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アーキビストから見た公文書館資料とリサーチャー
         ――文書官ジョン・テイラー氏に聞く
ジョン・テイラー(アメリカ国立公文書館)
聞き手・採録・訳編集:土屋礼子(大阪市立大学)
時:2001年9月10日午前10時〜11時半
場所:アメリカ国立公文書館第二号館

はじめに:

 ジョン・テイラー氏(John E. Taylor)は、アメリカ国立公文書館の文書官(アーキビスト)として五十年以上勤務し、公文書館が所蔵する貴重で膨大な資料、なかでもCIAなどの機密書類の整理と公開に携わり、世界中から来る数多くの研究者やジャーナリスト等の調査を手助けしてきた。その恩恵に対して多くの著書が彼に献辞を捧げてきた。1997年3月には在米日本大使館から日本占領史研究に大きな貢献を果たしたとして栄誉賞が彼に授与されている。テイラー氏は1921年生まれで80歳になるが、現在も公文書館での勤務を続けている。その勤務の合間に、彼の長い経験の一部を話していただいた。

土屋:まず、あなたの経歴についておたずねしたいのですが。アーカンサス大学を卒業された後、1945年に公文書館の司書のお仕事を始められたわけですが、どのようないきさつだったのでしょうか。

テイラー:当時私は大学にいました。私は公務員試験を受け、大学を終えた後、カリフォルニアにいる両親のもとへ帰郷しました。数ヶ月後、公文書館からの就職の誘いを受けました。適格者名簿の中に私の名前があったのです。つまり、公務員の就職勧誘通知が送られた学生の中に私は引っかかっており、私はこの職に合格したのです。それは1945年の夏で、日本との戦争がまだ続いていました。
 私が職に就くためにワシントンDCへ来たのは、1945年の9月でした。私の生涯で初めての公文書館での最初の一週間は、すでに週五日制でした。戦争中は週四十時間労働でしたが、私が公文書館へ来た最初の週には週五日制に戻っていたのです。
 私はずっと書物に興味があり、実際好きでしたので、学生の時に図書館でパートタイムで働いたことがありました。でも高校時代には、私はこのような公文書に行った経験がなかったのです。その最初の日から、私はこの仕事が好きで、それゆえ56年たった今でも私はここにいるわけです。いまだにこの仕事が好きで、新しい文書を見るのが好きで、毎日、新しい人々に会うのが好きだからです。

土屋:あなたは機密文書の公開に道を開かれましたが、それはどのように始められたのでしょう。

テイラー:私がここへ来た当初、たいへん多くの文書が機密扱いで、何年もの間、国家機密の問題がありました。公文書館にはこれらの機密書類をあらためる特別班がありました。この班は、機密文書公開の指針を作成しました。まず、各国家機関による指針が作成されました。陸海軍、中央情報局(CIA)、国務省がそれぞれ指針を持ち、公文書館も機密文書公開のためにそれらの指針に従いました。もし問題が生じた場合には、常にしかるべき関係機関に連絡を取り、文書を調査してくれる者をここに派遣にするよう要請しました。

土屋:機密文書の公開過程にあなたはいつから加わったのですか。

テイラー:私は昇進の機会として、デクラス(機密文書公開担当)と呼ばれる仕事を勧められたのです。私はレファレンス(文書問い合わせ担当)が好きですし、人と話すのが好きです。もし機密文書公開担当でなければ、くる日もくる日も座って文書を見るだけで、一般の人々と接することはありません。私は人々と接するのが好きです。だから、私はそこに座ってやって来る人々と話し、公開された機密文書について教えるという、同じことをずっとし続けてきたのです。

土屋:あなたは文書公開の指針を作成するメンバーの一人だったのですか。

テイラー:指針は国家機関が作成しました。公文書館ではありません。各機関がそれぞれ指針を我々に送ってきたのです。どの文書を公開するかを決めるために、私たちはそれらの指針に従わなければなりません。

