レ』(松井芳太郎、1933年)といった書籍やパンフレットは多かった。ところが支那事変以降の軍部側の資料には『朝日新聞』をリベラルとか、ましてや「国賊新聞」と見なすものはもはやない。同紙は安心して「国策新聞」を任せられる有力紙であった。戦後、緒方は満洲事変以降の同紙を回顧した際、「丸腰の新聞は廃刊しない限り保身の道を講ずる外なかっ(57)た」と述べ「筆政」の最高責任者として、社と社員の安泰のため、軍部への抵抗の姿勢を止めたと言っている。
 こうして「国賊」から「国策」への姿勢転換は、緒方の主導で中国侵略という国際的謀略の渦へ同紙を巻き込むことになった。しかし彼が仕掛けた独自のいくつかの和平工作は、権力を動かすことはなく、それらのことごとくの失敗は彼と同紙の限界を露呈するものであった。
 ともあれ『ジャワ新聞』は軍報道部による赤字補填と購入の保証という陣中新聞であったから公然と創刊できた。またライバル紙も同様な行動を示したので、その歴史的経過を従来の社史で堂々と記述してきた。ところが『大陸新報』の発行は陸軍参謀本部からの『朝日新聞』のみへの実質的参加要請であったこと、その参加には秘密性があったことから、当時から社内外で秘匿されていた。しかも影佐禎昭という軍の窓口が参謀本部の名うての謀略専門家であったこと、影佐と緒方らが相互利益供与の関係にあったこと、さらに影佐の特務機関が暗殺、処刑といった特務工作で悪名を残したことなどから、『社史』では公表しづらかったのであろう。また『新申報』は中国人に対し日本中心の大東亜共栄圏を宣伝し、彼らに日本軍の侵略を納得させるための宣撫新聞であった。さらに『大陸新報』と『大陸画刊』も宣撫メディアであった。
 『新申報』も『大陸新報』も汪精衛政権という傀儡政府を支援し、軍の中国侵略をごまかし、真実の報道を行わなかった謀略新聞であった。『社史』で美土路は「南方新聞」を朝日新聞社の勢力拡大の布石であり、『大陸新報』の発行とは「ちがう意味がある」と言っている。彼は『大陸新報』には中国侵略とか、帝国主義的野心がなかったと言いたいのであろう。しかし本質は同じである。ただ公然か非公然かの差異である。
 『大陸新報』を社史のなかではじめて登場させたことは、社長が『社史』の「序」で述べた「汚点」の自己抉出の姿勢の表れであることはたしかである。しかし今までの分析からわかるように、『社史』の『大陸新報』記述は短く、資料も少なく、分析は浅い。影佐の名は出るが、梅機関の名は出ない。人員、設備を提供したと述べつつ、肝心の資本については触れていない。他のライバル紙の同紙への協力の度合いや関係もわからない。つまり「経営に協力した」と記しながら、「経営」の実態について隔靴掻痒の感がする。社長のいう「包み隠さず」とはとても言い難い。
 今回の『社史』は「南方新聞」の記述もページを増やしているが、その増加はジャワなどに派遣された幹部の回顧談が多くなったためである。そこには発行を正当化する体験談が満ちている。相変らず軍部に責任を転嫁させる朝日関係者一流の自己弁護の姿勢が記述には貫かれている。経営関係の新資料もほとんど見られない。多少なりともヒラの記者や現地人の読者の証言を集める努力をするべきであっ(58)た。
 また『社史』は「昭和戦前編」の第6章「日中全面戦争の渦中へ」の第3節「朝日の和平工作」において、神尾茂を香港に派遣して、日中戦争拡大回避と和平に努めたことを力説している。この「和平工作」も従来の社史になかった新事項であるが、その依拠する資料はこの小論でも活用した神尾の『香港日記』である。また『社史』には同紙や緒方竹虎が汪政権樹立に反対であったという首をかしげさせる記述がある。さらにこの『社史』の限界というか、老獪さというべきものは、神尾の本の半分を占めている「上海日記」を意図的に省略していることである。「上海日記」こそが神尾の活動の神髄であったし、朝日と関連深いところである。国策新聞という宣撫新聞の発行やそれへの特務機関の関与に触れているので、故意にそれを排除したのであろう。
 ともかくこの『社史』が強調する香港での「和平工作」の節には、「武漢攻略に報道陣二千人」という見出しの記事が挿入されているし、その前節は同紙だけで総数138人もの特派員を派遣した軍の中国攻略への過剰ともいえる熱狂的な報道ぶりを扱った「戦局の進展で特派員増派」(第2節)である。同紙は太平洋戦争でライバル紙以上に派手に戦況を報道したとの世評があった。作家の田辺聖子はエッセイの中で当時の雰囲気をよく伝えている。
 