土屋:各機関は指針を定める前に、公文書館側と何か相談したのですか。

テイラー:公文書館には常に、各機関から派遣された担当官がいました。彼らは正式な指針の前に、非公式の折衝を行いました。私は最終的にできあがったものを見ただけで、その過程には加わっていませんでした。
 たいへん長い間、我々が国家機密の問題を抱えていた理由は、この公文書館には大量の機密文書があり、特に第二次世界大戦期の記録が大量に、まだ機密扱いとなっていたからです。そこで私は、アメリカ合衆国の各機関が機密に対する規制を解除する以前に、何年もの間、そうした記録を取り扱うために最高機密部門と連絡をとらなければなりませんでした。ほとんどの機関には、公文書館員に対してではなく、調査する一般の人々に対して、当該機関に記録の使用許可を申請する場合の、たいへんきちんとした手続きがありました。これに申請できる人はアメリカ合衆国の市民でなければならず、申請者は直接、国務省や陸海軍などの各機関に自分の請求を送らなければなりませんでした。
 私は国務省の記録文書に大きく関わりました。というのも、国務省の記録文書は、私が公文書館に就職したわずか数ヶ月後の1946年に入ってきたからです。国務省の場合、現在のようになる以前には、調査する人々は、まず国務省から許可を得なければなりませんでした。国務省の文書を調べる人々は、いつも私に手紙を書いてきました。索引と記録を見るための権限を与えるから、申請書を集めて、査読のためにそれを国務省にまわしてほしいと頼んできたのです。いいかえれば、国務省や陸海軍などの各国家機関は、アメリカ市民が文書を閲覧する権利を認めていたのです。私はこれらの申請書すべてを集めなければなりませんでした。そして調査が終わると、私は個人的にそれを国務省や国防省へ持参し、そこで担当官がその申請書を査読し、そして数週間後に彼らはそれを申請者へ直接に公開したのです。陸軍の場合には国務省とちがって、長い間、申請書の査読ばかりでなく、文書の原文の査読も要求されました。実際にそのような手続きで、長い間、運営されていたのです。

土屋:文書官(アーキビスト)として、あなたは文書に関するプライバシーと機密の問題に常に接してきたと思いますが。

テイラー:そのとおりです。機密の問題は国家機関にゆだねられていましたが、プライバシーの問題は公文書館が判断しました。かつていた私の上司は、1900年以後生まれた者については、その人物に関して公表しうる事柄を規制できると言いましたが、彼の後任で来た別の上司は、「ホーホー」と口笛を吹き、もう必要はないと言いました。

土屋:場合によっては、プライバシーと機密の問題がぶつかることもあると思いますが、よければそういった事例について話していただけませんか。

テイラー:まず、この公文書館は、機密文書を占有している世界で唯一の公文書館だということを心に留めておく必要があります。多くの公文書館はほんとうにすばらしいが、たとえば英国公文書館には機密文書はありません。各国家機関がすべてを扱っています。しかし、ここには、非常に限られた人々だけが接することのできる永久に鍵のかかった特別な量の文書がある。ごく少数の人々だけが機密文書に対するあらゆる鍵を手にすることができる。CIAから来る機密文書があり、陸軍から来る機密文書もある。限られた人だけが接することのできる文書もある。
 プライバシーに関しては、第二次世界大戦とそれ以前の文書についていえば、時の経過にしたがって公開しているので、我々は心配する必要はありません。しかし、まだ公開されていない機密扱いの文書があることに我々はより関心を抱いています。これは、ここだけでなく他の国でも時々起きています。日本にもそうした機関があるでしょう。

土屋:機密文書の公開過程とは、どのようにすすめられるのでしょうか。

テイラー:そうですね。我々のところには、食堂でぐらいしか見かけない一団の人々がいます。彼らは、この建物の別の場所で、実質的に閉ざされたドアの中で働いているのです。彼らは一日中、公開すべき文書の査読をしています。彼らは文書館の館員の助けを必要としていますので、我々は国務省からCIAまで、さまざまな国家機関とチームを組んでいます。常にこれらの機関から来た人々がいて、彼らの仕事は文書を検討することです。

土屋:彼らは文書公開の指針をどのようにして守るのでしょうか。また、文書官はどのようにしてその指針を維持するのでしょうか。

テイラー:文書公開の指針は、1970年代初期に始まりました。というのは、当時ニクソンだったと思いますが、大統領が第二次世界大戦期の文書を公開するよう、すべての国家機関にその権限を与える命令を出したからです。その時ほんとうに機密文書の公開が始まったのです。