 朝日新聞は、戦時中の記事、毎日(新聞)より勇ましゅうて派手で威勢よかった。庶民は「みい、朝日読んでたら、気ィ大きゅうなる」いうたもんです。「赫々かくかくの武勲、必死必中の体当り、敵大混乱」なんて書いて、庶民を嬉しがらせとった。毎日はわりと地味でしたな。朝日が派手で、みな朝日の記事がおもしろい、いうて人気あっ(59)た。
 
 『社史』の筆者はその世評を気にしてか、あるいは戦後の同紙が批判して止まない「南京事件」や軍の中国侵略での同紙の報道責任を読者に感じさせないためにか、神尾の香港での「和平工作」が異常なまでに強調されている感がする。それは『大陸新報』に割かれたスペースの四倍である。
 第二次大戦での新聞の戦争責任を論じるポイントは、軍部による報道への検閲、統制への服従やうその報道、プロパガンダの程度である。たしかに『社史』は「汚点」をかなり自己解剖、自己告白している。しかしこれは消極的行動に対する軽い自己責任に関するものである。積極的行為で重い責任というべきものは、国内での軍関係出版雑誌、書籍の発行や植民地、占領地でのプロパガンダ、宣撫のための新聞、雑誌の発行である。さらに重い「大きな汚点」は、中国新聞協会設立による中国新聞市場支配の野望とその行動である。今回の『社史』はその事実を部分的ながら初めて出した点で評価されるべきである。しかしその解明のための資料公開は不十分であった。この小論の筆者は今まで自分で集めていた資料でその不足を克服しようとしたが、社外の個人の力ではやはり限りがある。無理に結論を導いた面があることを自己反省している。さらなる客観的な研究になるためにも、新聞社側の「包み隠さない」情報公開の姿勢と行動が待たれる。
 
(注)
 1、朝日新聞社編刊『朝日新聞社史・大正・昭和戦前編』1990年、625〜626ページ
 2、陸軍省情報部「上海ニ新ニ邦字新聞ヲ設立スル件」昭和13年11月3日、粟屋憲太郎、茶谷誠一編『日中戦争対中国情報戦資料』第2巻、現代史料出版、2000年、31〜32ページ
 3、大陸新報社『大陸年鑑』昭和18年版
 4、『朝日社報』1943年6月10日号
 5、朝日新聞社編刊『朝日新聞出版局史』1969年、166〜167ページ参照
 6、伊佐秀雄『世紀の人々』育成社、1941年、184ページ参照
 7、山田竹系『ひげの代議士二等兵』大泉書店、1972年、28ページ
 8、橋本登美三郎『私の履歴書−−激動の歩み』永田書房、1976年、82〜86ページ参照
 9、戸叶武遺稿集刊行会編刊『政治は足跡をもって描く芸術である』1988年、23ページ参照。戸叶と妻里子は戦後日本社会党の議員となる
 10、しょうぶ会、晃陵舎の会編刊『限りなき想い出−−戸叶武一周忌、戸叶里子十三回忌記念』1983年、4ページ
 11、新聞研究所『日本新聞年鑑』昭和16年版 149ページ。ただし『新聞総覧』昭和18年版によると、尾坂は1940年12月に入社し、翌年10月に社長になった
 12、『万年社広告年鑑』昭和15年版 113ページ。ただし『日本新聞年鑑』昭和15年版、159ページによると、1939年6月1日に『武漢大陸新報』、同年7月末日に『南京大陸新報』がそれぞれ創刊されたとある
 13、前掲『ひげの代議士二等兵』24ページ
 14、馬淵逸雄『報道戦線』改造社、1941年、223ページ
 15、中支軍参謀部「宣伝組織強化拡充大綱」1939年8月8日前掲『日中戦争対中国情報戦資料』第3巻、261ページ参照
 16、前掲『報道戦線』228ページ
 17、15と同じ資料、同じ本の267ページ参照
 18、前掲『朝日新聞社史・大正・昭和戦前編』422ページ
 19、栗田直樹『緒方竹虎−−情報組織の主宰者』吉川弘文館、1996年、94〜95ページ
 20、出版世話人会編刊『人間影佐禎昭』1980年の「影佐禎昭年譜」参照
 21、前掲『人間影佐禎昭』64〜66ページ
 22、大学史編纂委員会編『東亜同文書院大学史−−創立八十周年記念誌』社団法人滬友会、1982年、290ページ参照
 23、神尾茂『香港日記』(自家版)1957年、151〜152ページ。なおこの本は「香港日記」と「上海日記」から成り立っている