土屋:国家機関の人々を主とした作業班では、いろいろ衝突が起きたと思いますが。

テイラー:どの国家機関も常時この公文書館内に自分たちの作業班を置いていました。例えば、国務省やCIAです。

土屋:その作業班での文書官の役割とはどのようなものなのでしょうか。

テイラー:国務省関係者の場合、彼らは公文書館内に特別室を与えられ、そこで書類を検討しています。国務省の作業班で一緒に働く人は、たいてい退職した外務関係の役人です。私が知っているそのうちの一人は、ニュー・メキシコ州のアルバカーキに住んでいました。彼は数ヶ月間やって来て、私とともに二ヶ月ほど仕事をすると家に帰り、また戻ってきました。彼は公文書館の特別室にいて働き、文書を査読しました。1970年代には千五百以上の文書箱がありました。彼らはあらゆる文書を査読すると、公開すべき文書を公文書館側に引き渡し、そしてそれらの文書は一般の調査のために公開されるわけです。

土屋:何によって作業班は機密扱いにする文書と公開する文書とを仕分けるのでしょうか。

テイラー:そうですね。公文書館にアーティクル26と呼ばれる最初の文書群が届いたのは、1946年のことだといわれていますが、それは私がここへ勤めに来た数ヶ月後のことでした。その文書群は約800フィート(およそ240m)だけでした。それらの資料は、国務省から来たもので、すべて機密扱いでした。そこで我々は、FBIや国務省、1947年に創設されたCIAといった政府機関と協力して、それらの文書の公開に取り組もうとしました。資料を見ることができるのは彼らだったからです。
 ところが1950年に国務省の文書保存官が私を呼びだして、新しい方針を決定したと告げました。アメリカ市民に文書を閲読する権利を与えるというのです。そこで1950年に最初の文書調査を認められたのは、カソリックの修道女でした。彼女は教会の給与を受けて第二次世界大戦期の援助地域を調べるため働いていました。彼女は私のところへやってきて、関係文書の文章や図面の写真複写を撮り、私はあらゆる種類の申請書を集めて個人的にそれらを国務省の文書保存官のところへもって行き、許可を得ました。
 以来、多くのアメリカ人が調査のためにそうした申請書を用いました。1975年、国務省はそれらの文書にはもはや関心がないと告げました。そこで私はその遺産を受け取ることになりました。数日後、CIAが私を呼びだし、三人の作業班をその夏に派遣して文書をあらためさせると言いました。その作業班は、あらゆる文書に目を通しました。彼らが保有していた約90万枚の索引カードにも目を通しました。この索引カードには、非常によくまとまった文書の概要とデータが、文書の頁数とカード番号とともに記されていました。1946年以降のこれらの索引カードは、いまだにたいへん正確で、私は許されてそれを使っています。
 1975年に国務省はもう関心がないと言ったのですが、CIAから来た三人の作業班はあらゆる文書に目を通し、機密文書の1%以下を留めただけで、ほぼ全部を一般に公開しました。1980年代のはじめまでに公文書館は、900フィート(およそ270m)の文書を受け取りましたが、1946年から1980年代までの道のりは長いものでした。
 1980年代はじめにCIAは、1945年に国務省が入手した以外の、あらゆる第二次世界大戦に関する記録があるが、それらの資料を公文書館に送り込む用意があると言ってきました。そこで1980年代はじめにその作業は始まり、1990年代の半ばまで続きました。その時代の記録文書を彼らは送ってきたものの、そのたびに一部を差し押さえては、機密文書とともにカートに入れて持ち去ってしまいました。
 1997年にCIAは公文書館に対して、第二次世界大戦に関して我々は手を洗いたいので、あなた方のもとへ我々が持っているすべての資料を送る、と言いました。彼らが手元に留め置いていた資料はおよそ300フィート(約270m)で、1997年当時はまだ機密扱いでした。1998年後半から1999年に、CIAはそれらの資料を検分するための作業班を送り込んできました。2000年に我々は文書の一大公開を宣言し、ここで報道発表を行いました。私たちは非公開とされてきた資料、約四万頁を公開したのです。私はすぐさま箱の中の文書を見始めましたが、資料の40%以上がまだ未公開になっているのに気づきました。そこで私はCIAの人たちのところへ行き、そのことについて話しました。私は、「どうしたんです? 40%もの文書がまだ未公開とは。」と言いました。その後、数ヶ月間、我々は働きかけを行い、CIAと公文書館は作業班を編成して多くの文書を検討しました。いつかまた再び大きな文書公開の機会が来ると期待していますが。

土屋:あなたはどうやってそうした文書について学び、調べに来る人たちに助言するための準備をしてきたのでしょうか。

テイラー:そもそものはじめから、公文書館のおかげです。私は何が中にあるのか箱を開けて調べ始めました。そうした文書の箱は、手近に置かれてあったのですが、多くの人はそんなことはしませんでした。これら文書の箱が来ると、人々はそれを棚に置き、やがて忘れてしまう。新しい記録文書がやってくるたびに、私はそれに気づくと、何が中に入っているのか直ちに見ようとしました。
 そんなふうにして、私は「オレンジ」戦争計画、つまり対日戦争計画について発見したのです。合衆国は、多の国々と同じように、戦争計画を練っていました。スペイン語メディアによるインタヴューでも話したように、私が「オレンジ」計画を見つけたのは、公文書館が文書の箱を開けておいてくれたおかげです。しかし、「オレンジ」が何かの暗号であるのはあきらかでしたが、何を意味しているのか、私には全くわかりませんでした。それまで「オレンジ」計画についても、戦争計画についても、何も聞いたことがなかったのです。数日後、私は別の箱を開けました。そして今度は「オレンジ」の代わりに、「日本」とタイプした箇所を見つけたので、ようやく私は暗号の意味を知ったのです。
 その少し後で、私は各国を指し示す暗号の見込みを学んだのです。「オレンジ」は日本、「黒」はドイツ、「赤」は英国、「キャンプ」はカナダといったぐあいにね。

土屋:つまり、あなたは自分で勉強したわけですね。誰かあなたに教えてくれた人がいたわけではないのですね。

テイラー:そうです、私は多くを自分自身で学んだのです。戦争計画の場合、私は後になって多くを知るようになりました。オレンジ計画の概念は、スペインとの戦争以前の1890年代のアメリカ入植者たちを思い起こさせます。しかし、それが公式になったのは1910年頃で、以後、時々改訂されました。それは共産主義に対する抑止のためだったと述べられています。実際に私はこのオレンジ計画に関してアメリカで働いていた一人の男性を知っています。彼はこのオレンジ計画を日本語に翻訳しました。
 ところで、この計画が策定されていた1917年から1941年の間、1920年代における日本との同盟を定めていたオーストラリア協定があった時代に、日本の人々は皆、アメリカとの来るべき戦争に関する小説や物語を読んでいたのです。私はこのことを何年か前に知りました。私はこうした筋の小説を読んだことがありません。日本人の友人は、なぜ1920年代のフィクション作家が、同盟協定があるにもかかわらず、来るべき日米戦争について小説を書くことができたのか、と言いました。一方、同時期の資料の中に、アメリカのフィクション作家が日本との戦争について書いたものを見たことがありません。しかし、カリフォルニアやオレゴンやワシントン州からの報告書は数多くあります。それらには近所に住む日本人たちが明記されています。それは1920年代のことでした。
 1970年代初めに公開された別の文書の話をしましょう。それはCIAの機密文書で、日本の暗号傍受に関する記録を含んでいました。米国は1940年に日本の外務省の暗号を解読していました。日本の外務省は1939年に、米国が「赤」と読んでいた暗号から、米国が「紫」と読んだ独特な暗号に変更していました。1975年に公開された文書に関して、公文書館の報道担当官がワシントン・ポスト紙に重要文書だと話した。それを聞いた記者は私の机へ戻ってきて、まずこう言いました。「第二次世界大戦に関して公開された文書について、ワシントン・ポスト紙に記事を書いていただけませんか。例えば、この時期にスペイン人が操っていた連絡網などについて。」そして彼は一週間を費やして日本人に協力していたスペイン人の暗号傍受に関する文書に目を通した。こうして、我々は日曜版の第一面に六段抜きの記事を発表した。これには、国内ばかりでなく、欧州からも反応が多く寄せられた。スペインでは当時の外交官がまだ存命で、そんなことは決してなかったといってきた。私にはそれが真実かどうかはわからない。しかし、さらに多くの証拠が出てきた時、とうとう彼は「私は関与していた」と認めた。

土屋:四百冊以上の本の中で、多くの著者があなたに献辞を捧げています。あなたはまた、この公文書館へ来た多くの日本人を覚えていると思いますが、初期の頃、調査に来た日本人たちについて話していただけませんか。





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