 24、前掲『人間影佐禎昭』330ページ参照
 25、前掲『人間影佐禎昭』185ページ参照
 26、小俣行男『戦場と記者−−日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社、1967年、134ページ
 27、山本武利「占領下CIA対日工作の協力者」『文芸春秋』2003年5月号参照
 28、前掲『香港日記』154ページ参照
 29、前掲『朝日新聞社史・大正・昭和戦前編』515〜525ページ参照
 30、前掲『香港日記』193ページ
 31、支那派遣軍報道部「中支ニ於ケル報道宣伝業務ノ概況」前掲『日中戦争対中国情報戦資料』第3巻、268ページ
 32、前掲『香港日記』174ページ
 33、前掲『政治は足跡をもって描く芸術である』23ページ
 34、松本重治『上海時代』(下)中公新書、1975年、82〜83ページ
 35、犬養健『揚子江は今も流れている』文芸春秋新社、1960年、204ページ
 36、晴気慶胤『謀略の上海』亜東書房、1951年、82〜83ページ
 37、「陸支密大日記」昭和15年10、128(防衛研究所所蔵資料)
 38、塚本誠『或る情報将校の記録』中央公論事業出版、1971年、244〜246ページ
 39、前掲『謀略の上海』114〜115ページ
 40、山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』文春新書、2001年、154〜157ページ参照
 41、前掲『或る情報将校の記録』260ページ
 42、American Embassy, Office of the Naval; Attache Chungking, China InterrogationofJapaneseNavalPrisonerofWar,CaptainOKINOMatao,byBritish,1944.10.19,RG38OrientalBox8
 43、Army Staff, Report on the Ume Kikan, 1947, RG319 Box1793
 44、梅機関「丁黙邨側工作報告」第十二次、1939年12月25日前掲『日中戦争対中国情報戦資料』第6巻、113〜114ページ
 45、梅機関「丁黙邨側工作報告」第十四次、1940年2月25日44と同じ本の222〜223ページ
 46、MIS; Ume Kikan, Espionage Organization, 1944.10.16, RG319 Box1793
 47、OSS, Kunming; Ume Kikan−−Japanese Super Spy Organization, 1944.10,RG226Entry173Box10
 48、武藤富男『私と満州国』文芸春秋、1988年、338〜346ページ参照
 49、山本武利『近代日本の新聞読者層』法政大学出版局、1981年、273ページの表3
 50、内山完造『花甲録』岩波書店、1960年、231ページ
 51、『大陸年鑑』昭和18年版、285〜286ページ
 52、「中国新聞協会準備委員会議記録」(文書番号RG226Entry140Box58Folder469)。この資料の全文の翻訳は今秋刊の『Intelligence』5号(紀伊国屋書店)に掲載される
 53、馬光仁編集代表『上海新聞史(一八五〇―一九四九)』復旦大学出版社、1996年、987〜988ページ参照
 54、益井康一『漢奸裁判史1946―1948』みすず書房、1977年、161〜162ページ参照
 55、前掲11と同じ
 56、刊行会編『電通通信史』1976年、235ページ
 57、嘉治隆一『緒方竹虎』時事通信社、1962年、198ページ
 58、浅野健一『天皇の記者たち−−大新聞のアジア侵略』スリーエーネットワーク、1997年は第3章をインドネシアにあて、バタビア通信員から『ジャワ新聞』記者に採用された谷口五郎や日本、連合軍のプロパガンダに接した作家モフタル・ルビスのインタビューを載せている(70〜115ページ参照)
 59、田辺聖子『女のとおせんぼ』文芸春秋、1987年、62〜63ページ


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